初めて道東を一巡りした。厚岸では丹頂鶴のつがいの舞う姿と特徴のある鳴き声に大自然を感じ、日本最大の砂嘴(さし)である野付半島では悪天候にもかかわらず、恐れるもの何もなしといった体で、ゆったりと散歩する三頭のエゾシカ親子を車窓から眺めることができた。翌日、晴天に恵まれ釧路湿原の昨年新調された木道を歩いたが、かなり高い位置まで樹幹に保護ネットを巻きつけ、エゾシカの剥皮害から守る措置を施していた木々が目についた。エゾシカが伸びをしても到底届かないであろう高さまで保護ネットがあるのは、雪が積もっても守れるようになっているというガイドの説明であった。
観光客にとってはエゾシカを目撃できるのは楽しい思い出になるが、エゾシカがミズナラやオニグルミなど実のなる木を食い尽くし、生態系を脅かすようになっている。近年は年間13万頭ほど駆除しているそうだが、道内で69万頭は生息していると推定されている。人間が狩猟などの数量調整をしないと4~5年で2倍に増えるほどエゾシカの繁殖力は強い。一方でハンターの高齢化や狩猟ライセンスを取ろうという若者も少なく、なかなか5頭/㎢以下程度の目標達成には程遠い現状だそうである。
さらに深刻なのは、エゾシカの数が増えるにつれ市街地にも出没し、水稲やビート、いも、デントコーン、豆や根菜類を食べてしまう農業被害が出ていることである。北海道における野生鳥獣による農業被害は50億円に上るそうだが、そのうち8割がエゾシカによるものと報告されている。エゾシカは牛の餌となる牧草地の草も食べてしまい、農家は防衛策として電気牧柵などを自費での設置を余儀なくされている。
影響は広々とした北海道をツーリングで楽しむライダー達にも及んでいる。道東には100㎞信号機のない道や、「天に続く道」という28.1㎞の直線道路があり、それを楽しむライダー達の目の前にエゾシカが突然現れ、何とか避けきれたものの、すぐに小鹿が後を追って飛び出してきて転倒してしまうという事故が多発しているという。確かに道東で最初に手にした地図は「鹿ヒヤリハットマップ」と銘打っていた。エゾシカが関係する交通事故は毎年増え続け、5年間で倍増、昨年は5287件発生して、そのうちの28%が釧路方面で起きているという。釧路の温根内ビジターセンターで、切り落とされたエゾシカの角座(かくざ)を持ってみる機会があったが、見た目よりも随分重く、もちろん固い。これにバイクが衝突したときのライダーの危険度は想像に難くない。私がピッツバーグ在住の時に、部下が1年に2度もハイウェイで鹿を引いたことがあるが、車は全損・廃車であった。エゾシカを駆除する猟友会のハンターの方々も半ばボランティアであるが、強靭な角座のことを思うと命がけで駆除に当たっていることは間違いない。
そもそも北海道開拓時代にはおびただしい数のエゾシカが生息していたそうである。千歳に官営の鹿肉工場が建てられ、肉・皮・角が輸出されて、北海道経済を潤わせたと記録に残っている。その頃の捕獲数は年間10万頭前後だったが、明治初めの乱獲と1879年暴風雪及び寒波の影響でエゾシカは大量餓死し、一時は絶滅寸前にまで至ったそうである。1889年にはエゾシカ猟が禁止され、アイヌの人たちもエゾシカを捕ることができなくなった。一部狩猟が解禁されたのは1956年のことである。
戦時中、シカ猟が行われなかったことや、1960年代に盛んに行われた天然林を伐採して成長の早い針葉樹を植え込む拡大造林、そして1970年代を中心とする牧草地の造成によって餌場が増え、エゾシカが増加して生息地域が拡大していったと分析されている。個体数が増えすぎた結果、餌を求めて森から田畑へ出ていったり、比較的えさになりうる樹皮を剥がす被害が拡大していくことになる。その昔は捕食者であるエゾオオカミがいたのだが、開拓に際してアメリカに倣って牛馬の牧場を始めたが、手塩に育てた牛馬がエゾオオカミに食べられてしまう被害が出て、エゾオオカミは駆除されて絶滅してしまった。
折しも環境省は「世界自然遺産に登録されている奄美大島で希少種を食べるなど、生態系に被害をおよぼす特定外来生物の『マングース』を根絶した」と世界に類を見ない成功事例として宣言した。そもそもマングースはハブ対策として沖縄から奄美大島に持ち込まれたものの、昼間しか行動しないため、夜行性のハブを捕食することはほとんどなく、特別天然記念物のアマミノクロウサギなど、希少な在来生物を襲いながら増えていったものを根絶したという話である。2000年から本格的に駆除を始め、これまでに約36億円の費用を投入し、3万匹以上のマングースを捕獲し根絶に至ったという。こういうのは四字熟語で何というのでしょうか? マッチポンプではないし、自作自演でもないし。。。
野付半島ネイチャーセンターで受けたレクチャーによると、半島の食物連鎖ピラミッドにおいては鳥類・海獣類を頂点とし、それを魚介類が支え、その下にプランクトンがあり、最下層のアマモ(雌雄同株で多年生の海中顕花植物)があって生態系が維持されている。アマモがなければ、水の浄化や保水機能は保たれないし、土砂の流失防止や森林からの栄養分提供もなされない。日頃気にも留めない海藻が生態系を最底辺から支えているのである。
昨今では、自然保護運動の高まりから、「生物の多様性の保全」「生物資源の持続可能な利用」「遺伝資源の利用から生ずる利益の公正かつ衡平な配分」などと声高に叫ばれているが、エゾシカの歴史をなぞってみると乱獲も保護も、地球の頂点に君臨する人間のエゴでしかないように感じる。人間と野生の緩衝地帯であった多くの里山を経済的な理由により破壊し、またそれらによる被害を人的に対処しようとするいたちごっこ。単にかわいそうという情緒に振り回されず、全ての動植物の共生を中心において対応策を考えないと、場当たり的な対応の繰り返しに終始してしまうと感じた道東の旅であった。
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