イスラエルとレバノンの武装組織ヒズボラの間では11月27日に「攻撃的な軍事作戦」を禁止する停戦合意が発効したばかりだったが、イスラエルは停戦合意後の28日にも空爆を行い、早くも米仏が仲介した停戦合意の脆弱性が浮き彫りになってしまった。
ガザ地区での戦闘は1年を超え、死者も4万人を超えた。ウクライナ・ロシアの戦闘では10万人以上が死亡し、死傷者は100万人を超えるという。何という愚かなことであろうか。
第二次世界大戦で日本は独伊と三国同盟を結び、連合国側と各地で戦闘を行った。イタリアは早々に降参し、最終盤では独日に宣戦布告を行っている。
第二次世界大戦における死者数は4000~5000万人と推定され、日本は310万人、ドイツはそれ以上の死者を出している。
ドイツと日本の敗戦後、多くの民間人は戦争終結にホッとしたことであろう。
現在進行中の戦闘下にある民間人の置かれた精神状態を想うに、早期の戦争終結を願うばかりである。
敗戦により日本は台湾、南樺太、朝鮮半島などの属領を失い、事実上統治下にあった満州を含むと領土の約80%を失った。いわゆる外地には当時の日本人の1割に当たる660万人が生活を営んでいた(内訳は:満州・朝鮮半島北部・樺太に272万人、中国・台湾に200万人、フィリピン・朝鮮半島南部に99万人、東南アジアに75万人、オーストラリア・ボルネオに14万人、合計660万人)。
当初帰国が出来たのは、その半数程度。着の身着のままに外地から帰国した国民は雨風をしのぐ住処もなく、国民学校を占拠するものも大勢いた。ソ連では帰国を許されず、60万人がシベリア抑留の身となった。その一割は強制労働・寒さ・飢えで帰らぬ人となっている。1946年12月から帰国が開始されたものの、共産主義教育を施されたとみなされた帰国民は、時のレッド・パージの嵐に遭い職にあり付くことが困難であった。8年間抑留された者にして、帰国後の3年間の方が辛かったと当時を振り返って語っている。
満蒙開拓団27万人を含む満州からは205万人が帰れず、モラルを失ったソ連兵による強姦略奪暴行が彷徨い惑う日本人に襲い掛かった。のちにスターリンは「これで日露戦争の雪辱を果たした」と高らかに宣言している(1945.9.2)。 中国では残留日本人が1万人。多くの日本人が中国で養子になったり、結婚するなどして家族を持った。帰国が可能になったのは1972年日中国交回復がなされてからである。しかし折角帰国できても日本語を忘れている者、1959年に制度化された戦時死亡補償金制度によって親族から死亡処理され戸籍抹消されている者、連れ合いが新しい伴侶を日本にもうけているため受け入れを拒否される者、帰国者には様々な苦難が待ち受けていた。
日本政府は住まいや職がない帰国者に6000カ所の開拓地を提供したが、多くの土地は痩せていて農耕地には適さず、6年間やってなんとか食べられるようになる程度、移住した10万世帯の半分は離農してしまった。さらに日本政府は生活に困窮する帰国者向けに1950年代以降南米への移住政策を推進した。漸く帰国できた日本を諦め、3度目の移住に挑戦する家族も数万人に及んだ。
日本で何とか歯を食いしばって瘦せた土地を開墾して生計が安定し始めた家族にも不幸が襲う。朝鮮戦争が始まると警察予備隊の拡充を理由に多くの土地が接収されてしまう。のちの筑波学園都市、青森六ケ所村、福島第一原発、成田空港などはこうした開拓地を接収して土地確保が行われたものである。
スターリンが満州から撤退したのは1946年4月。その後の満州は国共の陣取り合戦の場になり、都市部は国民党、農村部は共産党に支配されるようになる。多くの日本人は都市部を目指して、数百キロの徒歩による移動を余儀なくされた。その間に17万人が命を落としたとされる。1週間飲まず食わず、掃射により子供を失い、空き家に捨てて去ったとの証言には涙が込み上げる。満州からの引き揚げは1946年5月からアメリカと国民党の協力によって始まり、3年間で205万人中104.6万人が葫蘆(コロ)島から佐世保を経て帰国を果たした。その中には7歳のちばてつや、8歳のなかにし礼がいた。引揚援護局ではソ連兵による強姦で望まぬ妊娠をしてしまった妊婦の中絶処置が行われた。物資欠乏により麻酔無しの中絶者は500人を数えたという。帰国を果たしても当然家はなく、親戚から厄介払いされた孤児は「みなしご」となり、言葉はわからない、学校に馴染めない、差別される、いじめにあう、仕事に就けない、結果アウトロー化して同じ境遇の者同士がつるんで不良化する。かように戦後の後始末は戦時よりも長引くことを戦争に走る為政者はもっともっと知るべきである。
