シーパワー(Sea Power、制海権)という概念はアメリカの海軍少将・歴史家であったアルフレッド・セイヤー・マハンが1890年に「The Influence of Sea Power upon History, 1660–1783」で提唱したものである。それに呼応する形で、イギリスの地理学者・政治家であるハルフォード・ジョン・マッキンダーが「The Geographical Pivot of History」(1904年)という論文(のちに「民主主義の理想と現実」として書籍化)でランドパワー(Land Power)の重要性を説いたことが、その原型と言える。以降、海洋国家と大陸国家の特徴及び、それぞれがどのように国家の繁栄と安全保障に関わるかを論じた書籍が数多く出版されている。
海洋国家の特徴は、海が天然の城壁となり侵攻を受けにくいことから、海運と交易を基盤に自由貿易体制を維持し、繁栄を図ることを基本に据えている。その結果、交易を通じて多様な文化や情報が入ってくるため、比較的開放的で柔軟な社会・文化が形成されやすいとされる。(例:イギリス、日本、アメリカ、イタリア、ノルウェー、オーストラリアなど)
一方、大陸国家は陸地に囲まれた立地で地続きのため、侵攻を受けやすく、防衛が脆弱にならないよう国境防衛を重視する。結果、陸軍力を強化し、領土の拡大や支配を通じて国力を高める覇権主義を志向する傾向が強い。さらに、国境を接する多様な民族との関係から、統一性や中央集権的な統治が重視される傾向があるとされる。(例: ロシア、中国、フランス、ドイツなど)
1国が強大な海軍力と陸軍力を併せ持つことは非常に難しい。なぜなら、①大陸国家がシーパワーを求めて海洋進出を試みると、海洋国家が既存の権益を守るためにそれを妨害する(今の中国における台湾統一は海洋進出のための橋頭保、安倍総理が2016年に提唱した自由で開かれたインド太平洋(FOIP)は海洋国家群に将来成長が期待されるインドを巧みに組み込んだ対中構想)。②強大な海軍力を築くには、高度な造船技術と錬度の高い人員が必要であり、そのためには長い時間と莫大な費用がかかる(米国は対中戦略上慌てて日本や韓国に造船技術の支援を要請中)。③海洋国家が強大なシーパワーだけでなくランドパワーを国力の基盤とするために領土を強引に拡大したとしても、その領土と各パワーを維持することが容易ではない(アメリカの駐留軍費用の負担を駐留各国に求めている、あるいは軍事費の対GDP比を上げよと主張)。今のアメリカは両パワーをほぼ実現している超大国ではあるが、陰りが見えていることも事実である(前月ブログ「大国の衰退」ご参照)。それに満を持して挑戦を試み始めているのが中国である(挑むというより現時点では、太平洋を挟んで西を中国が、東をアメリカが分割管理しましょうという考えで、習近平主席は真顔で2013年オバマ大統領に提案していた)。
日本は島国で典型的な海洋国家である。海洋国家が繁栄を築くためには、オフショア・バランシングといって同盟戦略を通じて大陸国家との勢力均衡を図ることが基本である。大陸国家の代表格である中国やロシアと正面から向き合う日本は、同質な海洋国家との同盟関係を通じて、グローバルな通商路を確保し自由貿易体制を堅持していく姿勢が最も大事である。それを踏まえた上で、海洋国家日本としての同盟関係の歴史をひも解いてみたい。
日本は1902年(明治35年)にイギリスと日英同盟という軍事同盟を結んだ。ロシアの東アジア進出に対抗し、互いの中国・朝鮮半島における権益を守ることを目的するものであった。
イギリスは清、日本は清と韓国における特別な権益を相互に承認し合い、一方の同盟国が他の一国と戦争になった場合、もう一方は中立を維持するが、もし第三国が参戦した場合は、同盟国を助けるために参戦するという、現在の集団的自衛権の原型とも言えるものであった。
日本は日英同盟を背景に、ロシアとの開戦(日露戦争)を決意し辛くも勝利を得て、外交的に優位に立つことができた。その結果、イギリスは極東の海軍力を欧州に集中させることが可能になった。日本が第一次世界大戦にイギリスの同盟国として参戦する根拠となったのも日英同盟である。その後、2回の更新・改定がなされ、同盟の性格は防御同盟から攻守同盟へと強化され、適用範囲も拡大されていったが、第一次世界大戦後にワシントン会議で四カ国条約(日米仏英の4カ国が、太平洋地域の島嶼に関する現状維持と互いの権利尊重を約束した条約)が締結されたことにより、20年間の日英同盟関係は失効してしまう。
日英同盟破棄の背景には、第一次世界大戦後、太平洋地域に進出してきたアメリカが、ハワイとフィリピンの間に位置する南洋諸島が日本の委任統治領となったことで、日本を自国の安全保障に対する脅威と感じ始めたことにある。つまり、将来的に日本との間で太平洋を巡る衝突が起こった場合に、日英同盟によってイギリスが日本側につくことを警戒した訳である。
イギリスは友好国であるアメリカとの関係を日本との同盟よりも重視し、アメリカ国内の反英・反日感情を和らげるためにも、日英同盟の解消が国際協調の観点から望ましいと判断するに至る。戦後、債権国として圧倒的に力をつけたアメリカに対して、イギリスとしては当然の判断であろう。
