成田から仁川経由でカザフスタンの旧首都アルマティ空港に到着した。航空会社はアシアナ航空だが、来年にはこの便はなくなり、カザフスタンの航空会社であるエア・アスタナが日本との直行便を運航するらしい。そうなれば、日本と中央アジアの距離感は物理的にも心理的にもグッと近づくものと思われる。
カザフスタンは中央アジアの大国で、面積は世界No.9、人口は1900万人で、石油や天然ガス、ウラン等の資源に恵まれGDPにおいても中央アジアの60%を生み出す、比較的裕福な国である。ユーラシア大陸の中央部に位置し、南西は世界最大の湖カスピ海に面しており、アクタウは唯一の不凍港である。国土の大部分は砂漠や乾燥したステップ(草原)であり、草原国と言っていい。人口の7割はイスラム教スンニ派で、飲酒はOKなことから「なんちゃってムスリム」と言えなくもない。17%ほど居るロシア人は主にロシア正教信者であり、モスクと教会の数も人口構成を表しているように感じる。
翌日、最もシェアを取っていると思われるHyundai製のSUVをいかついロシア人ドライバーの運転で北西に180㎞走り、タムガル峡谷へ向かう。紀元前14世紀以降に数千年に渡って描かれた約5000点の世界遺産である岩絵(山ヤギ、カメ、サソリ、馬、牛。。)を見るだけでなく、なんと触ることができる。2004年にユネスコ世界遺産に登録されているが、ほとんど人気もなく管理もされているとは言い難いところである。周辺には鋭利な形の石が沢山あり、この石で掘ったものが多いと思われる。それにしても3500年前のものとはにわかに信じがたい。その日のうちにキルギス国境を越えて、首都ビシュケクの宿にたどり着く。国境を境に車とドライバーは変わり、穏やかなキルギス人ドライバーと新型Hyundai車に変わる。
キルギスの面積は日本の半分ほどで、人口は700万人。9割がイスラム教スンニ派で国土の90%が標高1000m以上、40%が標高3000m越えという山岳国家。中央アジアではタジキスタンに次ぐ貧しい国である。そんな背景からか、ロシア語を公用語にして、優秀なロシア人の頭脳流出を食い止めているようではあるが、さしたる産業もなく、ロシア人は減少傾向と聞いた。ウズベキスタンは逆にソ連時代からの脱却を目指して、ロシア語を公用語から外している。
以前、エチオピアかどこかのアフリカで誘拐婚をやっている番組を見て驚いたが、ここキルギスでも田舎ではいまだ誘拐婚(アラ・カチュー)が行われているそうである。キルギス人現地ガイドが子供のころは7割くらいが誘拐婚だったそう。街中で可愛い子を見つけたら、その娘を誘拐してしまう。その後に誘拐した男と、その両親が羊一頭を連れて謝りに行って、羊一頭を差し出すことによって結婚を許してもらう。同行の女性陣の怒りの表情が見ずして分かりました。
3日目、西に約50㎞行くとアクベシム遺跡がある。ここは10世紀ごろまで栄え、キリスト教の教会や墓地、仏教寺院、ゾロアスター教徒の納骨堂、ソグド語やウイグル語の碑文、中国風の城壁、テュルク系民族によって作られたバルバルという石人などが発見され、遺跡からは多くの仏像も出土されている。多くの日本人や中国人にとっては玄奘三蔵法師が立ち寄ったとされる土地であることが魅力であろう。玄奘三蔵は当時唐王朝が成立して間もない時期に、国内の情勢が不安定だった事情から出国の許可が下りなかったため、国禁を犯して密かに出国を決意した。役人の監視を逃れながら成都から天山山脈の西側を通って、この地アクベシムを経て、インドに向かったとされる。経典を持ち帰るまでに17年を要し、帰国後も亡くなる直前まで20年近く翻訳活動に没頭していたというが、膨大な経典の3分の1しか翻訳できなかったと伝わっている。しかし、経典群の中で最も重要とされる「大般若経」の翻訳を完成させ、インドへの旅を地誌「大唐西域記」として著している。
4日目は琵琶湖の9倍の大きさを誇るイシククル湖を経て、西のカラコルへ。ここにはドゥンガン・モスクという回教の釘を一本も使わない木造の宗教施設がある。色鮮やかな三角屋根が三つ連なる独特な形状をしている。ドゥンガン・モスクは1907 年から 1910年まで中国から移り住んだドゥンガン人(中国のイスラム教者)の建築家と20人の職人により建築されたが、1933 年から1943年までボルシェビキによって閉じられていた。今はイスラム教のキルギス人やウイグル人もこのモスクに礼拝しに来ている人が多いようである。多くの宗教的対立を生んでいる土地もその昔は仲良く共存していたと聞く。現在の対立を生んでいるのは内圧なのか、意図的な外圧によるものなのか、複雑すぎる難題である。
5日目はカラコルから国境を越えて、カザフスタンに戻り、チャンリン・キャニオンというミニグランドキャニオンを臨む。トイレは穴があるだけの簡素なもので、使用するにはかなりの覚悟が必要だが、一帯は常に乾燥しているので、臭いはきつくないのが救い。キルギスからカザフスタンに入る時も車を降りて、荷物全部持って徒歩で入国審査に向かったが、今度はその逆。車は初日の旧型Hyundai製SUVとロシア人ドライバーに戻る。
