アメリカ大統領選挙と民主主義の行方

2020年11月8日 at 3:49 PM

2020年のアメリカ大統領選挙はバイデン候補が270超を獲得し、78歳という歴代最高齢の第46代大統領に就任することが決定的となった。トランプ大統領は選挙の不正を訴え法廷闘争に持ち込もうとしているが、相変わらずツイート調で、提訴できるほどの証拠を提示できないでいる。事前の選挙予測では常にバイデン氏がリードしていたが、4年前のような「隠れトランプ支持者」が顕れてデジャブとなる可能性も少なからず報じられた。事実、選挙中盤ではトランプ氏が激戦州といわれるフロリダやオハイオを押さえ、トランプ氏再選ほぼ決まりと発言するコメンテーターもあった。そのコメンテーターは今どのような気持ちでいるのだろうか。

いずれにせよこの4年間のトランプ大統領の政権運営に対する評価が下された。Four more yearsか、No more Trumpかという選択の選挙であったと言えよう。経済面では実績を上げ、低賃金労働者の賃金は5%ほど上がり、株価も上昇した。しかし、治安維持と人種差別問題のはざまで、Black Lives Matterに代表されるような国内における分断を煽ってしまったことは否めない。アメリカ第一主義を声高に叫び、国際協調主義を否定した二国間交渉を前面に押し出した結果、TPP協定から脱退し、パリ協定からも離脱宣言した。

民主党バイデン新大統領は、これまでTPP協定への支持を表明しており、パリ協定にも再加盟の意向を示している。世界最強国であるアメリカ抜きの国際秩序構築は現時点では現実味がないので、同盟国の多くの国々がアメリカの国際協調へのカムバックを歓迎することであろう。新政権は既に体制づくりに着手しており、どのような人物を登用するかで同盟国日本との関係や敵対する中国との関係の将来像が浮き彫りになっていくことであろう。その点では、上院の勢力図がどうなるかは注目しなければならない。下院は民主党が議席数を失うも過半数は維持しよう。上院で共和党が過半数を握れば、バイデン政権推挙の閣僚が拒否権行使によって任命されないということも起きる。ねじれによって縛りを受けることになれば、バイデン政権がどのような外交を展開するかは日本にも大きく影響する。オバマ政権時代に中国は変わり得るという理想主義のもとで行われた対中政策によって、中国は韜光養晦(とうこうようかい)から奮発有為(勇んで事をなす)に大転換し隣国並びに世界平和にとって大きな脅威となっている。日本はいつまでも日米同盟を基軸になどと呑気なことは言ってられない。

今回のブログで注目したいのは、アメリカのみならず多くの国でアメリカ的状況が拡大していることである。当のアメリカにおいてさえ、バイデン氏が正式に大統領に就任する来年1月20日までにはまだまだ予想できない状況が発生することも考えられる。

最近、注目を浴びたV-DEM(バラエティー・オブ・デモクラシー)の2020年次報告書によるとデモクラシー(民主主義)国は2010年のピーク時98か国(全体の55%)から減少し87か国(48%)にまで低下したと報告している。人口比でも民主主義国家は46%と過半数を割り、26か国において去年より民主主義が後退し民主主義の危機に警鐘を鳴らしている。

具体的には独裁専制国家に属す人々は26億人(35%)。EU内から初めて非民主主義国家に格付けされたハンガリーではオルバン政権が選挙制度を自分に有利に変え、批判的メディアに圧力を強めるなど独裁体制を固めつつある。他にもブラジル、インド、アメリカ、トルコなどで専制化が進んでいると分析報告している。

昨今、独占禁止法問題で揺れるGAFAなど巨大IT企業は情報の独占、支配、ことによっては世論操作をも可能になった。国家よりも個人情報を蓄積し、分析し、ビジネスに活用している。ある意味、国家より強大な力を有していることは明らかで、国家がその存在に脅威を感ずるのは当然のことであろう。GAFA等に対応上、国家監視体制を強化している国が増えてきていることも望ましいこととは思えないが、理解できないわけではない。GAFAが構築したプラットフォームから派生する、いわゆるSNSが民主主義の危機を生み出していると言ったら奇妙に感じるだろうか。

ネットワーク時代が幕を開ける前は、新聞やテレビなどのオールド・メディアが世論形成に大きな影響力を及ぼしてきた。見識のある論説委員やコラムニストが事実を精査して記事を載せる新聞や速報性の高いテレビニュースを大方の民衆は信じてきた。しかし、そういったオールド・メディアが発行部数や視聴率といった商業主義に走った結果、自ら信頼を失い、質の低下によりミスを訂正するが多く見られるようなり、時にはフェーク・ニュース呼ばわりされるようにまでその地位を失墜させてしまった。ヒラリー・クリントンも4年前は大層有利と言われていたが、エリートは口ばっかりで取り繕っているだけ、とても信用できないという予想以上の数のヒラリー嫌いに反旗を翻され、史上初の女性大統領の座を射止めることはできなかった。本音か勝つための戦略かはわからないが、時に暴言を吐くトランプの方が信用できると世論を引き寄せたのもマスコミが信用できなくなってしまったことと無縁ではないだろう。

SNSの進展により、誰でも情報の発信者になれるようになった。実際に情報発信している人は少ないかもしれないが、SNSを通じて情報を取得する若者は圧倒的に増えた。SNS情報は高度なアルゴリズムによって個々人向けの情報を選別して大量に流し込まれる。それらは彼らにとって「お気に入り」とも言えるものであり、その人向けに最適化されたニュースや情報、意見である。スマホを通じて送り届けられる情報は、その人の考えや思いを補強することはあっても、反対の意見や情報は目の前にあらわれることはない。こうして民衆の体制は加速度的に二極化に向かい、今日目にするアメリカ大統領選挙のような熱狂につながる。投票率は毎回50%台そこそこの数字であったが、今年は67%と100年ぶりの高水準という。これが本当の姿なのか、不正投票を含む数字なのか、選挙結果が決まればうやむやになってしまうことであろう。

企業にあっては、旧来は顧客や顧客候補に対して情報発信する場合、信頼のおけるメディアを介して、時に大手の広告代理店の力を利用して行っていた。ここまでメディアの質が落ち、信頼が無くなってくるとメディアにおもねって情報番組に登場させてもらう必要もなくなってくる。トヨタほどの大手になれば、「トヨタイムス」で自社から直接、何のバイアスも余計なアドバイスもされることなく、社会や顧客に社長の肉声や社のビジョン、将来の製品コンセプトなどを発信することができ、質とコストの両方を改善すことができるようになっている。このような戦略は自社の社員との距離感よりトヨタファンとの連携をより強くしているに違いない。

電車に乗っていてもほとんどの人がスマホを離さず見ている。完全にオールド・メディアは駆逐され、ネットメディアの時代になった。人によってはスマホだけが孤独感を癒してくれる友達かもしれない。スマホの楽しみ方は人それぞれだが、その中毒性に知らず知らずのうちに侵されていく人達も少なくないであろう。個人個人が情報の発信力をつけることは民主主義にとって望ましいことであるはずだが、それが社会の分断を先鋭化することになってしまっては、独裁専制政治の入り込む隙間を作ってしまうことも我々はよくよく知るべきである。様々な立場の人がいて、様々な意見があることに無頓着にならず、個々人の情報リテラシーを高めなければ民主主義は容易に独裁専制に道を譲ってしまうほど脆いものだということを今一度肝に銘じたい。

(習氏がバイデン氏よりも早くTPP参加に言及したのには驚いた。アメリカ大統領選挙の混乱期を狙って抜け目ない中国を再確認:11月21日追記)

任侠いずこへ

2020年10月3日 at 9:00 AM

「ladies and gentlemen きょうから変わりました 日本航空」という記事が一昨日載っていた。日本航空が機内などで英語でアナウンスをする際に使ってきたお馴染みの「ladies and gentlemen」という呼びかけを、10月1日から性別を前提にしない表現に変えることになったという。新たな英語のアナウンスの表現は「Attention, all passengers」や「Good morning, everyone」などになるそうである。日本航空内では「なぜ英語のアナウンスは男女前提なのか」という疑問に始まり、LGBTQの人たちに配慮する動きの一環と見て取れる。マイレージ会員向けに発行されるカードの性別表記もなくしたそうである。「お客様は一人一人違うということを根底に」という考え方に異論はないが、かといって男女を区別する便利な総称があるにも関わらず、一部の少数派に配慮しすぎて多数派がかえって息苦しい思いをするのもどこか違う気がする。

