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ユーゴスラビア

2021年3月2日 at 1:56 PM

今の若い人の中にはユーゴスラビアという国があったことを知らない人もいるだろう。ユーゴスラビアはバルカン半島地域に存在した社会主義国家である。ユーゴスラビアとは「南スラブ人の土地」を意味し、国名として「ユーゴスラビア」を名乗っていたのは1929年から2003年までの期間である。第二次世界大戦前は王国であったが、大戦後はパルチザン(共産主義主体の勢力)を率いるティトーが社会主義を標榜し連邦共和国を樹立した。この社会主義国家を率いていたティトーが1980年死去すると、各共和国は分離独立を主張し、さらには民族間の軋轢による内部分裂を起こし、ほどなく紛争・民族独立・崩壊への歴史を進めることとなる。

私が学生時代には「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」をティトー(私はチトーと習った)のカリスマ性とバランス感覚によって平和裏に統治してきた社会主義国家のひとつの見本として認識されていた。

「七つの国境」とはイタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニアである。1941年ヒトラー率いるドイツと同盟を結んだイタリア、ハンガリー、ブルガリアを含む同盟国軍によりユーゴスラビアは侵攻されて、分割占領される。ユーゴスラビア王国政府はロンドンに逃れ亡命政権を樹立し、粘り強くドイツ軍に抵抗を続けるが、実際に抵抗運動をリードしたのはティトー率いるパルチザンであった。その結果、ユーゴスラビアはソ連軍の力を東欧の国で唯一借りず、自力での解放を成し遂げるに至り、ティトーは国家の英雄となるのである。

1943年に社会主義国家を樹立したティトーはソ連からの自立図り、独自路線を推し進めたため、1948年にスターリンからコミンフォルムを追放される。その後もソ連から刺客を送り込まれたが、ティトーは全て秘密警察により検挙し、ソ連の衛星国化を諦めさせさらに人気を得ることとなる。

さらにティトーは、アメリカが戦後のヨーロッパ再建とソ連への対抗策として打ち出したマーシャル・プランを受け入れ、東ヨーロッパの軍事同盟であるワルシャワ条約機構に加盟しなかった。1953年にはギリシャやトルコとの間で集団的自衛権を明記した軍事協定バルカン三国同盟を結んで北大西洋条約機構と事実上間接的な同盟国となる。ティトーの米ソ二大国を相手にしたたかな政治外交手腕の真骨頂と言えよう。そしてソ連から侵攻されることを念頭に置いて兵器の国産化に力を入れ、特殊潜航艇なども開発する。ユーゴスラビア連邦軍とは別個に地域防衛軍を配置し、武器も配備し米ソどちらにも組み込まれない中立的な立場を維持しようと努力する。

また、生産手段においてはソ連流の国有にするのではなく、社会有にし、経済面の分権化を促し、各企業の労働者によって経営面での決定が行われるシステムを導入した。ソ連と一線を画したユーゴスラビア独自の社会主義政策とも言うべき自主管理社会主義を浸透させていったがティトーである。逆にこの自主管理社会主義が、のちに地域間の経済格差を拡大させ、ユーゴスラビア紛争の原因の一つとなるのだが、まさに現在多くの国が直面している経済成長と経済格差是正をどうバランスを取るかという問題は時空を超えて共通の悩みの種なのであろう。

ちなみに冒頭触れた「六つの共和国」とはスロベニア、セルビア、モンテネグロ、マケドニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナのことであり、若い方の中にはようやくいくつか聞き覚えのある国名があるのではなかろうか。特にボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビア解体の動きの中で象徴的な紛争である。ボシュニャク人とクロアチア人が独立を推進したのに対し、セルビア人がこれに反対し分離を目指したため1992年から3年半に及び全土で戦闘が繰り広げられ、国連の調停やNATOの介入によって終結を見たものの、死者20万人・難民200万人という最悪の結果を招いたことでよく知られている。

「五つの民族」とはセルビア人、クロアチア人、スロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人のことであるが、それ以外にもボシャニャク人、アルバニア人、ハンガリー人、イタリア人などが混住している複雑な国家であった。
「四つの言語」とはセルビア語、クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語のことであるが、セルビア語とクロアチア語は相互の差異は小さく、互いの意思疎通が可能と言われているので、スペイン語とポルトガル語くらいの感じであろうか。
「三つの宗教」とはカトリック、正教会、イスラム教であり、スロベニア人・クロアチア人は主にカトリック、セルビア人・モンテネグロ人・マケドニア人は主に正教会、ボシュニャク人が主にイスラム教である。
「二つの文字」とはラテン文字とキリル文字のことである。

話を元に戻そう。なぜにティトーが死去したのちにユーゴスラビアは解体への道を歩んだのか。まず最初にセルビア共和国コソボ自治州で少数派のセルビア人が多数派のアルバニア人に対する不満を募らせ、独立を求める運動が起こった。スロベニアは、地理的に西ヨーロッパに近いため経済的に最も成功していたが、1980年代中ごろから、南側の共和国や自治州がスロベニアの経済成長の足を引っ張っているとして、分離の気運が高まった。クロアチア人は政府がセルビアに牛耳られていると不満が高まり、セルビア人は自分達の権限が押さえ込まれすぎているとして不満だった。経済的な成長が遅れている地域は「社会主義でないこと」、経済的に発展している地域は「完全に自由化されていないこと」に対して不満があった。民族意識と経済格差への不満がまとめ役のティトーの死により噴出した形であるが、ティトー亡き後、各共和国の政権は脆弱を極めていく。ティトー死後10年経った1990年以降には社会主義政策を放棄し各共和国が独立を果たしていくが、未だに10万個以上の地雷の危険にさらされ、50万丁の武器が民家に隠されているという。

これだけ民族が複雑に絡み合う旧ユーゴスラビアに、「ユーゴスラビア人」と自認する人はいるのだろうか。現在でも自らをユーゴスラビア人として申告する人の思想的背景としては、当然これを導入した共産主義体制を支持する人も存在するが、単にユーゴスラビアを懐古する人、ユーゴスラビア紛争の反省から、民族間の融和に努めるべきであるという思想によりユーゴスラビア人を名乗る人まで幅広く存在するという。また、思想とは別に単に自らの両親の民族が異なるからという理由でユーゴスラビア人として申告する人も存在するとのことである。日本人は日本人の定義をそれぞれ持ってはいるものの、概して大きな違いはないように思うが、xx人とはどう定義すべきものなのか、ユーゴスラビアの歴史をひも解くに簡単な答えは無さそうである。

東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長が発言を切り取られ「女性蔑視発言」と糾弾され辞任するに至ったが、女性でありアスリートである橋本会長になりました、めでたしめでたしというのは頭がめでたい人の言うことである。「多様化」なる言葉が頻繁に使われるようになって久しいが、権限を牛耳る男性主体の理事会に女性を40%入れましょうといった文科省のAffirmative Action的な発想は、そもそも性別や人種などにおいて、社会的に差別されている人たちを救済するための措置として始まったことを考えるに、そのこと自体が上目線の差別なのではないかと私には思える。
男女の人数の帳尻だけを合わせても、結果はただ対立構造を生むだけである。人材の多様性とは外見や属性の多様化ではなく、知識や経験といった知見の多様化に求めるべきものである。そうでなければ積極的格差是正措置と訳されるAffirmative Actionは弱者集団救済の域を出ず、様々なバックグラウンドを持った人たちの英知の結晶を創り出すことにはなり得ないのである。

魚は誰のものか

2021年2月1日 at 4:55 PM

子供のころ食卓には魚が並ぶことが多かった。新潟の海っぺりに住んでいたので、新鮮な海産物が安く手に入ったことが理由であろうが、私は子供のころ魚はあまり好きではなかった。煮たカレイや糸こんにゃくとタラの親子煮などが記憶に残っているが、子供のころは肉の方が食べたかった。一口に肉といっても給食に出るような肉は脂身の多い豚肉の細切れが多く、残すとダメということで飲み込むように食べていた悪夢が蘇る。すき焼きもたまに食卓に出たが、何の肉だったのか記憶は定かではない。自分で稼ぐようになってからは、稼ぎに応じて舌でとろけるような牛肉やジビエ等も食べることができるようになったが、50も半ばを超えるようになるとサシの入った霜降りより赤身の方を好むようになった。そして、今はもっぱら魚を好むようになり、子供のころ苦手だった煮魚やシンプルに塩だけで焼いた焼き魚が好物となっている。昔、安価に手に入ったであろう魚類は世界、特に中国の需要増に伴い価格が上昇し、かつて庶民の味方と言われていたサンマやイワシなども手が届かなくなり、せいぜい冷凍可能な干物が食卓にあがる程度の時代になってしまった(サンマの値段は30年前の2倍)。以前は肉を食べられる家が裕福であったが、今や魚を食べられる家の方が裕福であろう。消費量で見ると2011年に肉類が魚介類を初めて上回り、その後も差が広がっている。いつ頃から魚は肉より高級になったのであろうか。

