世界中で戦火が絶えない。今も60を超える地域で紛争が継続中であると言われる。徴兵制(義務兵役)を布いている国家は約60以上あり、主に韓国、北朝鮮、ロシア、イスラエル、北欧諸国(スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、フィンランド)、台湾、トルコなどで実施されている。イスラエルや北朝鮮、スウェーデンなどは女性も徴兵対象となる国である。永世中立国スイスや今も戦闘中のイスラエルは国民皆兵制度を布いている。ロシアの脅威やウクライナ情勢などを受け、フランスなど徴兵制を廃止していた国が復活する動きすらある。
日本に徴兵制度が布かれたのは、1873年(明治6年)1月のことで、これが法制的に廃止されたのは、終戦の1945年(昭和20年)11月のことである。
日本徴兵制度の最初の提唱者は靖国神社に銅像が建立されている大村益次郎と言われているが、大村は1869年(明治2年)9月京都の宿舎で、徴兵制反対派の元長州藩士8人の刺客に襲われ、それが致命傷となって数か月後に45歳で亡くなった。大村の遺志を継いだ山形有朋は「兵員数を平時は少なくし、戦時に増加するには、安上がりの国民皆兵制以外にない」と語ったとされ、「安上がりの軍隊」と言われた所以である。
しかし、当時の政府と軍は、それを国民に悟られぬように、「徴兵に応じることは、納税とともに国民の崇高な『必任義務』の遂行であると喧伝し、徴兵検査に甲種合格して徴兵されるものは、国民中の最大の幸福者で、無上の名誉に浴するものであるという観念を植え付けようとした。
ちなみに、当時の徴兵検査結果基準は、甲種・第一乙種: 155㎝以上で身体強健で合格となり即入営または補充兵。第二乙種・丙種: 体格・健康状態が劣る者(見た目が重視された)は、一時免除や特別扱い。丁種: 身体・精神の不適格者であり、徴兵免除等である。
一方で、兵役に就かないことを自らの信仰や信条を示して明言した兵役拒否者がいた。また何も語らずに逃亡した徴兵忌避者がいた。それは、忌避は隠れて行う必要があったからであり、また、その理由を言葉にはできなかったからでもあろう。
徴兵忌避者の中には、徴兵検査を前に絶食したり、下剤を飲んだり、減食したりして計画的に体重の軽減を図り、甲種合格を免れようとする積極的な徴兵忌避者がいた。検査の日時が近づくにしたがい、検査とその結果を恐れるあまり、多かれ少なかれ焦燥不安症に罹り、食事も碌々とれず、不眠が続いて、中にはノイローゼ気味になる者も少なくなく、その結果自殺者も出たくらいである。
明治初期の徴兵基準には、職業や身分によって、徴兵を免除されるものもいた。官吏(政府職員)、官公立学校の生徒、医術修行中の者、洋行修業者(海外留学)、海外渡航者(脱出)などである。当時日本が統治していた南洋諸島と呼ばれたパラオやサイパンなどの島々には、砂糖や鰹節生産のため8万人以上が移住していたが、その6割以上を占めていたのは沖縄からの移民である。
官公立学校の生徒という基準に対しては、慶應の福沢や早稲田の大隈が大反論を行い、のちに私学と官学の待遇格差は撤廃され、また一方で、1年志願制度や6週間現役兵制度などの軽減措置が設けられることになる。
1年志願兵制度とは、普通三年間の服役年限を官公立中学校以上の学校の卒業者に限り、1年間の陸軍服役を設けるというものであり、六週間現役兵制度は男子部師範学校を卒業した先生は六週間軍隊に入って、教練を受ければ、教職に留まる限りはそれで一生兵役を免除されるというものである。徴兵忌避の手段として認知され、志願するものは非常に多く、校長の推薦がなければ受験すらできず、試験も難しく非常に激しい競争倍率であった。結果、徴兵忌避者が軍国少年をつくるという大いなる矛盾も孕んでいた。
しかし、戦争が激しさを増すにつれ、こういった徴兵免除制度はなくなっていくことになる。
明治6年(1873年): 徴兵令が制定されるも、上記のような多くの免除規定により、実際の兵役は主に農家の次男以下の子弟が服役した。
明治22年(1889年)以降: 徴兵令の改正により、長男であっても経済的に独立している場合や、病気でない場合は徴兵の対象となった。