そもそも「ladies and gentlemen」とは女性に対しても男性に対しても用いられる尊称であり、かつladiesを前に置くことによって相対的に肉体的かつ社会的に弱者であった女性への格別の配慮の表れであると私は認識していた。しかし、その前提になるであろう「ladies first」を調べてみると、私の認識とは全く異なる歴史的背景があったことを知った。それは古くはヨーロッパ上流階級における淑女のマナーであり、「教会の扉や門は男性より先に女性が潜り抜けて、魔よけや安全を確認する」「食堂では男性より先に女性が用意・着席し、男性を出迎える・待たせない」「食事は男性より先に女性が終わらせて退出し、男性の食後の談話に加わらない」「女性は男性より先に起床し、朝の身支度を終えて出迎える」など、今で言えば男尊女卑とも言える慣習のしきたりであったことがわかる。筆者が「ladies first」を聞くような時代になっては「道路を男女で連れ立って歩く際は車道側を男性が歩き、女性を事故や引ったくりから守る」「扉は男性が開け、後に続く女性が通りきるまで手で押さえて待つ」「自動車などの乗降の際において、特に女性がロングドレスにハイヒールという装いならば、運転する男性が助手席に回ってドアを開閉する」など、男性が女性にとるべき紳士の行動として定義され、女性を幇助すべきという紳士のマナーであるとの認識は、Wikipediaによればこれらはフェミズム運動以降のマナーとの混同だそうである。

女性史家の中には、「女性が何も出来ないから男性がしてあげる」という考えこそ女性に対する差別であって女性蔑視と捉える者もいる。私の経験からすれば、Majorityの女性が既述の「ladies first」文化を気持ちよく快く受け止めているのではないかと思っている。パワハラ、セクハラ、今流行りのxxセラも全て受け手の気持ち次第と言われる。それはそれで結構だが、相手の心持ちも同等に大切なのではないか。同じ言動でも心の中にある動機や意図がより重要であろうし、同じ言動であっても好感を持っている人からのものと、そうでない人からのものでは全く異なる印象を受けるのも生身の人間の正直な姿であろう。自分の心持ちしか判断基準にできない人は良い意味での「忖度」を欠いている。つまり何でもかんでも自分中心に考えてしまう人は、人間にとって大切な「思いやり」を欠いている。

時代は遡るが、「任侠の世界」には正義があった。コロナ禍にあって今人気絶頂の講談師「6代目 神田伯山」の講談を聴くようになり、昔の任侠の世界には泣かせる話がいくつもあることを知った。有名な侠客には「国定忠治」や「清水次郎長」などが挙げられよう。誰しも一度は名前を聞いたことがあるでしょう。任侠を一言で言い表せば、「弱きを助け強きをくじく」ということです。チンピラの悪行やヤクザ映画における抗争とは全く違います。お二人とも鬼籍に入られましたが、銀幕のスターで言えば「鶴田浩二」や「高倉健」が演じたような人たちです。「菅原文太」を挙げる人もいますが、ちょっと私の好みとは異なりますm(__)m。勿論、覚せい剤・闇金融・恐喝・賭博・売春・人身売買などに手を染める現代の暴力団は任侠とは真逆の存在です。しかし、一部にはすべてやくざ者と定義してしまい同一視してしまう方々がいるのはとても残念なことです。

「任侠道」は「武士道」ともつながり、「武士道」は武士の中に現れ、「任侠道」は庶民の中に現れる。圧政や無法地帯から庶民を守る正義の味方で、法に頼ることのできない時代にあって、庶民間における義理や人情を重んじることがその柱である。義侠心や男気という言葉はヤクザ映画やそれを茶化したバラエティ番組でしか聞かれない言葉となってしまったが、強きが弱きを助ける美学が確かにそこにはあった。強きが強きに取り入り、弱きをさらに挫く構図があるとすれば、弱きは殊更に声を上げ、自分の存在と主張を受け入れよと大衆に迫る。強きが弱きに歩み寄らなければ、格差は拡大するばかりで、今現代に起きていることそのままで対立が激化していくことになってしまう。生きるために強きに摺り寄る弱きもいるでしょう。弱きを三下扱いして顎で使う強きもいるでしょう。しかし、多くの日本人はそれを良しとはしないでしょう。なぜなら、それが弱き者を支える心中の最後まで守るべきささやかな自尊心だからである。強きには強きの持てる者としての振る舞いを、弱きには弱きの持たざる者としての矜持を、今の世の中にこそ復権して欲しいと思う。

海洋プラスティックごみ問題

2020年9月4日 at 11:33 AM

前回投稿の「レジ袋有料化」は具体的な施策というミクロの観点から私見を述べたので、今回はマクロな視点で「海洋プラスティックごみ問題」を論じてみたい。
人類がこれまで生産したプラステッィクの総量は80億トンに上るとされる(CLOMA:CLean Ocean Material Alliance会長 澤田道隆花王社長)。毎年3億トンが生産され、そのほとんどが「廃棄ゴミ」として放置されているという状況で、年間生産総量の2.7%にあたる800万トンが世界中の海に毎年投棄されており、累計1.5億トンものプラスティックごみが海中に漂っている、あるいは海底に沈んでいるそうである。そしてこの海洋プラスティックごみの8割は廃棄物インフラの整っていない新興国から流出しているとCLOMAにおいて報告されている。

この海洋プラスティックごみ問題をマクロな視点で捉えると、製品設計⇒生産⇒流通⇒消費者使用⇒リユース⇒リサイクルという一連の流れを環境保護の観点並びに経済的合理性を踏まえて循環軌道に乗せていく必要がある。しかし、一体どこから手を付ければ効果的なのか途方に暮れるほどの大問題である。関りを持つステークホルダーは原料メーカー、容器包装メーカー、消費財メーカー、小売業者、消費者、自治体、リサイクル業者、政府、NGO、投資家など多岐に渡る。こうしたステークホルダーが一枚岩になって事に当たらなければ、この活動は前進しない。さらに、これを世界規模(海は世界に繋がっている)で行うことを考えたら気が遠くなるほどの難題と言わざるを得ない。

これまで非常に便利な素材及び製品として定着したプラスティックを使わないようにしようという試みはなかなかうまくいかないだろうと考えざるをえません。やはり人間は一度手にしてしまった便利なものは強力な代替品が現れない限りなかなか手放せるものではありません。そもそもが「ゴミ問題」なのですから、廃棄の部分に力点を置くべきなのではないかと私は思います。

CLOMAのキーアクションは:1)使用量削減、2)リサイクル率の向上、3)ケミカルリサイクル技術の開発と社会実装、4)生分解性プラスティックの開発と利用、5)紙やセルロース素材の開発と利用の5つあります。それぞれの項目について技術的課題が提起され、主に企業が中心となって解決策を進捗させている段階です。もちろん日本の技術力をもってして、新しい素材開発や処理設備の高度化を行うことは、上述「循環経済」の確立に寄与してくれるものと思いますが、時間軸がかなり中長期に渡るものではないかと思われます。

これら5つのキーアクションに加え、横断テーマとして「分別回収」があります。日本ではそれぞれの自治体ごとにルールが決められて、日本人の多くはその分別ルールや収集日に合わせて真面目に回収プロセスに関わっているものと思います。海洋にプラスティックが廃棄されてしまうところの管理を強化するのが、速効性ある対応だと思います。正直、日本の海岸線からどれほどのプラスティック廃棄がなされているのか気になって調べてみました。前述の年間800万トンの廃棄プラスティックのうち、日本からの廃棄は年間数万トンで0.5%程度の割合になっています。世界的に見ると極少量ですが、やるべきことがないわけではありません。
陸地に漂うゴミは何とか回収する方法はありますが、一度海洋に流れ出たプラスティックごみを回収することは困難です。観光地や海水浴場など人が集まる場での使用制限やポイ捨て防止策を講じる等、効果的な方法はあるだろうと思います。都心部でも自動販売機の横にペットボトルとアルミ缶の回収箱を見かけますが、たまに溢れていることがあります。定型以外のPET容器(流行りのタピオカが残されたまま捨てられていたり)や紙ごみが混ざって廃棄されている回収箱も目にします。CLOMAの報告によると割れガラスなども混入しているそうです。

テロへの警戒が叫ばれて以来、ごみ箱(護美箱)が撤去されているところは少なくありません。特にポイ捨てされて海洋に流出してしまいやすい海岸線領域は強化地域に設定して、回収頻度やパトロールなどを強化することで回収力(海洋への投棄を予防する)を上げることも有効なのではないかと思います。TVでよく政府広報を見かけますが、そういった電波を通じて消費者の啓発をもっと行う方が、一律にレジ袋有料化を義務とする方策よりも効果が大きいのではないかと個人的には思います。ヨーロッパの主だった国の道路には大変大きな回収コンテナが素材ごとに色分けされて設置されています。ドイツの回収システムなどはかなり細かい決まりがありますが、一部には「せっかく分けて集めているのに、最終的には家庭ごみと一緒に燃やされているのでは」といった現行システムに疑問を持っている方も少なからずいるようです。この辺りは日本も自治体の保有設備によって違いがあり、わかりにくいところですし、同じような疑念を持っている方も少なくないでしょう。また、消費者としてはゴミ分別収集しさえすれば、再利用されていると安心して、ゴミを減らすことを忘れてしまうといったモラル・ハザード現象も報告されています。使用量削減とごみ回収・リサイクルを同時に啓発していく必要があります。