以前このブログでも書いたが、日本は世界6位の面積を持つ歴とした海洋国家である。日本の排他的経済水域(EEZ)の面積(約447万㎢)はアメリカや中国、ブラジルといった大国の陸地面積の約半分に相当する。メタンハイドレードや石油、レアメタルなど海底資源の可能性を大いに秘めていることも述べた。
海洋大国日本の漁獲高を見てみると、平成30年(2018年)は442万トンで生産量ピークの昭和59年(1984年)1282万トンと比較すると1/3近くまで減少している。冒頭の私の子供時代は700万トン前後であったので、その頃よりもかなり少ない漁獲量となっている。それでは魚の値段が上がるのも無理からぬことと思われるが、日本はかなりの量の海産物を輸入している。統計としては1年ずれてしまうが、2017年の水産物の輸入量は248万トン(上位はサケ・マス類、エビ、マグロ・カジキ類)。一方の輸出量は60万トン(上位はホタテガイ、真珠)となっている。輸出量第一位のホタテガイは殻付きで中国に輸出され、殻をむいた後に主に消費国米国に輸出される。米国では資源保護のためにホタテの漁獲規制が行われ、米国内での供給量が激減したため、日本などからの間接輸入を急増させたと見られている。真珠は言うまでもなくジュエリーとして香港などに輸出されるが、実は世界で流通する真珠の約70%の選別・加工が神戸で行われているということは意外に知られていない。

余談になってしまったが、上記の数字をざっくりと計算すると日本で食されている海産物の4割は輸入に頼っているというのが実態である。世界の漁獲量は年々増加の一途を辿り過去60年間で約7倍にもなった一方で、日本の漁獲量は先に述べたように1984年をピークに下降を続け60年前より少なくなってしまっている。日本の一人当たりの食用魚介類の消費量は2000年から4割減少している。

日本の漁業形態には⓵遠洋漁業(大型漁船で長い日数をかけて大西洋や太平洋、インド洋などでマグロやカツオを獲る)⓶沖合漁業(中型漁船で2~3日かけてイワシ、サンマ、サバ、アジ、エビ、タコ、ズワイガニを獲る)⓷沿岸漁業(小型漁船で日帰りで行う家族経営)の3つがある。1977年頃から世界各地で沿岸から200海里(約370㎞)の水域で外国船は勝手に入って漁業をしてはいけないというルールが広がり、かつて全体の4割を占めていた遠洋漁業が1割に減ってしまったことが日本の漁獲量の減少の理由のひとつである。その一部は沖合漁業に活路を求めたものの減少傾向を補うには及ばずピーク時の半減。沿岸漁業は沿岸開発による水産生物の減少や、サケやマスの回帰率の低下などの理由もあり、養殖に力を入れているものの現状維持が精一杯。結局、前述の漁獲量全体の減少に歯止めがかかっていない。もうひとつの大きな理由は漁業就業者及び漁船の高齢化である。65歳以上が最も多く、沿岸漁業においては75歳以上の人も大勢いて、若い人の漁業への関心は高まってきてはいるものの、まだまだ少数と言わざるを得ない(39歳以下は18%ほど)。養殖業に期待は集まるものの種苗や飼料の入手といった制限要因のハードルも高い。

そもそも魚は誰のものか? 海には「公海」と「領海」という考え方がある。公海というのはどの国にも属さない、誰もが自由に行き来したり、魚を獲ったりできる海のことである。領海というのはその海の近くの国の陸地の続き、つまりその国の領土と同じという考え方である。17世紀終わり頃に領海は海岸から3海里(約5.5㎞)とされた。ところが1945年に、アメリカの近くで発見された海底油田をアメリカが所有するために、領海を12海里(約22㎞)に広げると宣言した。それを契機に各国が海洋資源の重要性に気づき、揉め事が起きるようになったため、「国連海洋法条約」(1982年採択、1994年発効)がつくられ、領海は12海里以内とすることが決定した。
この条約で「排他的経済水域(EEZ)」も決められ、その国が魚や海底資源を獲ったり管理する権利をもつようになる。つまり、水産資源は国または国民の共有財産という定義である。そしてこれを国内法(日本の漁業法)に当てはめると、水産資源は無主物(誰のものでもない)が、民法239条に定める「無主物先占」にあたり、先に取ったものに所有権があるとされている。しかし、これでは資源の先取り競争と乱獲を招くことになってしまうので、何らかの国の管理監督が必要になってくる。漁業従事者にとっても消費者にとっても水産資源の持続可能な利用と水産物の安定供給の実現は共通の願いであるはずであろう。日本では1996年にTAC法(Total Allowable Catch)が成立し、漁獲量が多い、あるいは資源状態が悪い、また近海で外国人により漁獲されている7魚種が漁獲可能量を上回らないように国によって管理されている。

しかし、海は世界とつながっており、世界各国での管理が必要になる。国際連合食糧農業機関(FAO)は世界中の資源評価の結果に基づき、世界の海洋水産資源の状況をまとめており、海洋水産資源を生物学的に持続可能なレベルに維持できるよう活動を行っている。日本を含む北西太平洋地域では24%の水産資源が持続不可能と評価されている。2016年には「違法漁業防止寄港国措置協定」が発効し、取り締まりが強化されているが、日本近海では隣国船の違法操業に悩まされ続けている。

日本のEEZ内では以前から北朝鮮船が違法操業を繰り返していたが、昨今は中国漁船によるイカの違法乱獲が急増している。今日付けで施行される中国の改正海警法により日本漁船は領海での安全操業がこれまで以上に脅かされる事態となる。日中の海域は距離的に200海里の範囲が異なり、EEZの境界線は未画定である。日本政府は地理的に同じ距離にある「日中中間線」を主張する(基本原則のひとつ)が、中国は大陸棚延長(国連大陸棚限界委員会の勧告が必要)によって沖縄近海まで食い込む「管轄海域」を一方的に主張し、強制退去権限を海警法に明記した。これらは明らかに国際法違反であり、「中国海警局をめぐる動向については引き続き高い関心をもって注視していきたい」等と述べる加藤官房長官はこの事態の重大さを認識しておらず、政治家として失格の誹りを免れない。

これまで度重なる中国の国際法を無視した行動に、重要な貿易国である中国を刺激しないよう配慮するのを旨として「はなはだ遺憾である」などと何の効力もない寝言を言い続けている場合ではない。そんな寝言は即刻止めて、中国に対し「厳重抗議」を行い、国際的な法律戦も視野に、中国の対外行動に懸念を持つ多くの国々と連携を深めて、中国包囲網を形成すべきである。さもなくば、海洋大国日本の看板は中国に剝ぎ取られかねず、日本は中国と陸続きでないにも拘らず海洋における「香港化」の餌食になりかねないのである。

言論の自由と事実の確証

2021年2月1日 at 9:44 AM

トランプ氏は史上初めてSNSをフル活用した大統領として名前を残すだろう。大統領に就任する前からTwitterを選挙戦のツールとして使いこなして大統領の座を射止め、その後も休むことなくSNSによる発信を行ってきた。2017年1月20日就任後の半年間の月平均つぶやき回数は136回。その後も数字を伸ばし続け、選挙戦只中の20年9月には722回に達し、なんと1時間に1回はつぶやいた計算になる。政敵のバイデン氏を「Sleepy Joe」などと貶めたりする投稿に眉をしかめる向きもあり、アメリカ民主主義の質低下と分断を煽ったことに違いはない。
大統領選挙の選挙人集計結果を承認するための上下両院合同会議が始まる21年1月6日、民主主義国家の旗手とも言える米国で議事堂突入という目を疑わんばかりの事態が発生した。トランプ氏は選挙敗北後もSNSで執拗に選挙の不正を訴え続け、当日は支持者に「我々は敗北を認めない。ここから議事堂まで行進せよ」とホワイトハウス前に集まった数千人の支持者を煽ったことが前代未聞の事態に至った理由であることは疑いない。
Twitterはトランプ氏が今後も暴力行為を扇動する可能性があることなどを理由に氏のアカウントを即日一時停止。翌日にはFacebookが無期限停止措置を取り、続いてTwitterが永久停止の措置に踏み切った。Twitterの代替として多くのトランプ氏の支持者が活用するソーシャルメディア・アプリ「Parler」についても、Googleが8日、Appleが9日、それぞれ自社のアプリ・ストアで凍結・削除したほか、Amazonもホスティング・サービスの提供を停止した。YouTubeもトランプ氏の新規投稿を一時凍結し、Snapchatも永久停止を発表した。