当時のアメリカの日本に対する感情は、東アジア系移民に対する差別や排斥の動きが根強く存在し、日系移民に対する法的制限や社会的な反感が、第一次世界大戦後も続いていた。しかも、日本が第一次世界大戦中に中国大陸や太平洋地域で勢力を拡大したことは、アメリカの権益と衝突し、特に日本の「対華二十一か条の要求」や山東半島権益問題は、アメリカの警戒心を強めることとなった。
アメリカは、日本の影響力を削ぐためにワシントン会議(1921-1922年)を主導し、太平洋地域の平和維持を名目とした四カ国条約によって日英同盟を破棄させることに成功する。1924年に制定された排日移民法は、特定の国籍(特に日本)からの移民を制限するもので、これはアメリカ国内の強い反日感情の表れであり、日米関係悪化の大きな要因となった。
第二次世界大戦における日本の無条件降伏を経て、日本とアメリカは1960年に日米安全保障条約を結び、海洋国家アメリカと新たに日米同盟関係を築くことになる。その後、日本は奇跡的な経済復興を遂げるが、日英同盟失効から太平洋戦争に至る1923年から1941年の日本は海洋国家との同盟国不在期間であった。その間に軍部独走(関東軍の暴走を陸軍本部が制御できず、下述する佐官級の将校によって引きずられ、最後は後戻りできないところまで追い込まれる)とメディアの煽りによる国民熱狂から泥沼、そして国際的孤立を深め包囲網を敷かれ、最後は原爆投下という奈落の底へ突き落されることになる。
日本の転落への経緯を簡単に振り返ると、1928年の張作霖爆殺事件では、関東軍の河本大作大佐らが主導し満州の実権を握ろうとした(陸軍出身の田中義一総理の軍部への甘い判断が天皇陛下の怒りを買う)。
1931年の満州事変では、満州の実効支配を強めるため、関東軍が柳条湖事件(自作自演の鉄道爆破事件)を口実に武力行使を開始。1932年に満州国を建国(清朝最後の皇帝・溥儀を元首とする傀儡国家)。満州国樹立が国際連盟に否定されたことを受け、国際連盟を脱退(1933年)。国際的孤立が深まる中、「満蒙は国家の生命線」と称し、満州の権益拡大を狙って、中国への侵攻を継続(盧溝橋事件で日中両軍が衝突)し、これをきっかけに全面的な日中戦争へ(日本政府は「支那事変」と呼称)と突き進むことになる。
日本は当初、短期決戦を想定していたが、中国国民政府の激しい抵抗により戦線は拡大・長期化し、泥沼化してしまう(大体の戦争はこうなる)。この長期戦が、国内経済を圧迫し、資源獲得のために東南アジアへの進出を促す要因となった。日本の中国大陸やフランス領インドシナ(仏印)への侵攻に対し、アメリカ、イギリス、中国、オランダ(ABCD包囲網)などの連合国は、石油禁輸などの経済制裁を強化。
日本は事態打開のためアメリカと交渉を続けたが、アメリカは日本軍の中国・仏印からの全面撤兵などを求める「ハル・ノート」を提示(日米交渉の決裂)。これを最後通告と受け止めた日本政府・軍部は日米開戦を決意。近衛内閣が退陣し、東条英機内閣が成立。1941年12月8日(日本時間)、日本軍はハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊基地を奇襲攻撃し、イギリス領マレー半島にも侵攻して、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まった。その結果は皆さんご案内の通りである。
石橋湛山は1918年(大正7年)「一切の植民地を放棄せよ」という論文を発表し、「小日本主義」を提唱した。彼の姿勢は戦時中も一貫して変わらず、武力による海外膨張政策や植民地獲得は経済的に非効率であり、国際的な地位を損なうものだと批判していた。日本が植民地を失っても、自由貿易によって世界経済の中で活動すれば、最終的に日本の利益となり、国際社会で指導的な立場を築くことができると説いた。まさに海洋国家日本の本質を言い当てていたかのような慧眼である。アメリカ合衆国など諸外国との協力を肯定し、国際協調政策こそが日本の国益に資すると考えていた。石橋湛山は戦後わずか2か月(1956~)ではあるが、首相の座につく。石橋は中ソとの国交回復を主張してアメリカから猛反発を受け、親米派の岸信介にその座を譲り渡すことになる。その岸は命懸けで60年安保を自然承認させ退任する。
思えば、第二次世界大戦に大陸国家であるドイツ(ナチ党ヒトラー)と組んだのが失敗だったかもしれないが、歴史を振り返ってみても現在の日米同盟は海洋国家日本繫栄の礎とも言える関係であると断言できる。TVコメンテーターの某氏が言うような日本が東アジアの安定と繁栄にどう寄与すべきかという主張は美しく響くが、まさにこのような歴史観に基づく世界的視点を欠いた的外れな発言としか言いようがない。軍拡に直走る大陸国家の中国と海洋国家の日本が将来同盟関係になることはあり得ない。あるとすれば、それは大昔の朝貢(冊封)関係であったり、属国としての隷属関係といった存在しかありえない。日本は太古から中国文化を多く取り入れてきたが、常に一線を画して、その対等な関係を保ってきた国であることを忘れてはならない(上述の同盟国不在期間を除いて:ここは大いに反省すべき点である)。厩戸皇子(後世の聖徳太子)は、607年(推古天皇15年)に遣隋使の小野妹子に託して隋の皇帝に次のような国書を送った。「日出処(ひいずるところ)の天子より、日没処(ひぼっするところ)の天子に書を送る、恙無きや(つつがなくお過ごしでしょうか)」と。


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