冒頭触れたCLOMAの運営体制は:1)普及促進部会、2)技術部会、3)国際連携部会の3つで構成されています。私が注目したのは、3)国際連携部会において、インドネシアと連携して新しい社会システムを構築していこうという試みです。以下はあくまで一研究者により人口や経済規模から2015年に推計した海洋へのプラスティックごみ流出量のデータですが、中国がトップで28%を占め、次いでインドネシアが10%、以下フィリピン、ベトナム、スリランカ等が5%程度と続きます。日本は先に述べたように0.5%程度の構成比で優等生ですから、日本の一般の消費者は自分達はしっかりやっているのに、レジ袋有料化までやらなきゃいけないのかといった心理的抵抗感が強いのだろうと思います。

インドネシアは13000以上の島により構成されていますから、海洋に面している海岸線の長さはカナダ、ノルウェーに次いで世界第3位54000㎞に及びます。日本は第6位で、日本もインドネシアも海洋国家と言えましょう(http://www.ps-lab.com/blog/?s=%E6%B5%B7%E6%B4%8B%E5%9B%BD%E5%AE%B6)。日本で培った工業技術と管理運営システムをインドネシアというプラスティックごみ課題国で実装していけば、循環経済モデルとして他の国々にも輸出できるものになり得ます。インドネシアの現状(2017年)はリサイクル率が10%、回収システムに乗っている管理処分が28%、なんと野焼きが大半を占めており、その他10%弱が放置や流出ということになっています。2025年までに使用量の抑制や代替品の導入に加え、リサイクル対象を22%まで向上させ、管理処分率を62%まで改善する目標を掲げて活動を推進しています。

こうして海洋プラスティックごみ問題をマクロな視点で検証してみると、プラスティックごみ問題の3%弱が海洋プラスティックごみ問題であり、廃プラスティックのうちの2%がレジ袋の占める割合であることを考えると、政府が進める「ワンウェイプラスティックの使用削減」の一施策である「レジ袋有料化の義務化」はどうも心に響きにくい施策と言わざるを得ません。日本で言えば、マイクロプラスティックによる健康への脅威の方が一般の消費者にとって最も懸念されるのではないかと思います。野焼きが大半を占めるインドネシアをの状況を鑑みれば、廃棄物焼却によるダイオキシンなどの有毒ガス発生が最大の懸念材料と言えるかもしれません。一般の消費者を巻き込むムーブメントを推進しようとすれば、そのようなわかりやすい、そして切実な課題を直視してもらえるような啓発の仕方があるのではないでしょうか。重要なことは、対象課題の全てのステークホルダーとBig Pictureを共有した上で、個別の対策に当たらなければ、大きなプロジェクトを前進させることはできません。企業でも課題解決に向かうにあたって「課題の共有」と「肚落ち感」の醸成というステップを軽んじてしまうと、ベクトル(向きと大きさ)が定まりません。いきなり個々の施策をまな板の上にのせて良し悪しを論議し合うことは、生産性からみても効率性からみても無駄であることを肝に銘じておく必要があります。

レジ袋有料化

2020年8月15日 at 11:01 AM

経済産業省のHPを見ると、「2020年7月1日よりレジ袋有料化がスタートします。プラスチックは、非常に便利な素材です。成形しやすく、軽くて丈夫で密閉性も高いため、製品の軽量化や食品ロスの削減など、あらゆる分野で私たちの生活に貢献しています。一方で、廃棄物・資源制約、海洋プラスチックごみ問題、地球温暖化などの課題もあります。私たちは、プラスチックの過剰な使用を抑制し、賢く利用していく必要があります。」「このような状況を踏まえ、令和2年7月1日より、全国でプラスチック製買物袋の有料化を行うこととなりました。これは、普段何気なくもらっているレジ袋を有料化することで、それが本当に必要かを考えていただき、私たちのライフスタイルを見直すきっかけとすることを目的としています。」とある。プラスチックの有用性について言及したあとに、プラスチック生成及び廃棄に際して課題があることを指摘し、ライフスタイルを見直すきっかけを目的にしていると結んでいる。

NHKの国際報道によると、いち早く有料化に踏みきったのが中国で、12年前の2008年から取り組みを始めているという(別の記事で2006年ルワンダでレジ袋原則禁止を発見、タンザニアやケニアにも拡大)。
中国におけるレジ袋有料化のきっかけは、レジ袋のポイ捨てが深刻化したことであると伝えている。中国では2000年代から、路上に捨てられたレジ袋が「白色汚染」と呼ばれて問題となり、中国政府は2008年から厚さ0.025㎜以下のレジ袋の生産や使用を禁止するとともに、それ以上の厚さのレジ袋については、店側が料金を徴収するよう義務づけた。

しかし、レジ袋有料化から10年余りが経ち、この制度がうまく機能していないとの指摘が出ている。「レジ袋有料」の表示を掲げている店でレジ袋について店員に聞いてみると、こんな答えが当たり前のように返ってくるという。「お金はいらないよ」「1枚目はサービスだよ」、商店の多くが、レジ袋を無料で提供しているのが実情のようである。某環境団体の調査によると、レジ袋代を徴収していたのは、1,000店中17%にとどまっているという。取り締まりの厳しい大手は別にしても、他店に客を奪われないよう中小の店は牽制しあってレジ袋を無料提供している実態が明らかになった。

一方の買い物客はどうかと言えば、レジ袋にお金を支払うことに「そんなに気にしません」「袋を持っていなければ買うし、それがいくらかなんて気にしません」というのが大方の意見。先の環境団体はレジ袋の価格をもっと高くする必要性を訴えている。

タイは2020年1月からレジ袋の無料配布をやめる取り組みを始めた。「マイバッグ」がようやく定着し始めてきたところで、新型コロナウイルスが発生。感染を防ごうとして、料理の配達やテイクアウトのサービスを利用する人が増えた結果、多くのプラスチック容器や袋が使われ、プラスチックごみも増える傾向にあるという。
こうした中、タイでは、政府と企業がリサイクルのプロジェクトに乗り出している。デパートなどにプラスチックの回収箱を設置。将来的には、回収したプラスチックを細かい粒状に加工して製品化し、リサイクルを定着させたいとしている。ワラウット天然資源・環境相は「大事なのは国民の決意です。もう少しの努力で適切なりサイクルの仕組みができます」とプラスチックごみ問題への取り組みに意欲を示している。

私自身の行いはどうかと言えば、これまでスーパーなどで無料でもらっていたプラスチックバッグをいくつか持ち歩くようにはしている。ビジネスバッグにもエコバッグを入れている。しかし、元来何も持ち歩きたくない性分なので、急に思い立った買い物には有料でレジ袋をもらうこともある。冒頭の「それが本当に必要かを考えていただき、私たちのライフスタイルを見直すきっかけとすることを目的としています」という趣旨からすれば、レジ袋有料前からある一定の環境問題に関する意識は持ち合わせていたし、入手したレジ袋を保管しておいて生ゴミ袋に使ったりリユースをしている。もし、保管していたレジ袋が無くなってしまえば、有料でプラスチックごみ袋を買うことになるだろう。

循環型社会を作るには5Rがキーワードであると言われる。Reduce(リデュース)ゴミを減らす、Reuse(リユース)再利用する、Recycle(リサイクル)の3Rに、不要なものは買わないRefuse(リフューズ)、修理して長く使い続けるRepair(リペア)の2つを加えた概念である。レジ袋有料化はRefuseにあたるものと思われる。地球環境を考えたとき、不要なものはタダでももらわない。もらっても、すぐにゴミ箱にいくのであれば、マイバッグを持ち歩いて、レジ袋は極力買わないようにしましょうということであろう。その趣旨に反論はない。しかし、循環型社会を作るためには、それ以外の4Rも含めたエコシステム全体の中で論じるべきであろう。これまでレジ袋は使用量削減のための薄型化に様々な企業が挑戦してきた経緯もあるし、特に濡れたもの・冷蔵品・冷凍品などはレジ袋は重宝で、紙袋よりは再利用率が高いのではないだろうか。再資源化に関してはなかなか難しい事情があるようだ。レジ袋の口が結んであると機械では破袋できない、半透明のレジ袋は中が見えにくく、ごみと資源物が混入して捨てられやすい、生ごみの水切りが徹底されないので焼却工場の燃料効率を低下させる等、レジ袋リサイクルの問題点が多々挙げられる。さらに軽いので飛散しやすく自然状態では分解されない、行楽地などでポイ捨てされやすいといったことから、野生動物が誤飲して苦しみ死ぬ、あるいは海中などでマイクロプラスチック化し、食物連鎖の中で最終的には人間の体内に蓄積するといった健康被害も懸念されている。

