ブログ 条約改正への道のり
日本は諸外国からの開国を求められて1858年に米露蘭英仏とつぎつぎ通商条約を締結した。遡ること1854年にはペリー提督率いる黒船の圧力に屈し、補給の利便性を重視した日米和親条約(片務的最恵国待遇)を結ばざるを得なくなった。その後、下田に駐在したハリスから通商条約の締結を強く求められ、老中堀田正睦(まさよし)は列強との戦争を避けるために孝明天皇からの勅許を得ようとするが失敗。1858年にはアロー戦争(第二次アヘン戦争)で清が英仏に敗れ、その二の舞になってはたまらんと大老井伊直弼は勅許を得ぬまま日米修好通商条約を結ぶこととなる。井伊は2年後桜田門外の変で攘夷派に暗殺されたが、治外法権(磔や打首を目撃した外国人がこれを主張するのは無理からぬこと)、関税自主権、先の片務的最恵国待遇といった不平等条約が長く残ることとなった。 一度締結した不平等条約を改正する道のりは並大抵のことではなかった。明治維新を経て岩倉具視外務卿等が条約の期限切れを前に1872年に、条約改正に必要な近代国家への足掛かりを目的に欧米へ視察を行った。各国の元首に国書を手渡したものの、条約改正の糸口は掴めなかった。逆に欧米各国の...
