任侠いずこへ

2020年10月3日 at 9:00 AM

「ladies and gentlemen きょうから変わりました 日本航空」という記事が一昨日載っていた。日本航空が機内などで英語でアナウンスをする際に使ってきたお馴染みの「ladies and gentlemen」という呼びかけを、10月1日から性別を前提にしない表現に変えることになったという。新たな英語のアナウンスの表現は「Attention, all passengers」や「Good morning, everyone」などになるそうである。日本航空内では「なぜ英語のアナウンスは男女前提なのか」という疑問に始まり、LGBTQの人たちに配慮する動きの一環と見て取れる。マイレージ会員向けに発行されるカードの性別表記もなくしたそうである。「お客様は一人一人違うということを根底に」という考え方に異論はないが、かといって男女を区別する便利な総称があるにも関わらず、一部の少数派に配慮しすぎて多数派がかえって息苦しい思いをするのもどこか違う気がする。

そもそも「ladies and gentlemen」とは女性に対しても男性に対しても用いられる尊称であり、かつladiesを前に置くことによって相対的に肉体的かつ社会的に弱者であった女性への格別の配慮の表れであると私は認識していた。しかし、その前提になるであろう「ladies first」を調べてみると、私の認識とは全く異なる歴史的背景があったことを知った。それは古くはヨーロッパ上流階級における淑女のマナーであり、「教会の扉や門は男性より先に女性が潜り抜けて、魔よけや安全を確認する」「食堂では男性より先に女性が用意・着席し、男性を出迎える・待たせない」「食事は男性より先に女性が終わらせて退出し、男性の食後の談話に加わらない」「女性は男性より先に起床し、朝の身支度を終えて出迎える」など、今で言えば男尊女卑とも言える慣習のしきたりであったことがわかる。筆者が「ladies first」を聞くような時代になっては「道路を男女で連れ立って歩く際は車道側を男性が歩き、女性を事故や引ったくりから守る」「扉は男性が開け、後に続く女性が通りきるまで手で押さえて待つ」「自動車などの乗降の際において、特に女性がロングドレスにハイヒールという装いならば、運転する男性が助手席に回ってドアを開閉する」など、男性が女性にとるべき紳士の行動として定義され、女性を幇助すべきという紳士のマナーであるとの認識は、Wikipediaによればこれらはフェミズム運動以降のマナーとの混同だそうである。

女性史家の中には、「女性が何も出来ないから男性がしてあげる」という考えこそ女性に対する差別であって女性蔑視と捉える者もいる。私の経験からすれば、Majorityの女性が既述の「ladies first」文化を気持ちよく快く受け止めているのではないかと思っている。パワハラ、セクハラ、今流行りのxxセラも全て受け手の気持ち次第と言われる。それはそれで結構だが、相手の心持ちも同等に大切なのではないか。同じ言動でも心の中にある動機や意図がより重要であろうし、同じ言動であっても好感を持っている人からのものと、そうでない人からのものでは全く異なる印象を受けるのも生身の人間の正直な姿であろう。自分の心持ちしか判断基準にできない人は良い意味での「忖度」を欠いている。つまり何でもかんでも自分中心に考えてしまう人は、人間にとって大切な「思いやり」を欠いている。

時代は遡るが、「任侠の世界」には正義があった。コロナ禍にあって今人気絶頂の講談師「6代目 神田伯山」の講談を聴くようになり、昔の任侠の世界には泣かせる話がいくつもあることを知った。有名な侠客には「国定忠治」や「清水次郎長」などが挙げられよう。誰しも一度は名前を聞いたことがあるでしょう。任侠を一言で言い表せば、「弱きを助け強きをくじく」ということです。チンピラの悪行やヤクザ映画における抗争とは全く違います。お二人とも鬼籍に入られましたが、銀幕のスターで言えば「鶴田浩二」や「高倉健」が演じたような人たちです。「菅原文太」を挙げる人もいますが、ちょっと私の好みとは異なりますm(__)m。勿論、覚せい剤・闇金融・恐喝・賭博・売春・人身売買などに手を染める現代の暴力団は任侠とは真逆の存在です。しかし、一部にはすべてやくざ者と定義してしまい同一視してしまう方々がいるのはとても残念なことです。

「任侠道」は「武士道」ともつながり、「武士道」は武士の中に現れ、「任侠道」は庶民の中に現れる。圧政や無法地帯から庶民を守る正義の味方で、法に頼ることのできない時代にあって、庶民間における義理や人情を重んじることがその柱である。義侠心や男気という言葉はヤクザ映画やそれを茶化したバラエティ番組でしか聞かれない言葉となってしまったが、強きが弱きを助ける美学が確かにそこにはあった。強きが強きに取り入り、弱きをさらに挫く構図があるとすれば、弱きは殊更に声を上げ、自分の存在と主張を受け入れよと大衆に迫る。強きが弱きに歩み寄らなければ、格差は拡大するばかりで、今現代に起きていることそのままで対立が激化していくことになってしまう。生きるために強きに摺り寄る弱きもいるでしょう。弱きを三下扱いして顎で使う強きもいるでしょう。しかし、多くの日本人はそれを良しとはしないでしょう。なぜなら、それが弱き者を支える心中の最後まで守るべきささやかな自尊心だからである。強きには強きの持てる者としての振る舞いを、弱きには弱きの持たざる者としての矜持を、今の世の中にこそ復権して欲しいと思う。