リサイクルの関してはStatistaによる2013年OECD加盟国での調査結果がある。ドイツが65%でトップ、ついで韓国が続いている。日本は下から3番目の19%。かくのごとく環境後進国の汚名をいただいているように、取り組むスピードにしても、取り組む姿勢にしても遅れを取っているのは否めない。ここまで遅れたのであれば、ドイツや韓国といった環境先進国の背中をただ単に追うのではなく、日本らしい取り組みを進め、世界にアピールすべきではないか。「新」生分解性プラスチックの開発(現状では埋めると温室効果ガスであるメタンを発生)であるとか、使用量削減のみならず、ごみ回収の方で生態系に悪影響を与えない、もったいない文化の復権、サッカー会場で見られる自主的な清掃や海岸美化、清潔好きの日本国民であれば、廃棄しずらい環境を作ることも得意ではないか、企業教育や教育現場での環境意識徹底など、やれることはいくらでもあると思う。ただ、レジ袋を有料化しました、全プラスチック使用量の2%にあたるレジ袋を2割削減が目標です等といった矮小化された領域で国民の納得感を得られないまま、時たま国民に使用削減を漫然と訴えるような政策では結果は期待できない。エコシステム全体を睨んで生産から廃棄・分解までの過程でどういったKGI・KPIを設定して国民を誘導していくか政治家や官僚の手腕が問われるところである。冒頭の経済産業省HPでの訴えの前段は理解できるとして、後段は過剰な使用にのみフォーカスをしている。廃棄の部分にも同様の啓発活動が必要なのではないだろうか。100均ではレジ袋やポリ袋が売り切れ状態。スーパーではマイバッグによる万引きが増加しているとの報道。レジ袋有料化はどこかバランスを欠いている政策で、のちに世紀の愚策と揶揄されかねない片肺飛行の政策です。進次郎さん、今こそ腕の見せ所です。

人種差別問題に揺れるアメリカに想う

2020年7月10日 at 11:50 AM

2020年5月25日に米ミネソタ州で白人警官が黒人男性ジョージ・フロイドさんの首を8分以上膝で地面に押し付け、死亡させた事件が発生した。この事件をきっかけに全米はおろか各国にBLM(Black Lives Matter:黒人の命は大切だ)デモ活動が広がりを見せている。SNSによる動画配信はその生々しさと拡散性をもって大きなうねりを作り得る存在になった。
フロイドさんが亡くなるまでの間に「息ができない」と20回以上訴えていたことや、助けを求めて「殺される」と繰り返していたこと、閉所恐怖症で警察車両に入れられることを拒んだこと等が合わせて報道された。
そもそもフロイドさんはどのような経緯で拘束されたのか?フロイドさん行きつけの食料雑貨店で偽20ドル札を使った容疑で警察に拘束されている(使われた20ドル札は本物であったのか、偽物であったのかは公にされていない)。ミネアポリス警察はフロイドさんがアルコールか薬の影響下にあって、身体的に抵抗したと主張している。フロイドさんは身長193センチ体重101キロ、過去に窃盗や薬物所持で逮捕されている前科者である。2007年にはヒューストンで住居に侵入し武装して強盗した容疑で起訴され、2009年に裁判で司法取引を受け入れ懲役5年の判決を受け収監された過去がある人物である。
BLMは一方でBlue Lives Matterとも訳され、青い制服を着た警察官の命や人権を主張する行動としても一定の広がりを見せており、いや全ての人の命が大事だと訴えるAll Lives Matterという活動もある(綺麗ごとを言うなという反発も少なくない)。
人種対立に至る同様な事件は過去にいくつもあり、2014年8月9日非武装の18歳の黒人男性マイケル・ブラウンさんが、ファーガソンの白人警官ダレン・ウィルソンに射殺された事件では、群衆による略奪や車の破壊が行われ、州兵が出動するにまで至っている。
アメリカの人種差別問題はこのように一触即発の状態を常に孕んでいて、そのような暴発の危険性をドラッグ蔓延、自衛という名の銃社会、所得格差による貧困問題、社会保障制度による医療格差などが増幅加速させている社会背景を無視できない。これらNegativeな社会背景の課題解決なしには、こういった人種対立は収束しないと思われるが、個人の自由を最優先に掲げる自由国家アメリカは有効な手を打たねばという大きな「うねり」を感じることは残念ながら無い。

そもそもアメリカは移民社会である。1620年に北アメリカ大陸に到着したピルグリム・ファーザーズを起源として、多くの移民が富と名声を求めてリスクを顧みずやってきた人たちが作り上げた国家である。17世紀から18世紀にかけてイギリスがフランスやスペインと戦い、アメリカにおける植民地を次々と獲得し東海岸一帯を手中に収め、南部に広がるスペイン植民地への奴隷売買権を得ることになる。イギリスはその後先住民のインディアンを駆逐し、西側へ領土を拡大することとなる。
今やリベラルな看板を掲げる民主党の最初の大統領は第7代アンドリュー・ジャクソンで、彼は1833年「インディアンは白人と共存し得ない。野蛮人で劣等民族のインディアンはすべて滅ぼされるべきである」と議会で演説し、「インディアン移住法」を可決した男である。発想はあの悪名高きヒトラーと変わらない。
アメリカの奴隷制度はリンカーン大統領により1865年に公式には廃止されたが、社会的な差別や人種差別主義者からの迫害は長く続き、これも悪名高きKKK(クー・クラックス・クラン)等の白人至上主義団体による私刑は20世紀半ばを過ぎても多くの黒人の命を奪い続けた。その残火は今も消えることなく、数千人の会員によって活動は続けられている。

国家間で奴隷を取引する奴隷貿易の歴史は古代ギリシャの時代まで遡るが、それは人格を認められない「動産」、つまり人間としてではなく「物言う道具」として取引されていた。大航海時代から始まる植民地時代には人的資源の確保を目的に奴隷貿易は栄えたが、必ずしもヨーロッパ列強が無理やり搾取・略奪をしたという「常識」は必ずしも正鵠を得ているとは言えない。当時のアフリカ現地人が奴隷狩りを行い、商取引によって欧州人と売買したものである。今の常識からすれば酷い話ではあるが、奴隷船の内部構造を見れば、明らかに人間として扱われていないことがわかる。劣悪な環境による船内での死者は「歩留まり」として認識されていたに違いない。

#BlackLivesMatter活動の活発化により、過去の偉人の銅像が次々と倒されている。奴隷制の存続を主張していた「南部連合」のアルバート・パイク将軍のワシントンにある銅像、イギリス南西部のブリストルでは奴隷商人エドワード・コルストンの銅像が海に投げ込まれた。南アフリカに渡ってダイヤモンドの採掘により大富豪となったセシル・ローズは多額の寄付を行ったオックスフォード大学から像を撤去(ローズ奨学金によってクリントン元大統領らが支援を受けている)される。ニューヨークの第26代米大統領セオドア・ルーズベルト像は両脇に先住民とアフリカ系の男性が立っているという理由により撤去される。ホワイトハウス前の前述ジャクソン大統領の銅像も倒されかけ、ロンドン議会前のチャーチル像は「人種差別主義者」と落書きされるという軽傷で収まっているとは笑い事にもならない。さらにこの流れが当然とばかりにアニメの声優も人種通りにキャストせよとなり、非白人の声を演じた白人俳優が謝罪を迫られるなど常軌を逸した事態が発生している。アニメ文化に強い日本を舞台にした日本人の物語の場合、これからは日系アメリカ人のキャストに声を任せることになるのだろうか。ライオンキングやドラえもんの吹き替えは誰が出来るのだろうか。自己を主張しながら、実は活躍の場を自ら狭めていることに気づかないのだろうか?