これを機にSNSは重大な曲がり角に立たされたと言える。SNSはこれまでプラットフォームとして場所を提供し広告業を営んでいるという位置付けでビジネスを行ってきた。それにより米通信品位法230条により編集責任を免除されている。いわゆるフェークニュースを垂れ流していながら責任を問われてこなかったのは、この法律がバックボーンにあるからだ。一方、230条はSNS事業者がユーザーの投稿を削除するなど、手を加えることは認めている。SNS事業者が今後も検閲や自主規制を行うとなると、もはやプラットフォーマーではなくパブリッシャー(出版社)になり編集責任免除の口実(法的根拠)がなくなってしまう。SNS各社は小さな私企業としてスタートアップし、当初は誰がどんな意見を述べようと外部がとやかく言う筋合いはないという姿勢で済んできたが、今や巨大な影響力を持ち公共性を帯びる存在となった。FacebookやTwitter、LINEなどのSNSが中国で使えないということが象徴しているように、GAFAに代表される巨大プラットフォーマーは今や国家すら脅かす存在になっているという実態がある。中国におけるGAFAと呼ばれるBATH(Baidu、Alibaba、Tencent、Huawei)はほぼ完全に中国共産党の管理の元に運営する存在であり、昨年10月に中国の金融監督行政を批判したアリババ創業者ジャック・マー氏は約3か月姿をくらました。明らかに国家と巨大IT企業は避けることのできない軋轢に直面している。期せずして米中二大国において民衆を巻き込んだ国家と巨大企業のつばぜり合いが起こっているのである。

新聞やテレビなどの既存メディアは当然のように編集責任を問われるし、署名記事も多い。しかし対立する意見を平等に掲載する姿勢を維持している既存メディアはもはや少なく、ほとんどが社の方針に沿った編集を行っているのが実態である。読者も自身に耳障りの良い情報に触れてまさに意を得たりと安堵している。ここまでフェイクニュースという言葉が社会に広がり、自身に耳障りな情報は信じない、あるいは陰謀説として一蹴する状況が蔓延してしまうと、多くの人々が事実の確証に全く無頓着になってしまうのではないかという恐れを感じる。最近、ジャーナリストという言葉を聞かなくなった。コメンテーターなる人々が跋扈し、事実の裏付けに乏しいイメージ先行の私見をさも当然とばかりに公共の電波に乗せるテレビ局はどうかと思うし、しゃべる方も無責任でどうかしている。自身の専門分野であるならまだしも、井戸端会議の延長線で公共の電波を使われては堪らない。悲しいかな情報価値を見極める眼力はSNSであろうが既存メディアであろうが、読者・視聴者にますます求められる状況は続くであろうが、事実を提供してくれる真のジャーナリストの復権を望みたい。一部のインターネット情報を通じて真実に迫るジャーナリストがいることは承知しているがその奮起に敢えてエールを送りたい。

トランプ氏のアカウントの無期限停止措置を取ったFacebookは、20人の政治家や学識経験者・ジャーナリストなどで構成する監督委員会にトランプ氏のアカウント凍結決定の是非を諮問すること決めた。SNS事業者がアカウント凍結や投稿削除を一方的に決め、言論の自由を制限することは正しいのか否か。
欧州からはメルケル独首相はじめ何人かの閣僚がTwitterのアカウント永久停止を表現の自由を侵害する「問題ある行為」であると指摘し、大手IT企業の決定ではなく法整備を通じて扇動的な発言を縛るべきだと提言している。ドイツではヒトラー時代の悪夢があり、ナチスを礼賛したりユダヤ人虐殺を否定したりする言説は法律違反となっているのだ。
一方、米国では表現の自由を規定する合衆国憲法修正第1条により政府による検閲を禁じており、個人の基本的人権である表現の自由は不可侵との意識が強い。これまで表現の自由は国家権力から個人を守ることを前提にしてきたが、巨大IT企業が国家権力(たとえば米国大統領)の表現を縛る(検閲する)事態を想定した法体系が必要になったことを冒頭の事態は意味する。
改めて既存か新興かを問わず全てのメディアは事実と意見を明確に分けて発信するということを肝に銘じてもらいたい。昔のニュース番組は淡々と事実だけを報じていた。それらの事実に基づいて視聴者は己の判断で己の行動に転化をしていった。日本のニュース番組が変わったのは1985年に始まったニュースステーションだと言われている。久米宏氏の軽妙な語り口によって翌年には視聴率20%を超えるテレビ朝日の看板番組となった。今では各局のワイドショーのみならず、ほとんどのニュース番組がニュースステーションの形を模したバラエティ番組と化しているのみならず、時に度を越して偏向している。ジャーナリズムとは「時事問題の報道・解説・批評などを行う活動」と定義されるが、多くのメディアは事実の確証がいい加減で、そのいい加減な「事実」に基づいて底の浅い解説と、思い込みによる批評を繰り返している。もっともっと事実の確証に真摯に向き合うことこそジャーナリズムの真の姿であると思うし、自身の生き残る道であると思う。

「命懸け」が今の日本にはない

2021年1月1日 at 11:01 AM

2020年は随分と窮屈な一年でしたね。言うまでもなくコロナ禍が理由ですが、家で物思いにふける時間も例年になく多かったと思います。小学生の卒業アルバムの寄せ書きに「世界平和」と書いたことが突然思い出されました。小学6年生でしたから無邪気に書いたものと思いますが、人生62年生きてきて、それぞれが一断面を表していると理解はしていても、殺伐とした世の中を垣間見るにつけ、また新たに「世界平和」を想う2021年の幕開けの日です。
昨年は子供たちの間でのみならず一部の大人たちにも「鬼滅の刃」に熱狂した人々が多かったようです。「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」は11週連続首位で映画興収324億円を突破し歴代1位となりました。その映画の主題歌であるLiSA「炎」が日本レコード大賞を受賞しました。私はほとんど話の中身は知らないのですが、聞きかじったところでは、「少年漫画のヒット作に共通している点として『友情』『努力』『家族』『恋愛』『勝負』などの要素が鬼滅の刃でもストーリーの随所に盛り込まれている。ただ、鬼滅の刃がほかの作品と異なる点は、『死』に向き合うシーンが非常に多い。ストーリーにおいて重要な役割を果たすキャラクターが次々と死んでいき、生きる価値を読者に考えさせる。キャラクターの死を含め、緊張と緩和が目まぐるしく繰り返されることも、読者をどっぷり鬼滅の刃の世界観にのめり込ませることにつながっている」(岡本一道/金融経済ジャーナリスト)と評されている。若者の間で一部流行っていると言われるサバイバルゲームも、コスプレ感覚で迷彩服を身にまとい、エアガンを撃ち合うという行為は、「敵に撃たれるのではないか」というスリルとドキドキ感が味わえ、この平和な日本で非日常空間を体験することによってストレス解消しているとも説明できそうです。
ちなみに歴代ゲームソフトのTop10を調べてみると、ポケモン、マリオ、どうぶつの森の3つで占められており、こちらは随分平和な世界のようですが、マリオカートなどはかなり競争心を掻き立てるゲームと言えるのかもしれません。

個人的には珍しくNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」を観続けて楽しんでいます。本能寺の変を起こした明智光秀を通して描かれる戦国絵巻ですが、もちろん皆その結末は知っています。ですからスリルやドキドキ感が得られるわけではありません。その時代の本能寺の変に至る経緯や光秀の心象描写の随所にヒリヒリした感覚を感じることができます。あちらを立てればこちらが立たぬ。そして戦国時代ですからその判断に己の命だけでなく、愛する家族・一族郎党の生死がかかってくる。自分だったらどうするかを考えながら役者と一体化してドラマを楽しむ人も少なくないでしょう。歴史は基本的には勝者の遺したものですから、必ずしも真実が現代に伝わっているとは限りません。歴史そのものが白黒で判定できるものはほとんどなく全てがグレーであると言っても過言ではないでしょう。そしてそれぞれの決断が他者の判断に影響を与え、次の判断にも影響を与える。歴史によって紡ぎ出されたドラマが現代に引き継がれていると思うのはロマンティスト過ぎるでしょうか。朝廷と幕府と有力大名の三つ巴の力学は観ていて非常に面白いものがあります。日本はその歴史の大河において、長い間、天皇という「権威」と政権という「権力」を微妙な距離感とバランス感覚で両立安定させてきたと思います。