ナチス・ドイツのヨーロッパ占領地域はチェコスロバキア、ポーランド、フランス、ベルギー、バルト諸国、ノルウェー、デンマーク、セルビア、ギリシャ北部、東欧に及んだ。第二次世界大戦の敗戦により、ドイツは戦前の領土全体の四分の一に相当する東方領土を失うこととなった。このため、中東欧に住む約1500万人のドイツ人が強制的に移住を迫られ(追放)、苦難の道を歩むことになる。
ポーランドのワルシャワがナチス・ドイツから解放され、ポーランド人によるドイツ人への報復の暴力が始まった。かつての収容所にドイツ人を収容し、ドイツ人同士を戦わせ、殴り合いや殺し合いを強制した。またホロコーストの犠牲者の墓を女子供に掘り返させて、顔面を腐った死体に擦り付ける非人道的な行為を行った映像も観た。チェコスロバキアではドイツ人の額に鉤十字を刻み、強制労働に従事させている。財産を奪うのみならず、銃殺によって8万人の命が奪われた。強制移住は1946年1月から開始され、それを拒んで自殺した者、ユダヤ人輸送に使われた貨物列車にぎゅうぎゅう詰めにされ、目的地に着いた頃には1車両に10人の死体、錯乱状態の者、身動きが取れず汚物まみれとなった車内。歴史上最大の国際移住とされている「追放」の実態である。徒歩で移住した者は、日本で起きたことと同様に、途中で略奪強盗強姦がなされ、過酷な状況下で数十万〜200万人が死亡したとされている。命からがら移住先に着いたとしても、そこに住居はなく、冬は極寒の暮らしと飢えが待ち受けていた。馬の死体に群がって飢えをしのいだ者、配給が少なく略奪も横行する。綺麗ごとでは生き抜けない世界がそこにはある。
1949年にドイツは東西に分断され、追放されたドイツ人のうち、西ドイツには800万人(全人口の1/4)が移住した。そうした者の中には昔から周辺国に移住していたドイツ人家族もおり、言葉に不自由な二流国民と見なされ、多くは安い賃金で工場労働者となった。しかし皮肉なことに、結果的にはこれが西ドイツの経済復興に尽力した面がある。
東ドイツに移住したのは400万人(全人口の1/5)。政府としてはポーランドも東ドイツも共産主義を旗印にするソ連衛星国であるが故に、表面的には友好を装うことが推奨された。追放されたドイツ人は東ドイツにおいては、外国人扱いされないよう皆が沈黙を保っていたという。多くは鉱山労働や農業に従事したが、毎日2000人が東から西への逃亡を図り、累計では200万人が西ドイツに逃れた(そのうち1/3は追放されたドイツ人)。
ナチス・ドイツによる600万人ものユダヤ人大虐殺が公になったのは1963年に始まったアウシュビッツ裁判である。これにより多くのドイツ人がその事実を知ることになる。600万人の大虐殺と1500万人の追放を比べる意味もないが、戦時中・戦後において多くの民間人が犠牲となり、苦難の道を歩まざるを得なかったことは人類史における大きな悲劇である。そしてこの悲劇は人間によってなされたものである。1990年に東西統一が実現した折、チェコ大統領はその記念式典で戦後の人権蹂躙をドイツ国民に謝罪した。収容所でドイツ人同士の殴り合い・殺し合いを主導したポーランド人所長はのちに訴追されている。
現代でも民族が分断されている朝鮮半島や、国を持たず各地に散らばった民族も少なくない。民族間対立や宗教対立によって民間人や特に幼気な子供が生死を彷徨う様な状況を解決に向かわせる努力を政治家や宗教家には求めたい。綺麗ごとではなく、外交努力や宗教対話によって将来に明かりを灯して欲しい。いかなる状況においても人殺しは正当性を持たない。今すぐ戦闘を止めてほしい。
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