相前後して、「アメリカの鏡・日本」という本を読んだ。1948年にアメリカで出版されたが、マッカーサーが邦訳を禁じた書である。第一次世界大戦によって欧米列強並みの五大国に選出された日本であるが、日本がアメリカ白人社会への脅威であるという黄禍論のプロパガンダによって標的にされたと解説している。太平洋戦争の大義をアメリカ社会に植え付けることに成功したのが当時の第32代米大統領フランクリン・ルーズベルトである(周辺の左翼リベラル派に影響を受けたとする書「ヴェノナ文書」もある)。著者ヘレン・ミアーズによれば、欧米各国が植民地争奪に向かう中、日本が欧米列強に屈せじと資源を求めて周辺アジアに進出していったのは、欧米が行ってきたそのもののコピーであって、米国にその罪を裁く資格はないと主張する、アメリカにとっては禁断の書である。
戦後、日本は東京裁判によって、過去いずれの国際法にもない「人道に対する罪」「平和に対する罪」という罪状で裁かれた。法の公理でもある「事後法禁止の原則」に反して、それまでの国際法にない「罪」の遡り適用によって28名のA級戦犯(A級とは前述の「平和に対する罪」で裁かれた人のことであって、A級の極悪人という意味ではない)が起訴されたのである。同様の「罪」は仁義なき戦場では当然戦勝国でも行われていたが、戦勝国には「平和に対する罪」は存在せず、「敗戦国」にのみ適用(しつこいようだが遡及適用)となった。まさに勝てば官軍、負ければ賊軍である。

過去に遡って一面だけを捉えて銅像を引き倒そうとする#BlackLivesMatterの行為を見て、東京裁判の不公正さを思い出した。全ての人間には良い面・悪い面の両方があるでしょう。人の見方によっては同じ行為でも良く見えたり、悪く見えたりするでしょう。さらに過去にまで遡れば、それも既にこの世にいない人間を相手に「罵詈雑言」を浴びせかけるのは、本人の留飲を下げる以外の効果はありません。そう思うのであれば、反面教師として自らの行いに反映していけばいいことです。周りにもそのように「良い」影響を与えられるように努力すればいいことです。ある一面だけを歴史背景や経緯を見ずに裁くことはリンチ(私刑)そのもので問題解決から遠のくばかりか、人類の分断を加速し、自ら息苦しい時代を作ってしまう愚かな行動としか思えません。以前眩いばかりに輝いていたAmerican Dreamはどこへ行ってしまったのでしょうか。

テロとコロナの共通点

2020年6月5日 at 10:56 AM

新型コロナウイルスは世界へ瞬く間に広がり、未だ収束の目途が立たないでいる。コロナウイルスそのものはこれまでヒトに蔓延している風邪のウイルス4種類と、動物から感染する重症肺炎ウイルス2種類が知られている。今回の新型コロナウイルスはその感染力の強さや再陽性、症状の多様性など未知の領域が多く、単なる風邪の一種とは言えない後者に分類されるもので、世界中の人々を恐れさせている。私も自粛の最初のころは「所詮、風の一種だね」と軽く考えていた節があったし、これまでまとまった時間が無いことを言い訳にしてできなかったことをやる機会に恵まれ、充実した時間が持てると比較的楽観的に捉えていた。ところが事態が長丁場の様相を呈することになり、仕事も完全休業状態、自粛三か月目に突入すると流石にこれといってやることもなってしまった。これまで買うほどのものではない本は図書館から借りて読んでいたが、それもごく最近までサービス停止であったので、再開まで待てない本は本屋やネットで買い求めることとなる。

「21 Lessons」は”21世紀の人類のための21の思考” の副題が付いているユバル・ノア・ハラリ氏の最新刊である。氏はこれまで「サピエンス全史」「ホモ・デウス」を書き下ろし、”私たちはいったどこから来たのか、私たちは何者なのか、そしてどこへ行くのか”を詳らかにしてきた。私も書店でこの2冊を手に取ってみたが、そのボリュームと内容の難解さはとっさに理解できたので、通読には至っていない。「サピエンス全史」は内容には興味があったので、漫画版でお茶を濁すこととした。新著は「今、ここに」にフォーカスしたもので前作と変わらず大著ではあるものの、21の項目に分かれているので、比較的読みやすい。その中で、「テロ」(パニックを起こすな)の項目の記述が、現在のコロナ禍の状況と重なって殊更印象に残っている。以下しばらく冒頭からの引用部分をお読みいただきたい。
「テロリストはマインドコントロールの達人だ。ほんのわずかな数の人しか殺さないが、それでも何十億もの人に恐れを抱かせ、EUやアメリカのような巨大な政治構造を揺るがしてのける。2001年9月11日の同時多発テロ以来、毎年テロリストが殺害する人は、EUで約50人、アメリカで約10人、中国で約7人、全世界で最大2万5000人を数える。それに対して、毎年交通事故で亡くなる人は、ヨーロッパで約8万人、アメリカで約4万人、中国で約27万人、全世界で125万人にのぼる。糖尿病と高血糖値のせいで毎年最大350万人が亡くなり、大気汚染でおよそ700万人が死亡する。それならば、なぜ私たちは、砂糖よりもテロを恐れ、政府は慢性的な大気汚染ではなく、散発的なテロ攻撃のせいで選挙に負けるのか?」
「テロは物的損害を引き起こすのではなく、恐れを広めることで政治情勢が変わるのを期待する戦略だ。通常の戦争では、恐れは物的損害の副産物に過ぎず、害を及ぼす勢力の大きさにたいてい比例している。ところが、テロでは恐れが主役で、テロリストの実際の力と、彼らがまんまと引き起こす恐れとは、驚くほど不釣り合いだ。」
「テロリストは食器店を破壊しようとしているハエのようなものだ。ハエはあまりに微力なので、ティーカップひとつさえ動かせない。それではハエはどうやって食器店を破壊するのか? 牛を見つけて耳の中に飛び込み、ブンブン羽音を立て始める。牛は恐れと怒りで半狂乱になり、食器店を台無しにする。これこそ9・11同時多発テロの後に起こったことだ。」
ここでいう「牛」はアメリカのことだが、世界中には他にも短気な牛がいくらでもいる。コロナウイルスによって世界中の多種多様な牛が騒ぎ立てているような気がする。9・11以降、世界中の空港で厳重な手荷物検査や警備が行われるようになった。主要な都市では数えきれないほどの監視カメラが設置され、衆人の動向を監視・録画している。スノーデンの告白にもあるように盗聴を含むあらゆる個人情報にも手を伸ばす体制。世界中の時間的・経済的ロスは計り知れないが、表立って反対する人間はほぼいない。皆、従順に「新ルール」に従っている。安全を担保に行われているそれら「新常態」の投資対効果はバランスしているのだろうか? 損害を被る産業がある一方、拡大する需要や新しいビジネス創造に成功を手にしている業界もあるだろう。これら一連の「新常態」が当初からテロリストの意図にあったかどうかは別にして、これらは明らかに9・11テロによる副産物と言える。

翻って、新型コロナ(以下、コロナ)もテロ同様に世界中の人々を恐怖に陥れている。「いつ感染するかわからない」「重篤患者になって最悪命を落としてしまうかもしれない」「大切な人にうつしてしまうかもしれない」といった不安に苛まれている人も少なくないであろう。北半球では収束の兆しが見え始めているものの、第ニ波・第三波の襲来に今から怯えている。実際、イランでは1日当たりの感染者数が過去最多を記録した。南半球の本格的な感染拡大はこれからかも知れない。日本では特に著名人が亡くなってから世間における恐怖が増大した。台湾やシンガポールのように早々に入国制限を行い、比較的感染防止に成功した国もあれば、ブラジルやスウェーデンのように経済活動や個人の自由を優先し、今になって国民の支持を失い始めている国もある。感染症対策にしても医療技術にしても世界最強のはずのアメリカは世界一の感染者数と死亡者数を更新し続けているが、トランプ大統領はマスク着用を徹底して拒否し続けている。少しずつコロナの正体が明らかになってきてはいるものの、ワクチンは2021年になるだろうと言われれば、まだまだ未知のウイルスに恐怖を抱くのは当然のことである。
今日現在の世界の感染者数は643万人、死者数は38万人に達している。これからもこの数字が増えていくのは間違いないが、これらの数字は累積数であることを忘れてはならない。今日更新された日本の累計感染者数は16807人、累計退院者数14690人、累計死亡者数903人であり、この数字も増えてはいくが、退院者数の増加はあまり喧伝されない。感染者・入院者がいる一方で、回復して日常生活に戻っている人もいる。全体として見れば、状況は決して悪化しているわけではない。今日一日で入院治療を要する人は66名減って1141名となっているし、退院・療養解除の人は105名増えて14795名になっている。感染急拡大の時期は別にして、医療崩壊するレベルではなくなっている。感染したとしても健常者であればことさら恐れるレベルの状況ではなくなっていると私自身は思っている。マスク不足もすっかり反転し、どこからか湧き出したマスク在庫が安売りされている。コロナによる死者数は前述のテロにより殺害されている人の10倍以上、この一年で20倍に達するかもしれない。我々がテロ対策で常態化した、その10倍以上の社会的・生活的制約をワクチンが完成するまで受け入れるであろうか? 緊急事態宣言解除にあたって、命か経済かのどちらを優先するのかといった議論が巻き起こるが、どちらも優先して対策を施し、最終的には自己責任で自らの行動を律するしかない。