言うまでもなく平和であることに越したことはありません。しかし、人間の中には闘争心なるものが存在し、勝負に勝利することによって大きな高揚感と自己確認をすることができます。リチャード・ランガム著「善と悪のパラドックス」では「協力的で思いやりがありながら、同時に残忍で攻撃的な人間(ホモ・サピエンス)の特性」がどのように育まれていったのかを独自の視点でひも解いています。チンパンジーは元々カッとなって暴力をふるう激情タイプの代表格だそうですが、メスたちが連帯してオスの攻撃性を封じ込めることによって、扱いにくい個体が淘汰されていったとする説です。結果ボノボ(哺乳綱霊長目ヒト科チンパンジー属)などは従順で、小型化し、平たい顔、性差の縮小、成長の遅れといった特徴が見られ、平和な社会生活を営むに至ったと解説しています。これらは現代社会の特徴とも多くの点で重なり合っているようにも思え面白い指摘です。

人間はチンパンジーに代表される反応的攻撃性から能動的攻撃性のタイプに発達を遂げ、計画的で冷静沈着に暴力を実行するタイプになり、特に言語能力の獲得に伴い周到な奇襲が普遍化するに至ったとしています。いじめはいつの時代にもありましたが、昨今の陰湿さはこの点を表しているのかもしれません。そして、人間は内集団では協調的に振る舞うが、外集団に対しては差別的で攻撃的になっているという主張は多くの人が共感する部分でしょう。日本で言う「うちでは」と「あっちは」というような内と外の区別は元来の日本文化と思われるほど執拗に日本という国に浸透沈着していると思います。世界を眺めてみても、あちこちで内戦が頻発し、宗派同士の争いが後を絶たず、人種差別が先鋭化してきた状況を見るとその説得力には相当なものがあります。国連開発計画が掲げているSDGsも「Exclusion」から「Inclusion」というキャッチフレーズで誰一人取り残さない「全内化」を呼び掛けていますが、何やらそこにお金(ビジネス)の匂いがしたり、人間の内なる本音を覗いてみればそうそう美辞麗句ばかりで済まないことは明らかです。

日本人はよく平和ボケと言われます。個人的にはこのままでは尖閣は中国に取られちゃうよ、数十年後には日本は中国の一省になってしまうよ、と危機感が非常に高いのですが、未だに日本国には自国を守る意欲も姿勢も体制も大幅に欠如しているようにしか思えません。日本人は決して好戦的な民族ではないと思うし、絶大な戦力を持つべきとも思いません。リアルとバーチャルの命懸けでバランスを取るのと同様に、現実の守りと攻めのバランスを取っておくべきです。毎日ヒリヒリした人生を歩むのは不幸でしょう。しかし、毎日ぼんやり安寧に過ごしているのでは大切な人を守ることはできません。バーチャルの世界で留飲を下げることができたとしても現実の世界が消えてなくなるわけではありません。新年にあたって健全なバランスとは何なのか改めて考えていますが、人間が本当に真剣になるのは「命懸け」の状況に陥った時だけなのかもしれません。しかし、そういった場面が訪れた時には時既に遅しとなることも多くの歴史が教えてくれていることです。

条約改正への道のり

2020年12月5日 at 11:30 AM

日本は諸外国からの開国を求められて1858年に米露蘭英仏とつぎつぎ通商条約を締結した。遡ること1854年にはペリー提督率いる黒船の圧力に屈し、補給の利便性を重視した日米和親条約(片務的最恵国待遇)を結ばざるを得なくなった。その後、下田に駐在したハリスから通商条約の締結を強く求められ、老中堀田正睦(まさよし)は列強との戦争を避けるために孝明天皇からの勅許を得ようとするが失敗。1858年にはアロー戦争(第二次アヘン戦争)で清が英仏に敗れ、その二の舞になってはたまらんと大老井伊直弼は勅許を得ぬまま日米修好通商条約を結ぶこととなる。井伊は2年後桜田門外の変で攘夷派に暗殺されたが、治外法権(磔や打首を目撃した外国人がこれを主張するのは無理からぬこと)、関税自主権、先の片務的最恵国待遇といった不平等条約が長く残ることとなった。

一度締結した不平等条約を改正する道のりは並大抵のことではなかった。明治維新を経て岩倉具視外務卿等が条約の期限切れを前に1872年に、条約改正に必要な近代国家への足掛かりを目的に欧米へ視察を行った。各国の元首に国書を手渡したものの、条約改正の糸口は掴めなかった。逆に欧米各国の発展ぶりにカルチャーショックを受けた岩倉は今のような日本ではとても条約改正は程遠いと感じ、まずは鉄道敷設や欧米の政治・経済制度を導入することが不可欠であると考えるに至る。

翌1873年外務卿となった寺島宗則は関税自主権回復を目指すも、へスペリア号事件(コレラ流行時に清から直行してきたドイツ船が日本の検疫規則に従わなかった)などがあり国民感情の高まりに頓挫。その後を継いだ井上薫外務卿が不平等解消すべしと高まる国論を受けて条約改正の交渉に臨んだものの、ノルマントン号事件(1886年横浜港から神戸港に向かった英貨物船が暴風雨を受けて和歌山沖合で座礁。船長以下26名の外国人は救命ボートで脱出し沿岸漁民に保護されたが、日本人乗客25名は取り残され全員溺死。船長無罪)などにより国民感情が爆発。東京に外国団を集めて夜会を開くなど鹿鳴館に代表される欧化政策も税金の無駄遣いと自由民権運動を背景にする民衆に糾弾され井上は辞任。

その後、外相に就任した大隈重信は方針を各国との個別交渉に切りかえて挑む。領事裁判権を撤廃するのと引き換えに、外国人に対する裁判を担当する外国人司法官を任用する案を政府に提案したが、政府内で外人司法官は憲法違反とする反論に加え、その動きを知った民衆から反発を買い、国家主義者の爆弾テロを受け右脚大腿下1/3を失い辞職を余儀なくされた。

大日本帝国憲法発布の1889年に外務大臣に就任した青木周蔵は領事裁判権撤廃に向けて奮闘したが、1891年大津事件(露皇太子ニコライを警備に当たっていた警察官が斬りつけ無期懲役の判決)によって引責辞任となり、またしても交渉は中断を余儀なくされる。しかし、この間に第一回衆議院議員総選挙が行われ、帝国議会が開設され、民法・商法が公布されたことは日本の国家近代化が進んでいることを内外に示すことができた期間と言える。青木改正案を引き継いだ榎本武揚外相はポルトガルが経費削減のため総領事を廃止したのを機に同国の領事裁判権を撤廃することにようやく成功した。

1894年に外相に就任した陸奥宗光は英国との交渉において日英通商航海条約を結び、日本の悲願だった領事裁判権撤廃(一方、外国人に対する居住・旅行・外出の制限を撤廃する内地開放を1899年から認めた)を勝ち取ることができた。英の目的は南下するロシアへの対抗を日本の軍事力に期待したものであった。片務的な最恵国待遇も相互的に改正され、一部ではあるが関税自主権も認められることとなった。これを弾みにアメリカをはじめ14か国と同様の調印を行い、法権においてやっと欧米列強と対等な関係に入ることができた画期的な年と言える。日本はこの年に日清戦争に突入するが、条約改正を通じた英との関係強化が後押しとなったことは十分考えられよう。

陸奥宗光が果たした条約改正は陸奥条約とも言われるが、実は実務において貢献したのは元青木外相であった。陸奥は青木を駐英大使として派遣し、交渉に当たらせていたのである。この条約の有効期限は12年、そして12年後の1911年小村壽太郎外相によって新日米通商航海条約調印が行われ、完全なる関税自主権を回復することとなる。

不平等条約締結から53年、条約改正に挑み始めてから39年目の悲願達成である。こうして条約改正の道のりを振り返ってみると、目的に向けて諦めることなく、そして間断なく準備し努力しタイミングを見計らって交渉してきたことの重要さを教えられる。今、日本における主な外交課題は北朝鮮による拉致問題・ロケット問題、領土問題で言えば韓国との竹島問題・ロシアとの北方領土問題、実効支配している尖閣諸島への中国の脅威などがある。どれを取ってみても一筋縄ではいかない案件ばかりである。拉致問題も日本の警戒心や危機意識の低さ(1970年代から拉致が行われてきたが、金正日が認めたのは2002年)によるものであるし、竹島も勝手な李承晩ライン(1952年サンフランシスコ平和条約発効の3か月前)に手も足も出ない国力(占領下)の弱さによる。北方領土は終戦間際のどさくさで奪われてしまった(1945年8月28日から9月5日にかけて、ソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄して北方領土に上陸し占領)と多くの日本人は思っていることであろう。日本人においては8月15日(ポツダム宣言受諾の翌日の玉音放送による)が終戦となっているが、世界においては9月2日が終戦日の一般的理解である。つまり米戦艦ミズーリ号の上で日本が降伏文書に調印した日である(米英仏加露など)。中国や旧ソ連は9月3日、それまでは戦争が続いていたと解釈する。たとえそれが後付け理論であっても反論反撃する力がなければ、現実を変えることはできない。正論だけでは通用しない、これが国際政治の現実である。