現地ガイドに言わせるとカザフスタン入国の方が厳しいので、気を引き締めて行きましょうとの言。ガイド自身の厚さ10㎝もあろうかという二つ折りの財布をツアー同行者の老婦に預け、入国審査に向かう。迷彩服のライフル銃を持った兵士に握手を求め、にっこりと笑顔を見せて、通り過ぎる。その握手の隙間から紙片を見た私は通過後「いくら握らせたの?」と訊いてみた。現地ガイドはあまり触れてほしくない話題を振られたという表情を見せたが、一呼吸おいて「3000円くらいです」と答えてくれた。
道中、中国企業によって道幅が拡張された高速道路を時速130㎞超えているのではないかと思われる猛スピードの車がいたので、「スピード違反はないの?」と訊いたところ、「ありますよ、でも賄賂でどうにかなります」とのこと。常に賄賂が効果的かはわからないが、その賄賂の相場も3000円と言っていた。罰金が12000円くらいだとすれば、十分安い。
6日目はアルマティ郊外のシンブラクというスキーリゾートに向かう。ロープウェイを3回乗り継ぎ40分かけて3200mまで登頂。ドローンを飛ばしている人達がいた。同行者の女性は高山病になったのか、その後真っ青を顔になり、夕食時は寝ているだけとなってしまった。
下山後、市内のパンフィロフ公園に行き、決死でモスクワを守った28人の戦士を記念して造られた巨大な鉄造モニュメントを見た。ここでは第二次世界大戦とは言わず、ドイツを破って祖国ソ連を守った大祖国戦争と位置付けられている。
パンフィロフ師団は主にアルマティとビシュケク出身の若い兵士たちによって結成された。彼らの多くは軍事経験がなく、1941年末にはヴォロコラムスク方面の最前線に配置され、圧倒的に不利な状況の中で、1か月以上にわたりドイツ軍と戦い続けた。特に1941年11月16日、第316歩兵師団の数十名の兵士が、4時間にわたりドイツ軍の戦車部隊を迎え撃ち、50台の戦車のうち18台を撃破した。この戦いは、ソビエトの歴史記録に「パンフィロフの28人の衛兵の偉業」として刻まれている。ソ連時代の全ての教育機関の歴史教科書に掲載されることになった。結局、パンフィロフ師団は敵の進軍を食い止めたものの、そのほぼ全員が戦死した。墓には永遠に火のとだえることのない無名戦士の名が刻まれている。日本の靖国神社に通じるものがあると感じた。
道中、ずっと同行してくれたキルギス人現地ガイドは35歳で二人の男の子の父親だという。自身は男の子4人兄弟の長男で、貧しい時代を過ごしている。日本語は堪能で、全て独学という。日本には一度だけ旅行したことがあると言っていた。「おふくろ」はどういう時に使う言葉?など2~3なかなか的確に答えるのが難しい質問を受けるほど勉強熱心。兄弟の稼いだお金は全て母親に預け、母親はどこかに穴を掘って、ツボの中に隠しているそうだが、在り場所は母親しか知らないとのこと。なぜ銀行に預けないのかと問うと、銀行は信用できないと。銀行の責任者が客の金を持ち出して、国外に逃亡したことが1度や2度ではないと聞かされた。なかなか日本人には理解できかねる国情だ。今年両親を日本に招待するという親孝行な長男。弟がやっている物流業にもう一台大きなトラックを買うんだと誇らしげに言っていた。確かに中央アジア全体に人口は増え、経済も成長し、中国やロシアなど周辺国との交易も盛んで物流業は大いに期待できる。モノと距離にもよるだろうが、国境を越えて一回運ぶと100万円くらい稼げるという。稼いでレクサスを買いたいと希望を語る。
色々な会話で驚いたのは、「私はヒトラー大好き、裕仁大好き!」という言葉を何度か叫んでいました。親日の彼が、「裕仁大好き!」は理解できないことはないですが、「ヒトラー大好き!」は同行者4人全員が「えっ?なんで?」と理由を質す。
理由は憎いロシア人を沢山殺したからということ。ヒトラーが冬将軍に負けずにモスクワを落としていたら、世界の歴史が変わったと本気で思っている。それほど心の底でロシア人を憎んでいる。カザフスタンの運転手はロシア人でした。いかつい顔のニコリともしないロシア人でした。しかし現地ガイドは最終日にはそのプライドの高い、仏頂面のロシア人運転手を手玉に取り、相手をかくも饒舌にし、時に笑いを交えて会話する間柄になっていた。そのことを日本語で現地ガイドにこっそり伝えると、ニヤッと笑ってウインクをして返してきた。賢い商売上手な青年である。
キルギスでは学校の数が足りず、小学生~高校生まで校舎を共有している。なので、小学生と高校生の授業は午前中のみ。中学生は午後のみだそう。ソ連時代はコルホーズ・ソフホーズで、小学生と言えども、新学年始まりの9月~10月の二か月間はトウモロコシ、綿花、タバコの葉、ジャガイモ等々の収穫農作業に借り出されて授業を受けることはできなかったという。ソ連崩壊後の今の小学生の午後の過ごし方は田舎では家畜の世話、都会ではゲームだそう。ロシア人から二等国、二等民族とさげすまされ、扱われた記憶は簡単には消えるものではない。日本も朝鮮人を二等国、二等民族とさげすんだ時代があったことを想起させられた。


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