テロとコロナの共通点で感じるのは、正しく恐れ、正しく対応するということである。コロナ禍で自宅にいる時間が増え、TVの視聴率も上がっていると聞く。地上波の番組の多くは、恐怖を煽るのを目的にしているかのような感覚を覚える。事実を伝えるはずの「報道」はワイドショー化し、「結論」ありきで、意図的に情報を誇張する一方、不都合な事実には敢えて触れようとしない地上波が多いのではないか。専門家と称する人の一方的な見解を繰り返し垂れ流し、違う意見を持つ専門家の反論は見て見ぬふり。過去のブログでも放送法第4条について記述したが、公平性を装って不公正に報道する番組には怒りさえ覚える。アメリカの放送局でも偏向報道は行われているが、各局とも旗印を鮮明にしているので、却ってわかりやすいと言えばわかりやすい。日本のような放送法第4条もないので、そもそも公平性を謳っていないだけ日本よりアメリカの方がまだマシである。
日本においては、接触率8割減が西浦教授によって示され、政府の目標としても掲げられたが、異論も各所から出た。まだ未知のウイルスがゆえにいくつかの仮説によって目標設定されるのは致し方ない。目標がないよりあった方が人間の行動の方向性が定まりやすい。しかし、ほとんどの地上波の番組では、いつのまにか都心の人出の定点観測になり、「80%減に届かない」とか、「昨日より10%増え、気の緩みが出ているようです」とか、まことしやかに「報道」している。接触率は人と人との関わりなので、50%人出が減れば、二乗で効いて75%減になる。地上波は一部の過剰反応で起こった自粛警察を非難しておきながら、自らが自粛警察化していることに気づいていないのか、気づいていながら恐怖を煽り、視聴率を稼いでいるのか。恐怖を煽りすぎる結果、経済が落ち込み、企業がスポンサー料を削れば、自らの事業が危うくなるという計算ができない人しか地上波にはいないらしい。そもそもテロは力が弱い集団が採用する戦術である。ウイルスそのものも決して強大な存在ではない。それゆえ人々はひとたび恐怖を刷り込まれれば、容易にその呪縛から逃れることはできない。多面的に事実(実数)を冷静に見れば、正しく恐れ、正しく対応することは可能であるはずだが、周囲には過剰に恐怖を煽る似非情報がスピーカーを通して人々を容赦なく襲う。テロもコロナも恐怖を感じるほどは実害を与えない。人々の恐怖の多くはテロであれ、コロナであれ、どちらも実はEmotinalな反応によるものであることに気づく。それゆえ意識してScientific(科学、データ、数字、論理)な角度から正視してみる必要がある。それを間違った倍率や歪んだレンズ(偏向メディアなど)で見ないように、レンズの選び方も慎重であらねばならない。最近、地上波を観る私のスタンスは、間違った情報、間違った報道、間違った論理をチェックするために短時間ニュースを観る程度である。思わずTVに向かって「うそだよ!」「バカじゃない!」と叫ぶのは年のせいであろうか。上述のテロの章にはこんな件がある。「あいにくマスメディアは無料でテロの宣伝を行うことがあまりに多すぎる。ものに憑かれたようにテロ攻撃を報じ続け、その危険をやたらに膨らませてしまう。(中略)マスメディアがテロにこだわったり、政府が過剰に反応したりするのを促しているのは、私たち自身のうちにある恐怖心なのだ。」

(追記:最近、「情弱」という言葉を聞くようになった。「情報弱者」の略だという。典型的な情弱は地上波TVや伝統的大衆新聞などのオールドメディアからしか情報を得ていない人のことをいうようだ。一方、最近の若者で新聞を読んでいる人は極少数、TVもほとんど観ない。多くの情報をネットから入手している。どちらが情弱かわからないが、個々の情報をすぐ飲み込んでしまうのではなく、その出所や背景・理由を一旦立ち止まって考えてみることが、情弱から抜け出るひとつの手段なのだと思う。2020年9月9日)

バルト三国の歴史(ヒトラーとスターリンの間で)

2020年5月2日 at 9:27 AM

バルト三国はバルト海の東岸、フィンランドの南に南北に並ぶ3つの国で、面積は日本の半分にも満たない小国群を指す。北から順にエストニア・ラトビア・リトアニアと、それぞれ公用語を持つ独立国家であるが、その自立への道のりは苦難そのものであった。今では中世ヨーロッパの歴史的建築物が保護されている世界遺産として観光地としても有名である。エストニアのタリン歴史地区、ラトビアのリガ歴史地区、リトアニアのヴィルニュス歴史地区それぞれの首都の美しい街並みは中世ヨーロッパに紛れ込んだような感覚に誘ってくれる。
バルト三国は18世紀まではロシア帝国の支配下にあったが、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、リトアニアとラトビアの南部は翌年ドイツ軍に占領される。その後、1917年ロシア革命に成功したレーニン革命政権が民族自決を掲げると、その影響を受けてエストニア、ラトビア北部においてボリシェヴィキ武装蜂起が起こり急速に独立の機運が高まった。しかし、翌1918年3月にソヴィエト政府がドイツ等中央同盟国との間で締結したブレスト=リトフスク講話条約において、ソヴィエトは大戦からの離脱を表明した。その折にソヴィエトはウクライナを失いたくなかったことから、バルト全域を事実上ドイツに割譲し、この地域の領土を放棄することになる。その年の11月の大戦終結を受けて、漸く民族自決権を掲げてリトアニアとラトビアが独立。1920年にはエストニアも独立を果たすことができた。
そして、バルト三国はソヴィエトと講和条約を結び、1921年には国際連盟加盟、1924年バルト三国は最終的な侵略者に対する相互防衛協定に調印し国防を図った。1934年にはスターリン指導下のソ連にこの先10年間、1944年までバルト三国を攻撃しないことを誓約させ、平和への歩みを進めていった。

ところが第一次世界大戦に敗北したドイツは、ベルサイユ講和条約によって屈辱的な扱いを受け、領土は縮小され、植民地は戦勝国のものになり、軍備は制限され、何より莫大な賠償金が課せられた。これによりドイツ国内経済は破綻状態になり、国民の生活は長期に渡り混乱した。さらに1929年に起こった世界恐慌が追い打ちをかけ、瀕死の状態となってしまった。ここに登場したのがご存知のヒトラーである。ヒトラーはドイツ民族の優秀さを説き、失っていた自信と誇りを取り戻すための政策を矢継ぎ早に繰り出す。
具体的にはベルサイユ条約の破棄、植民地の再配分、ユダヤ人の排斥を唱え、当時の国際秩序に挑戦し、他民族を攻撃する手法を取り大衆誘導に成功した。表面的には社会主義政策を掲げながら、国民生活の安定を約束する戦法を取った。そして、一般大衆だけでなく、ナチス同様に政府への不満を吸収していた共産党の台頭を恐れた資本家や軍部をも取り込み、ナチス支援に引き込み、結果ヒトラーの台頭を許すことになったと言われている。ヒトラーはこうして1933年に政権の座に就き、周辺各国に譲歩を迫り、その軋轢が1939年のポーランド侵攻による第二次世界大戦へのトリガーとなった。

実はポーランド侵攻に先立つ1週間前にソ連とドイツは期間10年の独ソ不可侵条約に調印していた。大戦終了後に明らかになったこの条約には秘密議定書が含まれており、その条項によるとヨーロッパ北部ではフィンランド、バルト三国はソ連の勢力圏に割り当てられていた。1940年にはソ連が密約通りにバルト三国に侵攻しソ連への併合を果たす。ソ連はバルト三国に対し、軍事施設の建設、数万人規模の赤軍の駐留、シベリアへの大量強制追放などソ連邦への組み込みを強めることとなる。

ところが1941年6月独ソ不可侵条約を破棄したドイツが突如、ソ連に侵攻しバルト三国を再び占領してしまう。最初リトアニア人、ラトビア人およびエストニア人は、ドイツがソ連の過酷な支配から彼らを解放するものであると考えて協力を惜しまなかった。赤軍の進軍に対抗するために志願し結成された領土防衛軍が奮戦している事実がある。その間、バルト三国のユダヤ人の多くがホロコーストの犠牲(16~17万人言われ、特にリトアニアでの大量虐殺率は突出している)となり、逃亡を助けた杉浦千畝の逸話も今は良く知られているところである。しかし、1944年赤軍進攻によりバルト三国は再びソヴィエト化され、シベリアへ10万人以上の強制移住を余儀なくされている。

ペレストロイカ(ソ連政治体制再構築)の中で1985年にソ連大統領に就任したゴルバチョフがグラスノスチ(情報公開)を呼びかけ、「歴史の見直し」が行われた。その際、ソ連は独ソ不可侵条約時の秘密議定書によるバルト三国併合を違法なものであったと認め、1991年のソ連崩壊によりバルト三国はソ連からの独立回復を果たすのである。
こうしてバルト三国の近代史を振り返ると、18世紀はロシア帝国下、第一次世界大戦時には8か月間ドイツ帝国下、終戦により独立を果たすものの、第二次世界大戦勃発により1941年から1944年までは再びドイツによって、1944年から1991年まではまた再びソ連によって占領されていたことになる。一般に第二次世界大戦の帰結は「民主主義によるファシズムへの勝利」と結論付けられているが、バルト三国のそれは、ソ連とドイツに継起的に占領・共産化されてきた歴史である。よってバルト三国はナチのホロコーストと共産革命のジェノサイドふたつの全体主義犯罪を厳しく告発している。ヨーロッパにおける第二次世界大戦には4つの記憶レジームがあると言われる。ひとつは前述したバルト三国のそれであるが、あとの3つは英米による「ファシズムへの勝利を誇る自己賛美(ノルマンディ上陸・ドイツ降伏)」、独による「アウシュビッツに代表されるホロコーストの凄惨な記憶(悔恨と謝罪の念)」、ソ連・東欧による「反ファシズム戦争としての赤軍やパルチザン・ソ連市民の莫大な犠牲と貢献を称える『大祖国戦争』史観(ヨーロッパの解放者)」である。