ワークマンの「データ経営」と「しない経営」

2020年12月1日 at 11:21 AM

WORKMAN Plus+が今月10日に我が家の近くに開店する。以前はLAWSON STORE 100があって、それなりに重宝はしていたが、工事中の建機の隙間からまだ取付前の横向きのワークマンの看板を見て、私は年甲斐もなく小躍りした。これまでは遠方のワークマンの店へ商品をいくつか買いに行っていたし、話題の商品はネット購入も試みた(残念ながらすぐに売り切れてしまい、未だに欲しい商品を手に入れられないでいる)。そういった状況であったので、たった徒歩300歩(多分100mほど)に憧れの店ができるとなり、開店を心待ちにしているところである。
ワークマンの快進撃はTVでも紹介されているが、店に行くとその安さと品質の良さに思わず買う予定に無かったものまで買ってしまう程の魅力があり、他社のものに比べて圧倒的なコスト・パフォーマンスの良さ、つまり商品力が強みである。
IR情報を一瞥すると、「売上高15か月連続2桁増」「純利益9期連続過去最高益」「客数・客単価前年同期比増」「楽天から2020年2月末で撤退」「PB商品の中国生産割合67%」「製造原価率64%」「店舗数は843、新規出店は全て新業態のワークマンプラス」「1年で株価は2倍」など、業績の絶好調ぶりがうかがえる。5年前に比べて売り上げはほぼ2倍の急成長でそのほとんどがフランチャイズ店(ホワイトFCを目指す)による売上増であり、自己資本比率も80%と抜群の安定度を誇る。
ワークマンはCAINZやSave onと同じベイシアグループに属しており、群馬県伊勢崎市のいせやを母体とした企業グループの一員である。経営目標は「競合先が数年追いつけない断トツの製品づくり」であり、これにより流行に左右されない機能性とデザイン性を備えた定価販売による完売戦略を可能にしている。
表題はワークマンの専務取締役である土屋哲雄氏の講題であり、大変興味深く視聴した。土屋氏は1952年生まれ、東京大学経済学部卒業後、三井物産に入社。海外留学、経営企画室次長、エレクトロニクス製品開発部長、関連会社役員を経て、2012年からワークマン常務取締役、19年6月から現職という経歴で、作業服専業のワークマンの企業改革を推進してきた方である。
作業服小売では断トツの強みを持った存在であったが、市場規模の限界(1000億円)を将来への脅威と認識し、客層拡大のために新業態開拓に向かう決断をした。中期業態変革ビジョンで目を引くのは、「5年で社員年収の100万円ベースアップ」である。これは「データ経営」に向かうために企業文化を変え、業績評価を変える必要があるので、対応しきれない社員に対する前倒し報奨金と位置付けていることである。「データ経営」に向かう覚悟のほどと同時に、社員のモチベーションを上げることによる企業力強化を目指しているものと思う。
土屋氏曰く「データ経営」とは、データに基づき現場で社員全員で考えて改革するという意味だそうである。部長の任用条件は「改革マインド」と「データ活用力」のふたつだけ、企業目標は「客層拡大」のひとつだけという一点突破の徹底ぶりである。
私自身、多くの企業をクライアントとしてきたが、多すぎる目標、多すぎるKPIに現場が振り回されている企業を数多く見てきた。結果、外資に飲み込まれてしまった企業もある。経営トップがその愚かさに気づいて選択と集中を行ってくれれば問題はないが、そうでない場合はミドルマネジメントが経営トップと現場を有効なフィルタリングで仲介し、本当に今必要な目標と改革項目に絞り込む必要がある。限られたリソースを有効に使えなければ、企業競争には勝てない。ミドルマネジメントが現場を守れない企業は見かけだけはやっている風であっても業界における競争力を急速に失ってしまう。
目標に対しては、時間をかけてもよいので必ず実現することとしている。この点も一般企業とは違う点である。目標とは達成すべき目標値や目標レベルと期限を明確にするというのが定石である。そうでなければ、どれほどの人モノ金を投入して目標達成に向かうべきか具体化ができないからである。
ワークマンでは決算発表日を1週間延ばす宣言をした。これはワークマン流働き方改革であろう。1週間決算発表を延ばして誰が損をするのかと考えた時に、誰も浮かんでこない。結果、誰からも文句は来なかった。社員の業務を平準化し、無意味な残業を減らすことによる労働環境改善は今や必須である。土屋氏は、定時になって帰宅する社員が「お先に失礼します」と挨拶することにも違和感を覚える。定時に帰ることは当たり前であり、「失礼」なことではない。堂々と帰宅すればいい。その環境を企業は整えるべきだと主張する。
もうひとつの「しない経営」とは、目標である客層拡大に集中し、そのためのデータ経営に徹し、無駄なことや本業と関係ないことは絶対にしないという宣言である。社内行事はしない、厳格な期限管理はしない、初めから立派な情報システム作ろうとしない(使捨て感覚)(社員がExcelで草の根改善を行う)(需要予測アルゴリズムは社員が考えExcelでシミュレーションを行う)、ノルマを課すなどプレッシャーを与えない、頑張らない(フランチャイズ等、凡人でも経営できるようにする)、仕事を分割しない(個人完結の仕事のやり方にする)、交際費は使わない等の方針が示されている。
現下の目標は「客層拡大」ひとつだが、将来目標は「Amazonに負けない」とのこと。中途半端では100%淘汰されるという危機意識の下、⓵定価でAmazonに負けない(PB商品は定価で負けない、データ経営で在庫を残さない)、⓶配送費でAmazonに負けない(店舗を増やし、店舗受け取りに特化していく。つまり配送費ゼロ。2025年1000店舗を目指す)、⓷販促費をかけない(SNSの評判だけで売り切る)という戦略を掲げている。
近所にできるワークマンの新店舗を定点観測しながら、企業文化の改革が顧客満足や今後の業績に反映されていくのか楽しみである。これからも目の離せない企業のひとつであることに間違いはない。

アメリカ大統領選挙と民主主義の行方

2020年11月8日 at 3:49 PM

2020年のアメリカ大統領選挙はバイデン候補が270超を獲得し、78歳という歴代最高齢の第46代大統領に就任することが決定的となった。トランプ大統領は選挙の不正を訴え法廷闘争に持ち込もうとしているが、相変わらずツイート調で、提訴できるほどの証拠を提示できないでいる。事前の選挙予測では常にバイデン氏がリードしていたが、4年前のような「隠れトランプ支持者」が顕れてデジャブとなる可能性も少なからず報じられた。事実、選挙中盤ではトランプ氏が激戦州といわれるフロリダやオハイオを押さえ、トランプ氏再選ほぼ決まりと発言するコメンテーターもあった。そのコメンテーターは今どのような気持ちでいるのだろうか。

いずれにせよこの4年間のトランプ大統領の政権運営に対する評価が下された。Four more yearsか、No more Trumpかという選択の選挙であったと言えよう。経済面では実績を上げ、低賃金労働者の賃金は5%ほど上がり、株価も上昇した。しかし、治安維持と人種差別問題のはざまで、Black Lives Matterに代表されるような国内における分断を煽ってしまったことは否めない。アメリカ第一主義を声高に叫び、国際協調主義を否定した二国間交渉を前面に押し出した結果、TPP協定から脱退し、パリ協定からも離脱宣言した。

民主党バイデン新大統領は、これまでTPP協定への支持を表明しており、パリ協定にも再加盟の意向を示している。世界最強国であるアメリカ抜きの国際秩序構築は現時点では現実味がないので、同盟国の多くの国々がアメリカの国際協調へのカムバックを歓迎することであろう。新政権は既に体制づくりに着手しており、どのような人物を登用するかで同盟国日本との関係や敵対する中国との関係の将来像が浮き彫りになっていくことであろう。その点では、上院の勢力図がどうなるかは注目しなければならない。下院は民主党が議席数を失うも過半数は維持しよう。上院で共和党が過半数を握れば、バイデン政権推挙の閣僚が拒否権行使によって任命されないということも起きる。ねじれによって縛りを受けることになれば、バイデン政権がどのような外交を展開するかは日本にも大きく影響する。オバマ政権時代に中国は変わり得るという理想主義のもとで行われた対中政策によって、中国は韜光養晦(とうこうようかい)から奮発有為(勇んで事をなす)に大転換し隣国並びに世界平和にとって大きな脅威となっている。日本はいつまでも日米同盟を基軸になどと呑気なことは言ってられない。