明治30年〜40年代: 免除制度はほぼ廃止され、身体的な不合格者を除き、ほとんどの男性が義務を負うようになった。
「徴兵保険」というものも1898(明治31)年に創設された。幼少のころに加入した男子が成人して現役兵として徴集された場合に保険金を給付し、徴集されなかった場合は掛金を払い戻すという仕組みである。徴兵検査不合格や徴兵忌避の場合は「保険契約は無効として一切支払いはしない」というものである。
日本における徴兵忌避者は7万4千人との研究がある。無視できない人数に及ぶにつれ、逃亡や失踪による徴兵忌避を黙認し、北海道開拓事業に従事させる屯田兵制度(1874年:明治7年)などがあった。北海道や沖縄での徴兵制は本土より9年遅れたことを利用して、夏目漱石は1892年(明治25年)東京から北海道に転籍している。
他にも、三島由紀夫(本名:平岡公威)は、1945年2月の徴兵検査(兵庫県加古川)にて、重い風邪による高熱を患っていたため肺疾患と誤診され、即日帰郷(兵役免除)となった。当時、平岡家は三島が軍隊に入れば確実に死ぬと心配しており、父・梓は軍医の診断を偽装工作するなどの工作によって「結核」という病名を強調し、徴兵忌避(免除)を勝ち取ったという認識が一般的である。三島本人も「仮面の告白」でこの経緯を示唆しており、後の三島が「真の軍人」を求め、自衛隊にこだわる憂国の精神を経て、衝撃的な死を遂げた背景にある、逆説的な「生」の体験として語られている。
明治~大正~昭和の約73年間に渡って、日本の青年は、この徴兵制度のために脅かされ、苦しめられ、その悪夢と闘い続けてきた。この闘いこそ、徴兵忌避の運動であり、国家あるいは戦争加担への抵抗の歴史である。
徴兵忌避はもっとも単純幼稚なまじないや迷信から始まって、エホバの証人、ものみの塔などの宗教的理由、自ら体力を弱め、あるいは身体を傷つけ、さらには逃亡失踪し、時には暴動を起こして(血税騒動)、権力に多種多様な形で決戦を挑んだものである。
徴兵忌避の歴史は研究者によると、三期に分けられる。
第一期:血税騒動→農民が竹やり、鍬、鎌などを携えて武装蜂起(百姓一揆と軌を一つにする)し、名主・官員宅などを襲い、学校や集会所を放火または破壊、県庁を襲撃(明治維新に協力し薩長土肥と戦った農民が、明治政府の裏切りに憤激し起こした一揆:徴兵告論の中の「生血を以て国に報する」の一節に反応したもの。
第二期:1875年(明治8年)徴兵代人料270円(または135円)の納入による徴兵免除を中心に、養子縁組・戸籍売買などを巧みに駆使して、合法的脱法行為がなされた時代(嗣子に対する免除は使い道がいくつもあった。徴兵養子と呼ばれるもので、子供のいない人の形式的な(戸籍上の)養子になって徴兵を逃れるというものであった)。
第三期:1885年(明治18年)から徴兵免除規定が大幅に縮小または削除され、徴兵忌避が全面的に非合法になった時代で、犯罪、詐病、身体毀損によって徴兵忌避を試みる時代。
丸谷才一著「笹まくら」には戦中は言うまでもなく、戦後においても偽名を使い苦悩の人生を歩んだ徴兵忌避者の姿が描かれている。
冒頭述べたように、世界中戦火が絶えない、いや増えつつあると言える現代において、国家の論理に殉じるか、私の倫理を貫くか、判断を迫られる前途有望な青年淑女は多くいるに違いない。極ごく一部を除けば、誰しも「殺されたり、殺したり」はしたくない。国家か個人かの選択はそれぞれに委ねられるべきであるが、そこには大義が大きく影響する。その大義の理由に欺瞞やウソ偽り、ペテン、ごまかしがあってはならない。「戦争とは、爺(じい)さんが始めて、おっさんが命令し、若者たちが死んでゆくもの」は大橋巨泉氏が引用した言葉であるが、その大本は第31代アメリカ合衆国大統領ハーバート・フーバーの“Older men declare war. But it is youth that must fight and die.”であろう。大義に欺瞞があっては、死んだ若者は浮かばれない。


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