現代は大量破壊兵器の開発により、事実上戦争は政治の延長たり得なくなってきており、複雑化・小型化・局地化の様相を呈している。一方で、現下の新型コロナウイルス感染拡大で世界経済がかくも脆弱であることが明らかになってしまったことは生物兵器への悪魔の誘いに何人も屈しないと言い切れない状況を生み出してしまったとも言える。生物兵器は理論上は禁止されているが、「裏切り者」が出ないという保証が担保できないことは上述の歴史が証明している。利害対立における最終手段としての戦争手段が今後も様々に講じられていくにせよ、それぞれの国の「正義」の名において人類を裁く戦争を行えば、壊滅的な破壊をもたらしてしまうことも歴史が証明していることである。全人類の共通の敵とも言える新型コロナウイルスとの闘いにおいてくらいは、全世界が英知を結集できないものかと切願するのはお人よしすぎるであろうか。

覇道と王道

2020年4月13日 at 5:19 PM

覇道とは為政者が徳によらずして武力や権謀を以って行う支配の仕方である。王道とはこれに反して、統治するに仁徳をもってする政治の仕方である。前者は韓非子などの法家の思想で、法治主義である。中国統一を果たした始皇帝も、宰相として李斯を登用して法家思想による統治を実施したとされる。一方、後者は孔子を開祖として戦国期の孟子(性善説)によって形作られた儒家の考え方で徳治主義である。滝沢馬琴(曲亭馬琴)が著した「南総里見八犬伝」で「犬」の字を含む名字を持つ八犬士が、それぞれに仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある数珠の玉を持っていたが、まさにこれらが儒教の徳性である。
中国の各王朝は表向きはつねに儒家を尊び、孔子を聖人とし、「礼」(道徳的な規範)をもって自らを律する儒教を政治道徳の鑑としてきたが、実際の政治の運営は法家の思想を手引きとして行われてきた面が大きい(もっとも今の中華人民共和国は法治主義というより、党治体制であるが)。儒家が表の、法家が裏の思想と言われることもあるが、歴史的には儒家の思想が荀子によって変遷し、それが韓非に引き継がれていったという説が定説となっている。つまり孔子が生きた春秋時代は貴族制であり、大貴族である卿が権力を握って治めていた比較的安定していた時代から、戦国時代に入り、大貴族に代わって君主が大きな権力をもつ「専制君主制」へ移行したあたりから、儒家でありながら孔子や孟子を批判した荀子(性悪説)が強調したのは、善になるためには「人為」すなわち教育が必要、人間は生涯学び続けることによって善に至らなければならないと説いたのである。
世界中に数百あると言われる孔子学院は孔子の名を冠してはいるものの、儒学教育機関ではなく、中国語語学教育機関である。アメリカやカナダでは「設置先の大学などの教育機関の学問の自由が阻害されている」「中国共産党政府の宣伝組織だ」「孔子学院が世界の民心掌握のための中国政府の試みの一部である」などと多くの懸念や批判が表明されている。
儒教では身分秩序は固定的なものとされ、秩序の維持の基礎となっているのは「礼」の道である。身分の高いものは君主に至るまですべて徳があり、高い地位は高い道徳を前提として、下々の者がそれをとやかく批判してはならないとされる。天子は天下を愛し、諸侯は領民を愛し、大夫は官職を愛し、士はその家を愛すという徳治主義である。一方、韓非子の人間観は、天子も諸侯も大夫も士(人民)も、みな同じ利己心を備えた、権勢欲に駆り立てられた醜悪な存在として設定されている。臣下たるものは隙あらば君主を収奪して己が勢力を伸ばそうとする存在であり、道徳というようなものの入る余地がないとする。よって、「法」により人間の欲望を制御し、裁量余地のない信賞必罰の厳正な統治をすることで世は治まると主張するのである。しかしながら、始皇帝統一後の秦がわずか14年で滅んでしまったのは、この法治主義という名の恐怖政治の結果と無縁ではないだろう。
日本に儒教が伝わってきたのは5世紀であるが、日本人に浸透したのは江戸幕府による朱子学(南宋の時代に朱熹がまとめあげた儒学の一派)の奨励が大きいであろう。今でも「子は親や先祖を敬うもの」という道徳観念はほとんどの人の心に息づいているはずである。一方、法家の思想はあまり日本には受け入れられなかったように思える。わずかに、安井息軒という江戸時代後期の儒者が管子(法家思想の元祖と言われる管仲に仮託して書かれた法家の書物。管仲の著書だと伝えられているが、篇によって思想や言い回しが異なり著者は複数居るとされる)を高く評価したとされるが、一般の日本人にその思想は浸透していない。大日本国憲法はドイツ人顧問のロエスレルらの助言を得て、伊藤博文や井上毅等がプロイセンの法治主義を基礎として作成したもので、法家由来のものではない。逆に言えば、太平の江戸時代においては、大岡裁きに代表されるように法令に公正でありながらも人情味のある裁定が巷で話題になるような、およそ厳正な法治国家ではなかったのではなかろうか。
一般的に言って、思想的には孔子の仁愛の方が耳障りが良いし、それで世が治まるならそれに越したことはないと思う人が多数であろう。しかし、韓非子は言う「論客たちは口を開けば、仁義を行うことが人君の道であり、そうすれば優れた王道が実現できると言うが、いたずらに高潔ぶってみせ、実効の伴わぬことばかりしている連中が多い。政治が混乱から抜け出せないのはなぜか。民衆に人気があるものと、政治指導者の歓迎するものとが一致して、それが「乱国の術なり」と、ポピュリズムや衆愚政治を徹底的に批判している。
続けて、韓非子の言に耳を傾けてみよう。「民衆というものは、もともと権勢には服従するけれども、正義に従う気持ちを持つことのできるものは少ない。孔子は天下の聖人である。しかし、孔子は詩書礼楽の四教をもって弟子を教えたが、三千人の弟子の中で六経に通じたのは72人のみであったという。思うに、本気で正義を実行するということは事ほど困難なことである」。韓非子は、王道にだけ政治の道を期待するのは危険であり邪道ですらあると主張する。孔子そのものを否定するものではないが、政治と道徳は別であるということを強調しているのである。
コロナ災禍は先が未だに見えない。「ロックダウン」という言葉が海外から伝えられた。日本も緊急事態宣言が発令されたが、ロックダウンと違って強制力はなく罰則もない。これでどうやって8割の接触を減らすのかと一部では喧しい。法体系の違いがある。日本の法体系は良くも悪しくも人の行動の自由を最大限尊重する。国民に自粛をひたすら「お願い」する形である。PCR検査にしても他国とは違うやり方である。中国の隣国にありながら、未だに一部中国人(在住者の家族)を受け入れているにもかかわらず*、死亡者が他国より明らかに少ないという結果は認めるべきである。国は王道だけでは治まらず、覇道だけでも治まらない。これまでの歴史を通じて、各国なりの感染予防対策を行っている。厳正な予防対策の副作用も考慮して決断している。そこには休業補償や雇用安定対策も当然含まれる。そしてこれらは民主主義国家であれば、国民が選んだ政治家の判断であり仕事である。結果失敗したら、それら政治家を選んだ自らを恨むしかない。法に頼り過ぎず、徳をもって治世を行うには、荀子が説くところの国民の民度の高さが求められる。民度が高くなれば孔子の道に、低ければ韓非子の道に引き寄せられていく。全体主義国家では国民の意思とは関係なく、一方的に対策が講じられる。スピードは速いが、失敗すると底なしのダメージを受けることになる。それぞれの国家の王道と覇道のバランスの結果がコロナ災禍が落ち着いたところで判明することになる。

*http://www.moj.go.jp/content/001318291.pdf

檄 三島由紀夫

2020年4月1日 at 11:36 AM

「三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜」を観た。コロナ禍で映画館も空いていて20人程の観客。いわゆる3密(密閉・密接・密集)の2条件はクリア。コンサートでもクラシック・コンサートは感染確率が低いらしい。なぜなら喋らないからである。感染爆発を抑えなければならないのは勿論だが、経済不況による死者も想定しなければならない。これまでの政府の対策を批判することは簡単だが、この状況下でのかじ取りは本当に難しい。