今回のブログで注目したいのは、アメリカのみならず多くの国でアメリカ的状況が拡大していることである。当のアメリカにおいてさえ、バイデン氏が正式に大統領に就任する来年1月20日までにはまだまだ予想できない状況が発生することも考えられる。

最近、注目を浴びたV-DEM(バラエティー・オブ・デモクラシー)の2020年次報告書によるとデモクラシー(民主主義)国は2010年のピーク時98か国(全体の55%)から減少し87か国(48%)にまで低下したと報告している。人口比でも民主主義国家は46%と過半数を割り、26か国において去年より民主主義が後退し民主主義の危機に警鐘を鳴らしている。

具体的には独裁専制国家に属す人々は26億人(35%)。EU内から初めて非民主主義国家に格付けされたハンガリーではオルバン政権が選挙制度を自分に有利に変え、批判的メディアに圧力を強めるなど独裁体制を固めつつある。他にもブラジル、インド、アメリカ、トルコなどで専制化が進んでいると分析報告している。

昨今、独占禁止法問題で揺れるGAFAなど巨大IT企業は情報の独占、支配、ことによっては世論操作をも可能になった。国家よりも個人情報を蓄積し、分析し、ビジネスに活用している。ある意味、国家より強大な力を有していることは明らかで、国家がその存在に脅威を感ずるのは当然のことであろう。GAFA等に対応上、国家監視体制を強化している国が増えてきていることも望ましいこととは思えないが、理解できないわけではない。GAFAが構築したプラットフォームから派生する、いわゆるSNSが民主主義の危機を生み出していると言ったら奇妙に感じるだろうか。

ネットワーク時代が幕を開ける前は、新聞やテレビなどのオールド・メディアが世論形成に大きな影響力を及ぼしてきた。見識のある論説委員やコラムニストが事実を精査して記事を載せる新聞や速報性の高いテレビニュースを大方の民衆は信じてきた。しかし、そういったオールド・メディアが発行部数や視聴率といった商業主義に走った結果、自ら信頼を失い、質の低下によりミスを訂正するが多く見られるようなり、時にはフェーク・ニュース呼ばわりされるようにまでその地位を失墜させてしまった。ヒラリー・クリントンも4年前は大層有利と言われていたが、エリートは口ばっかりで取り繕っているだけ、とても信用できないという予想以上の数のヒラリー嫌いに反旗を翻され、史上初の女性大統領の座を射止めることはできなかった。本音か勝つための戦略かはわからないが、時に暴言を吐くトランプの方が信用できると世論を引き寄せたのもマスコミが信用できなくなってしまったことと無縁ではないだろう。

SNSの進展により、誰でも情報の発信者になれるようになった。実際に情報発信している人は少ないかもしれないが、SNSを通じて情報を取得する若者は圧倒的に増えた。SNS情報は高度なアルゴリズムによって個々人向けの情報を選別して大量に流し込まれる。それらは彼らにとって「お気に入り」とも言えるものであり、その人向けに最適化されたニュースや情報、意見である。スマホを通じて送り届けられる情報は、その人の考えや思いを補強することはあっても、反対の意見や情報は目の前にあらわれることはない。こうして民衆の体制は加速度的に二極化に向かい、今日目にするアメリカ大統領選挙のような熱狂につながる。投票率は毎回50%台そこそこの数字であったが、今年は67%と100年ぶりの高水準という。これが本当の姿なのか、不正投票を含む数字なのか、選挙結果が決まればうやむやになってしまうことであろう。

企業にあっては、旧来は顧客や顧客候補に対して情報発信する場合、信頼のおけるメディアを介して、時に大手の広告代理店の力を利用して行っていた。ここまでメディアの質が落ち、信頼が無くなってくるとメディアにおもねって情報番組に登場させてもらう必要もなくなってくる。トヨタほどの大手になれば、「トヨタイムス」で自社から直接、何のバイアスも余計なアドバイスもされることなく、社会や顧客に社長の肉声や社のビジョン、将来の製品コンセプトなどを発信することができ、質とコストの両方を改善すことができるようになっている。このような戦略は自社の社員との距離感よりトヨタファンとの連携をより強くしているに違いない。

電車に乗っていてもほとんどの人がスマホを離さず見ている。完全にオールド・メディアは駆逐され、ネットメディアの時代になった。人によってはスマホだけが孤独感を癒してくれる友達かもしれない。スマホの楽しみ方は人それぞれだが、その中毒性に知らず知らずのうちに侵されていく人達も少なくないであろう。個人個人が情報の発信力をつけることは民主主義にとって望ましいことであるはずだが、それが社会の分断を先鋭化することになってしまっては、独裁専制政治の入り込む隙間を作ってしまうことも我々はよくよく知るべきである。様々な立場の人がいて、様々な意見があることに無頓着にならず、個々人の情報リテラシーを高めなければ民主主義は容易に独裁専制に道を譲ってしまうほど脆いものだということを今一度肝に銘じたい。

(習氏がバイデン氏よりも早くTPP参加に言及したのには驚いた。アメリカ大統領選挙の混乱期を狙って抜け目ない中国を再確認:11月21日追記)

任侠いずこへ

2020年10月3日 at 9:00 AM

「ladies and gentlemen きょうから変わりました 日本航空」という記事が一昨日載っていた。日本航空が機内などで英語でアナウンスをする際に使ってきたお馴染みの「ladies and gentlemen」という呼びかけを、10月1日から性別を前提にしない表現に変えることになったという。新たな英語のアナウンスの表現は「Attention, all passengers」や「Good morning, everyone」などになるそうである。日本航空内では「なぜ英語のアナウンスは男女前提なのか」という疑問に始まり、LGBTQの人たちに配慮する動きの一環と見て取れる。マイレージ会員向けに発行されるカードの性別表記もなくしたそうである。「お客様は一人一人違うということを根底に」という考え方に異論はないが、かといって男女を区別する便利な総称があるにも関わらず、一部の少数派に配慮しすぎて多数派がかえって息苦しい思いをするのもどこか違う気がする。

そもそも「ladies and gentlemen」とは女性に対しても男性に対しても用いられる尊称であり、かつladiesを前に置くことによって相対的に肉体的かつ社会的に弱者であった女性への格別の配慮の表れであると私は認識していた。しかし、その前提になるであろう「ladies first」を調べてみると、私の認識とは全く異なる歴史的背景があったことを知った。それは古くはヨーロッパ上流階級における淑女のマナーであり、「教会の扉や門は男性より先に女性が潜り抜けて、魔よけや安全を確認する」「食堂では男性より先に女性が用意・着席し、男性を出迎える・待たせない」「食事は男性より先に女性が終わらせて退出し、男性の食後の談話に加わらない」「女性は男性より先に起床し、朝の身支度を終えて出迎える」など、今で言えば男尊女卑とも言える慣習のしきたりであったことがわかる。筆者が「ladies first」を聞くような時代になっては「道路を男女で連れ立って歩く際は車道側を男性が歩き、女性を事故や引ったくりから守る」「扉は男性が開け、後に続く女性が通りきるまで手で押さえて待つ」「自動車などの乗降の際において、特に女性がロングドレスにハイヒールという装いならば、運転する男性が助手席に回ってドアを開閉する」など、男性が女性にとるべき紳士の行動として定義され、女性を幇助すべきという紳士のマナーであるとの認識は、Wikipediaによるとこれらはフェミズム運動以降のマナーとの混同だそうである。

女性史家の中には、「女性が何も出来ないから男性がしてあげる」という考えこそ女性に対する差別であって女性蔑視と捉える者もいる。私の経験からすれば、Majorityの女性が既述の「ladies first」文化を気持ちよく快く受け止めているのではないかと思っている。パワハラ、セクハラ、今流行りのxxセラも全て受け手の気持ち次第と言われる。それはそれで結構だが、相手の心持ちも同等に大切なのではないか。同じ言動でも心の中にある動機や意図がより重要であろうし、同じ言動であっても好感を持っている人からのものと、そうでない人からのものでは全く異なる印象を受けるのも生身の人間の正直な姿であろう。自分の心持ちしか判断基準にできない人は良い意味での「忖度」を欠いている。つまり何でもかんでも自分中心に考えてしまう人は、人間にとって大切な「思いやり」を欠いている。

時代は遡るが、「任侠の世界」には正義があった。コロナ禍にあって今人気絶頂の講談師「6代目 神田伯山」の講談を聴くようになり、昔の任侠の世界には泣かせる話がいくつもあることを知った。有名な侠客には「国定忠治」や「清水次郎長」などが挙げられよう。誰しも一度は名前を聞いたことがあるでしょう。任侠を一言で言い表せば、「弱きを助け強きをくじく」ということです。チンピラの悪行やヤクザ映画における抗争とは全く違います。お二人とも鬼籍に入られましたが、銀幕のスターで言えば「鶴田浩二」や「高倉健」が演じたような人たちです。「菅原文太」を挙げる人もいますが、ちょっと私の好みとは異なりますm(__)m。勿論、覚せい剤・闇金融・恐喝・賭博・売春・人身売買などに手を染める現代の暴力団は任侠とは真逆の存在です。しかし、一部にはすべてやくざ者と定義してしまい同一視してしまう方々がいるのはとても残念なことです。

「任侠道」は「武士道」ともつながり、「武士道」は武士の中に現れ、「任侠道」は庶民の中に現れる。圧政や無法地帯から庶民を守る正義の味方で、法に頼ることのできない時代にあって、庶民間における義理や人情を重んじることがその柱である。義侠心や男気という言葉はヤクザ映画やそれを茶化したバラエティ番組でしか聞かれない言葉となってしまったが、強きが弱きを助ける美学が確かにそこにはあった。強きが強きに取り入り、弱きをさらに挫く構図があるとすれば、弱きは殊更に声を上げ、自分の存在と主張を受け入れよと大衆に迫る。強きが弱きに歩み寄らなければ、格差は拡大するばかりで、今現代に起きていることそのままで対立が激化していくことになってしまう。生きるために強きに摺り寄る弱きもいるでしょう。弱きを三下扱いして顎で使う強きもいるでしょう。しかし、多くの日本人はそれを良しとはしないでしょう。なぜなら、それが弱き者を支える心中の最後まで守るべきささやかな自尊心だからである。強きには強きの持てる者としての振る舞いを、弱きには弱きの持たざる者としての矜持を、今の世の中にこそ復権して欲しいと思う。

海洋プラスティックごみ問題

2020年9月4日 at 11:33 AM

前回投稿の「レジ袋有料化」は具体的な施策というミクロの観点から私見を述べたので、今回はマクロな視点で「海洋プラスティックごみ問題」を論じてみたい。
人類がこれまで生産したプラステッィクの総量は80億トンに上るとされる(CLOMA:CLean Ocean Material Alliance会長 澤田道隆花王社長)。毎年3億トンが生産され、そのほとんどが「廃棄ゴミ」として放置されているという状況で、年間生産総量の2.7%にあたる800万トンが世界中の海に毎年投棄されており、累計1.5億トンものプラスティックごみが海中に漂っている、あるいは海底に沈んでいるそうである。そしてこの海洋プラスティックごみの8割は廃棄物インフラの整っていない新興国から流出しているとCLOMAにおいて報告されている。

この海洋プラスティックごみ問題をマクロな視点で捉えると、製品設計⇒生産⇒流通⇒消費者使用⇒リユース⇒リサイクルという一連の流れを環境保護の観点並びに経済的合理性を踏まえて循環軌道に乗せていく必要がある。しかし、一体どこから手を付ければ効果的なのか途方に暮れるほどの大問題である。関りを持つステークホルダーは原料メーカー、容器包装メーカー、消費財メーカー、小売業者、消費者、自治体、リサイクル業者、政府、NGO、投資家など多岐に渡る。こうしたステークホルダーが一枚岩になって事に当たらなければ、この活動は前進しない。さらに、これを世界規模(海は世界に繋がっている)で行うことを考えたら気が遠くなるほどの難題と言わざるを得ない。

これまで非常に便利な素材及び製品として定着したプラスティックを使わないようにしようという試みはなかなかうまくいかないだろうと考えざるをえません。やはり人間は一度手にしてしまった便利なものは強力な代替品が現れない限りなかなか手放せるものではありません。そもそもが「ゴミ問題」なのですから、廃棄の部分に力点を置くべきなのではないかと私は思います。

CLOMAのキーアクションは:1)使用量削減、2)リサイクル率の向上、3)ケミカルリサイクル技術の開発と社会実装、4)生分解性プラスティックの開発と利用、5)紙やセルロース素材の開発と利用の5つあります。それぞれの項目について技術的課題が提起され、主に企業が中心となって解決策を進捗させている段階です。もちろん日本の技術力をもってして、新しい素材開発や処理設備の高度化を行うことは、上述「循環経済」の確立に寄与してくれるものと思いますが、時間軸がかなり中長期に渡るものではないかと思われます。

これら5つのキーアクションに加え、横断テーマとして「分別回収」があります。日本ではそれぞれの自治体ごとにルールが決められて、日本人の多くはその分別ルールや収集日に合わせて真面目に回収プロセスに関わっているものと思います。海洋にプラスティックが廃棄されてしまうところの管理を強化するのが、速効性ある対応だと思います。正直、日本の海岸線からどれほどのプラスティック廃棄がなされているのか気になって調べてみました。前述の年間800万トンの廃棄プラスティックのうち、日本からの廃棄は年間数万トンで0.5%程度の割合になっています。世界的に見ると極少量ですが、やるべきことがないわけではありません。
陸地に漂うゴミは何とか回収する方法はありますが、一度海洋に流れ出たプラスティックごみを回収することは困難です。観光地や海水浴場など人が集まる場での使用制限やポイ捨て防止策を講じる等、効果的な方法はあるだろうと思います。都心部でも自動販売機の横にペットボトルとアルミ缶の回収箱を見かけますが、たまに溢れていることがあります。定型以外のPET容器(流行りのタピオカが残されたまま捨てられていたり)や紙ごみが混ざって廃棄されている回収箱も目にします。CLOMAの報告によると割れガラスなども混入しているそうです。

テロへの警戒が叫ばれて以来、ごみ箱(護美箱)が撤去されているところは少なくありません。特にポイ捨てされて海洋に流出してしまいやすい海岸線領域は強化地域に設定して、回収頻度やパトロールなどを強化することで回収力(海洋への投棄を予防する)を上げることも有効なのではないかと思います。TVでよく政府広報を見かけますが、そういった電波を通じて消費者の啓発をもっと行う方が、一律にレジ袋有料化を義務とする方策よりも効果が大きいのではないかと個人的には思います。ヨーロッパの主だった国の道路には大変大きな回収コンテナが素材ごとに色分けされて設置されています。ドイツの回収システムなどはかなり細かい決まりがありますが、一部には「せっかく分けて集めているのに、最終的には家庭ごみと一緒に燃やされているのでは」といった現行システムに疑問を持っている方も少なからずいるようです。この辺りは日本も自治体の保有設備によって違いがあり、わかりにくいところですし、同じような疑念を持っている方も少なくないでしょう。また、消費者としてはゴミ分別収集しさえすれば、再利用されていると安心して、ゴミを減らすことを忘れてしまうといったモラル・ハザード現象も報告されています。使用量削減とごみ回収・リサイクルを同時に啓発していく必要があります。

冒頭触れたCLOMAの運営体制は:1)普及促進部会、2)技術部会、3)国際連携部会の3つで構成されています。私が注目したのは、3)国際連携部会において、インドネシアと連携して新しい社会システムを構築していこうという試みです。以下はあくまで一研究者により人口や経済規模から2015年に推計した海洋へのプラスティックごみ流出量のデータですが、中国がトップで28%を占め、次いでインドネシアが10%、以下フィリピン、ベトナム、スリランカ等が5%程度と続きます。日本は先に述べたように0.5%程度の構成比で優等生ですから、日本の一般の消費者は自分達はしっかりやっているのに、レジ袋有料化までやらなきゃいけないのかといった心理的抵抗感が強いのだろうと思います。

インドネシアは13000以上の島により構成されていますから、海洋に面している海岸線の長さはカナダ、ノルウェーに次いで世界第3位54000㎞に及びます。日本は第6位で、日本もインドネシアも海洋国家と言えましょう(http://www.ps-lab.com/blog/?s=%E6%B5%B7%E6%B4%8B%E5%9B%BD%E5%AE%B6)。日本で培った工業技術と管理運営システムをインドネシアというプラスティックごみ課題国で実装していけば、循環経済モデルとして他の国々にも輸出できるものになり得ます。インドネシアの現状(2017年)はリサイクル率が10%、回収システムに乗っている管理処分が28%、なんと野焼きが大半を占めており、その他10%弱が放置や流出ということになっています。2025年までに使用量の抑制や代替品の導入に加え、リサイクル対象を22%まで向上させ、管理処分率を62%まで改善する目標を掲げて活動を推進しています。