三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で益田総監を監禁し、バルコニーにおいて自衛官1000名ほどを前に、「檄」を撒布して演説を行い、その後、割腹自決を遂げたのは1970年11月25日のことである。当時私は小5であったが、そのニュースや翌日の新聞に掲載された、その最後の生々しい写真は未だに鮮明に記憶に残っている。

三島の生涯は45年という短いものであったが、遺した作品数は多く642である。「金閣寺」「潮騒」「仮面の告白」など代表作があるが、私自身は一作品たりとも全文を読み切っていない。作品そのものにはあまり興味を持てず、一方、三島の人生観や自決に至る思想にはずっと興味があった。

小5の私に三島の思想が理解できるわけもなく、社会人になってもその思想を自分なりに咀嚼できる余裕はなかった。三島の年齢を超え還暦を経て、漸く自らの人生観・死生観をもって、三島の思想に踏み込む時間を手に入れ、上述の映画がその機会を提供してくれたということである。

「檄」を初めて全文読んでみる。私の理解を以下に要約してみると、戦後の日本は経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本(三島的に言えば、天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守ること)を忘れ、政治は保身、権力欲、偽善にまみれ、国家百年の大計(防衛)を外国(アメリカ)に委ねている。三島は4年間、準自衛官として入隊し、自衛隊に真の日本(人)たるを期待するに至る。憲法を改正することにより、自衛隊が名誉ある国軍となることを夢見たのであった。

しかし、1969年の10.21国際反戦デー闘争(日本の新左翼暴動事件)を受けた政治的妥協により、憲法改正は政治的プログラムから除外され、自衛隊は自らを否定する憲法を守る「護憲の軍隊」という位置に追いやられてしまった。三島はこれに大いに憤激し、自衛隊からもその反駁の声が出ないことを嘆いた。そして生命尊重以上の価値(「日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。」)の所在を見せつけるために、抗議をして腹を切った。

映画を観て、民青(日本共産党の青年組織)と全共闘が戦っている理由を改めて知った。全共闘はゲバルトやバリケードなど過激な面が強調されるが、実は反米愛国が基軸である。一方、三島は天皇親政であり、両者は愛国というところでは共通している。三島はその共通項を以って、全共闘の心を動かそうという意志があると私は感じた。全共闘は若さゆえか、ひたすら論理を振り回し、揚げ足を取るのに精一杯と私には映ったが、三島は若者たちを諭すように丁寧に言葉を吟味して議論をしていたのが印象的であった。

三島の死から50年経った。憲法改正論議はすっかりコロナ禍で霞んでしまい、祖父岸信介が望んだ憲法改正を実現しようとしている安倍総理も来年9月に任期満了を迎える。延期された東京オリンピック開催が安倍総理の最後の花道であるとしたら、私としてはあまりに寂しい。自身が言うように、自民党結党以来の党是である「現行憲法の自主的改正」を行ってこそ、歴史に残る宰相である。占領国の都合で与えられた「現行憲法」を国是に合わせて改正し、これも米国の都合により「警察予備隊」が「自衛隊」と改名された「大きな警察(つまり治安維持)」を「名誉ある国防軍」にしてこそ、初めて独立国家としての日本が存立しうるのである。

最近、私は西尾幹二氏の著作に興味が湧き、いくつか読んでいる。その中に氏が一度だけ三島邸を訪れ、歓談した時のことを記した随筆がある。三島の人間的魅力に魅了されつつ、また別の三島も垣間見えたことを吐露している。氏による三島文芸作品の分析では「論理的一貫性」に芸術的美を見出し、言行一致を旨とする陽明学的行動論理を好んだとある。和魂洋才から洋魂洋才に堕ちてしまい、自他をごまかして(明らかに自衛隊は違憲)保守化していく安定した体制への拒絶感情をみている。三島はその論理一貫性と言行一致に拘わり、人生を終えた。「武士道とは死ぬことと見つけたり」を貫くような人物は現代には少ないがゆえに、三島は今でも多くの人の記憶に残る存在である。

イスラエルの人口増加

2020年3月2日 at 10:30 AM

イスラエルはシオニズム運動(ユダヤ人・ユダヤ教・ユダヤ文化の再興)を経て1948年に建国された国である。面積は四国を少し大きくした程度の小さな国である。人口は900万人を超えているが、過去30年の間に450万人から倍増している。一人当たりのGDPは4万ドルを超え、日本より上位に位置している先進国家である。
イスラエルのイメージはパレスチナをめぐってアラブ人との戦闘がずっと続いているというのが一般的であろう。時折TVで観るイスラエルのネタニヤフ首相は強硬で好戦的なイメージすら感じられる。イスラエル建国70周年を迎えた2018年に米トランプ大統領はエルサレムをイスラエルの首都として正式に認めると発表し、在イスラエル大使館をテルアビブからエルサレムに移転した。自身の支持基盤(正統派ユダヤ教徒や福音派キリスト教徒)に向けた選挙公約を守った形だが、パレスチナ自治政府のアッバス議長は「嘆かわしい」と呼応した。ネタニヤフ首相は「歴史的」な政策転換だと歓迎したが、式典でのツーショットは中東和平を脅かすものとして多くの人々に映ったであろう。
折しも新型コロナウィルスの感染拡大で、日本では全国の小中高等学校が休校となる事態になった。共働きの家庭やシングル・マザー/ファーザー世帯は対応に苦慮し、学童保育の存在が急にクローズアップされた。給食用に栽培していた野菜が行き場を失い、マスク不足はいつ解消するのかといった不安の只中に今の日本はある。
イスラエルも共働き世帯が多いが、合計特殊出生率は先進国の中では際立って高く3.11である。日本のそれは1.44と半分にも満たない。イスラエルの特徴として、高い教育を受けた女性が多くの子どもを産むという傾向があると言われる。これには勿論、ユダヤ教の超正統派(ユダヤ教の中の1割弱)の存在が貢献しているものの、宗教や律法にあまり縛られない世俗派(同4割強)にも同様の傾向が見られるとのことである。イスラエルの宗教分布をみると、ユダヤ教が75%と当然多数派を占めるが、イスラエルは宗教の自由を認めているので、イスラム教徒も17%と相当数いることに私は驚かされた。
イスラエルの高出生率の理由を、日本にも造詣の深いニシム・オトマズキン国立ヘブライ大学教授は伝統、移民、政策の3つをもって説明されているが、政策については異論があったので、日本イスラエル親善協会ビジネス交流委員 新井均氏のコラムを転用した。
1)伝統:ユダヤ人は子どもを沢山持つことは旧約聖書にある神の戒律に従うことと信じている。過去2000年間にわたってユダヤ人は小さなコミュニティーで暮らし、ある時には絶滅の淵に立たされた(ホロコーストでは、当時のヨーロッパのユダヤ人の3分の2にあたる600万人を失った)。子どもを沢山産むことはコミュニティーの存在につながる大事なことという認識が深く存在する。日本においてわずかながらある出生前診断はイスラエルでは先例がない。つまり産むこと自体に意味や価値を見いだしているという別の准教授の言葉を引用している。
2)移民:イスラエルは世界中に散らばっているユダヤ人を「祖国」に帰って来させることを目的につくられたので、重要政策である移民は奨励され、毎年何万人もの移民を受け入れてきた。1990年代、旧ソ連体制の崩壊を受け、100万人ものロシア系ユダヤ人移民をわずか10年間で受け入れた。移民の多くは高い教育を受けており、労働市場において優秀な就労者が集積されていった。ユダヤ人の哲学には、迫害の歴史に遭っても、脳内に納められた知識だけは誰にも奪われることがないといった考えが受け継がれている。教育熱は非常に高い。アルベルト・アインシュタイン、スティーブン・スピルバーグ、アラン・グリーンスパン、マイケル・ブルームバーグ、ジョージ・ソロス、エスティ・ローダ、ラルフ・ローレン、マイケル・デル、ラリー・エリソン、サーゲイ・ブリン全てユダヤ人である。
3)政策:3歳からの公立幼稚園費用は無料。7つある大学は国立で、文理系問わず年間約35万円の授業料(文学部でも医学部でも同額)。子ども1人から6人まで子ども手当が支給されるが、金額は日本とそうは変わらない。実態は両親の家の近くに住み、祖父母の経済的、労力的支援を得ている家庭が一般的なようだ(新井氏)。40歳以上の女性が子どもを産む割合が世界で最も多い国の一つであることは政策と家族協力があってのことだろう。
イスラエルは未だにモザイク国家である。現在20数%のイスラエル・アラブ人口が過半数を超えればユダヤ人国家ではなくイスラム国家となってしまう。したがって、たとえ世俗派のイスラエル人であってもユダヤ人口増加率がアラブ人口増加率を上回らない限り、ユダヤ人国家は存続できないという恐怖観念を抱えているという。ホロコーストの経験から、ユダヤ人には「生き残らねばならない」という集団的記憶が埋め込まれていると新井氏は言う。島国で比較的安寧に暮らしてきた日本人には理解しきれない歴史がユダヤ人には刻まれている。