こうして海洋プラスティックごみ問題をマクロな視点で検証してみると、プラスティックごみ問題の3%弱が海洋プラスティックごみ問題であり、廃プラスティックのうちの2%がレジ袋の占める割合であることを考えると、政府が進める「ワンウェイプラスティックの使用削減」の一施策である「レジ袋有料化の義務化」はどうも心に響きにくい施策と言わざるを得ません。日本で言えば、マイクロプラスティックによる健康への脅威の方が一般の消費者にとって最も懸念されるのではないかと思います。野焼きが大半を占めるインドネシアをの状況を鑑みれば、廃棄物焼却によるダイオキシンなどの有毒ガス発生が最大の懸念材料と言えるかもしれません。一般の消費者を巻き込むムーブメントを推進しようとすれば、そのようなわかりやすい、そして切実な課題を直視してもらえるような啓発の仕方があるのではないでしょうか。重要なことは、対象課題の全てのステークホルダーとBig Pictureを共有した上で、個別の対策に当たらなければ、大きなプロジェクトを前進させることはできません。企業でも課題解決に向かうにあたって「課題の共有」と「肚落ち感」の醸成というステップを軽んじてしまうと、ベクトル(向きと大きさ)が定まりません。いきなり個々の施策をまな板の上にのせて良し悪しを論議し合うことは、生産性からみても効率性からみても無駄であることを肝に銘じておく必要があります。

レジ袋有料化

2020年8月15日 at 11:01 AM

経済産業省のHPを見ると、「2020年7月1日よりレジ袋有料化がスタートします。プラスチックは、非常に便利な素材です。成形しやすく、軽くて丈夫で密閉性も高いため、製品の軽量化や食品ロスの削減など、あらゆる分野で私たちの生活に貢献しています。一方で、廃棄物・資源制約、海洋プラスチックごみ問題、地球温暖化などの課題もあります。私たちは、プラスチックの過剰な使用を抑制し、賢く利用していく必要があります。」「このような状況を踏まえ、令和2年7月1日より、全国でプラスチック製買物袋の有料化を行うこととなりました。これは、普段何気なくもらっているレジ袋を有料化することで、それが本当に必要かを考えていただき、私たちのライフスタイルを見直すきっかけとすることを目的としています。」とある。プラスチックの有用性について言及したあとに、プラスチック生成及び廃棄に際して課題があることを指摘し、ライフスタイルを見直すきっかけを目的にしていると結んでいる。

NHKの国際報道によると、いち早く有料化に踏みきったのが中国で、12年前の2008年から取り組みを始めているという(別の記事で2006年ルワンダでレジ袋原則禁止を発見、タンザニアやケニアにも拡大)。
中国におけるレジ袋有料化のきっかけは、レジ袋のポイ捨てが深刻化したことであると伝えている。中国では2000年代から、路上に捨てられたレジ袋が「白色汚染」と呼ばれて問題となり、中国政府は2008年から厚さ0.025㎜以下のレジ袋の生産や使用を禁止するとともに、それ以上の厚さのレジ袋については、店側が料金を徴収するよう義務づけた。

しかし、レジ袋有料化から10年余りが経ち、この制度がうまく機能していないとの指摘が出ている。「レジ袋有料」の表示を掲げている店でレジ袋について店員に聞いてみると、こんな答えが当たり前のように返ってくるという。「お金はいらないよ」「1枚目はサービスだよ」、商店の多くが、レジ袋を無料で提供しているのが実情のようである。某環境団体の調査によると、レジ袋代を徴収していたのは、1,000店中17%にとどまっているという。取り締まりの厳しい大手は別にしても、他店に客を奪われないよう中小の店は牽制しあってレジ袋を無料提供している実態が明らかになった。

一方の買い物客はどうかと言えば、レジ袋にお金を支払うことに「そんなに気にしません」「袋を持っていなければ買うし、それがいくらかなんて気にしません」というのが大方の意見。先の環境団体はレジ袋の価格をもっと高くする必要性を訴えている。

タイは2020年1月からレジ袋の無料配布をやめる取り組みを始めた。「マイバッグ」がようやく定着し始めてきたところで、新型コロナウイルスが発生。感染を防ごうとして、料理の配達やテイクアウトのサービスを利用する人が増えた結果、多くのプラスチック容器や袋が使われ、プラスチックごみも増える傾向にあるという。
こうした中、タイでは、政府と企業がリサイクルのプロジェクトに乗り出している。デパートなどにプラスチックの回収箱を設置。将来的には、回収したプラスチックを細かい粒状に加工して製品化し、リサイクルを定着させたいとしている。ワラウット天然資源・環境相は「大事なのは国民の決意です。もう少しの努力で適切なりサイクルの仕組みができます」とプラスチックごみ問題への取り組みに意欲を示している。

私自身の行いはどうかと言えば、これまでスーパーなどで無料でもらっていたプラスチックバッグをいくつか持ち歩くようにはしている。ビジネスバッグにもエコバッグを入れている。しかし、元来何も持ち歩きたくない性分なので、急に思い立った買い物には有料でレジ袋をもらうこともある。冒頭の「それが本当に必要かを考えていただき、私たちのライフスタイルを見直すきっかけとすることを目的としています」という趣旨からすれば、レジ袋有料前からある一定の環境問題に関する意識は持ち合わせていたし、入手したレジ袋を保管しておいて生ゴミ袋に使ったりリユースをしている。もし、保管していたレジ袋が無くなってしまえば、有料でプラスチックごみ袋を買うことになるだろう。

循環型社会を作るには5Rがキーワードであると言われる。Reduce(リデュース)ゴミを減らす、Reuse(リユース)再利用する、Recycle(リサイクル)の3Rに、不要なものは買わないRefuse(リフューズ)、修理して長く使い続けるRepair(リペア)の2つを加えた概念である。レジ袋有料化はRefuseにあたるものと思われる。地球環境を考えたとき、不要なものはタダでももらわない。もらっても、すぐにゴミ箱にいくのであれば、マイバッグを持ち歩いて、レジ袋は極力買わないようにしましょうということであろう。その趣旨に反論はない。しかし、循環型社会を作るためには、それ以外の4Rも含めたエコシステム全体の中で論じるべきであろう。これまでレジ袋は使用量削減のための薄型化に様々な企業が挑戦してきた経緯もあるし、特に濡れたもの・冷蔵品・冷凍品などはレジ袋は重宝で、紙袋よりは再利用率が高いのではないだろうか。再資源化に関してはなかなか難しい事情があるようだ。レジ袋の口が結んであると機械では破袋できない、半透明のレジ袋は中が見えにくく、ごみと資源物が混入して捨てられやすい、生ごみの水切りが徹底されないので焼却工場の燃料効率を低下させる等、レジ袋リサイクルの問題点が多々挙げられる。さらに軽いので飛散しやすく自然状態では分解されない、行楽地などでポイ捨てされやすいといったことから、野生動物が誤飲して苦しみ死ぬ、あるいは海中などでマイクロプラスチック化し、食物連鎖の中で最終的には人間の体内に蓄積するといった健康被害も懸念されている。

リサイクルの関してはStatistaによる2013年OECD加盟国での調査結果がある。ドイツが65%でトップ、ついで韓国が続いている。日本は下から3番目の19%。かくのごとく環境後進国の汚名をいただいているように、取り組むスピードにしても、取り組む姿勢にしても遅れを取っているのは否めない。ここまで遅れたのであれば、ドイツや韓国といった環境先進国の背中をただ単に追うのではなく、日本らしい取り組みを進め、世界にアピールすべきではないか。「新」生分解性プラスチックの開発(現状では埋めると温室効果ガスであるメタンを発生)であるとか、使用量削減のみならず、ごみ回収の方で生態系に悪影響を与えない、もったいない文化の復権、サッカー会場で見られる自主的な清掃や海岸美化、清潔好きの日本国民であれば、廃棄しずらい環境を作ることも得意ではないか、企業教育や教育現場での環境意識徹底など、やれることはいくらでもあると思う。ただ、レジ袋を有料化しました、全プラスチック使用量の2%にあたるレジ袋を2割削減が目標です等といった矮小化された領域で国民の納得感を得られないまま、時たま国民に使用削減を漫然と訴えるような政策では結果は期待できない。エコシステム全体を睨んで生産から廃棄・分解までの過程でどういったKGI・KPIを設定して国民を誘導していくか政治家や官僚の手腕が問われるところである。冒頭の経済産業省HPでの訴えの前段は理解できるとして、後段は過剰な使用にのみフォーカスをしている。廃棄の部分にも同様の啓発活動が必要なのではないだろうか。100均ではレジ袋やポリ袋が売り切れ状態。スーパーではマイバッグによる万引きが増加しているとの報道。レジ袋有料化はどこかバランスを欠いている政策で、のちに世紀の愚策と揶揄されかねない片肺飛行の政策です。進次郎さん、今こそ腕の見せ所です。