|   調達科学研ホーム  |   Procurement Science Lab. Home   |

星野君の二るい打

2018年8月1日 at 4:12 PM

二ヶ月ほど前になるが、一時色々な形で有名になった前川喜平氏の講演を聴く機会があった。醜聞も気にはなったが、教育行政に長年携わってきた前川氏が、今、そしてこれまでの日本の教育をどのように総括するのか若干の興味をもって聴いた。ちなみに前川氏の祖父は前川製作所の創業者、前川喜作氏で、喜作氏が創設した和敬塾(目白台にある男子学生寮)からは村上春樹氏や隅修三氏(東京海上ホールディングス代表取締社長)など錚々たる文化人、経済人、政治家を輩出している。ちなみに前川喜平氏の妹と中曽根康弘氏の長男弘文氏とは婚姻関係にあり、前川喜平氏と中曽根康弘氏は親戚関係にあたる。教育基本法を改正したいと教育審議会を立ち上げた中曽根元総理と、国家介入から教育の自主性を守らなければならないとする前川喜平氏の二人が、政治家と官僚という立場で、少なくとも前川氏の視点に立てば、対立含みの忖度という位置にあったのは、皮肉な話であったと言えよう。
「星野君の二るい打」という話は、この前川喜平氏の講演の中で初めて聞いた。道徳の教科化が始まる平成30年の教科書に載っていて、前川氏曰く、この話はまさに「個」よりも「全体」を重んじる滅私奉公・国家主義的考え方に通ずるものだと批判していた。私は5年前のブログで「道徳の教科化」(2013年7月14日)を取り上げ、反対の意思を表明している。道徳教育は必要だが、教科化としてしまうと評価、得点を付けなければならなくなり、それは「これが正解です」という解があり、指導する教師の立場にすれば、そこへ誘導しなければならないという使命を多かれ少なかれ負ってしまう。子供は大人の考える「正解」に先回りして、点数を稼ぐといったことにも繋がりかねない。
「星野君の二るい打」という話がどの教科書に掲載されているのか色々調べてみたが、わからなかった(文科省のHPにも道徳の教科書の内容~全て読める~が掲載されているが、そのような題名は見つけられなかった。ある人のブログには小学校6年生の道徳の教科書に載っているとあったが、そういった検索ワードでもやはり見つけられない。東京書籍のHPに10分程度のビデオが販売されているので、調べたら1999年度版には載っていたことが確認できた。もしかして、様々な批判を浴びた結果、現在は掲載されていないのかもしれない)。いずれにせよ、この「星野君の二るい打」の話が今も教科書に載っているのかどうかはこの際置いておいて、その中身に入っていきたい。ネットで検索する限り、ほぼ道徳の教科化に反対する題材として、この「星野君の二るい打」が登場する。週刊朝日の亀井洋志氏の要約によると次のように紹介されている。
「バッターボックスに立った星野君に、監督が出したのはバントのサイン。しかし、打てそうな予感がして反射的にバットを振り、打球は伸びて二塁打となる。この一打がチームを勝利に導き、選手権大会出場を決めた。だが翌日、監督は選手を集めて重々しい口調で語り始める。チームの作戦として決めたことは絶対に守ってほしいという監督と選手間の約束を持ち出し、みんなの前で星野君の行動を咎める。『いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことには変わりはないんだ』『ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ』などと語り、星野君の大会への出場禁止を告げるシーンが展開する。」
この話は丁度、日大アメフト部の話や、女子レスリングの伊調薫選手へのパワハラ、またアマチュアボクシング協会の不正疑惑など最近湧き出すスポーツ界の闇と重なってくる。
この「星野君の二るい打」の原文は1947年8月に出版された吉田甲子太郎氏著であり、もともとは高校野球の地方予選決勝での話である。教科書(最初は国語の教科書)に掲載するにあたっては、その時代背景や小学生向けに編集することで、かなりの削除や書き換えが行われている。主人公の星野君は投手で三番打者、まさにチームの主力である。その星野君に監督は試合の翌日、甲子園での出場禁止処分を言い渡す。監督はその場面でこのように口火を切る。「星野君はいい投手だ。おしいと思う。」「(星野君を出場禁止にすることで)、ぼくらは甲子園の第一予選で負けることになるかもしれない。」と苦渋の決断であったことをチーム全員に伝える。
実は、この前段には監督就任時の選手たちとの約束が綴られている。「ぼくが、監督に就任するときに、君たちに話した言葉は、みんなおぼえていてくれるだろうな。ぼくは、君たちがぼくを監督として迎えることに賛成なら就任してもいい。校長からたのまれたというだけのことではいやだ。そうだったろう。大川君(キャプテン)。」(大川君強くうなずく)「そのとき、諸君は喜んで、僕を迎えてくれるといった。そこで、ぼくは野球部の規則は諸君と相談してきめる。しかし、一たん決めた以上は厳重に守ってもらうことにする。また試合のときなどに、チームの作戦として決めたことは、これに服従してもらわなければならないという話もした。諸君はこれにも快く賛成してくれた。その後、ぼくも気持ちよく諸君と練習を続けてきて、どうやら、僕らの野球部も少しずつ力がついてきたと思っている。だが、きのう、ぼくは面白くない経験をしたのだ。」という前置きの後に監督は処分を通告するのである。
これに関係した「福岡県教育センター」の道徳学習指導案を見つけた。これによると主題は「きまりはなんのために」ということである。事前の実態調査によると、「自分が損してまできまりを守ることはできない」と考えている子供が46%。「きまりは大切だが、きまりを破ることで結果が良くなるなら、時と場合による」と考える子供は38%。規則を守る根拠に利害・損得を上げる子供が54%いる半面、他者・相手の尊重を挙げる子供は27%、利便性とする子供は8%、秩序維持という答えが6%、紋きりの理解が5%と続く。最終的な狙いとしては「自分の力を発揮して活躍したい星野君の心情への共感」「監督の命令に背くことに後ろめたさを感じる星野君への共感」「翌日の監督の話をうつむいたままでいる星野君への共感」を通じて、「星野君が置かれている立場や状況を捉える力」「きまりを守ることはなぜ大切なのか、自分なりの根拠をもって明らかにし判断する力」を養うとしている。
最近の改版では最後のくだりが削られているが、このような場面で終わる。「星野はじっと涙をこらえていた。いちいち先生の言う通りだ。彼はこれまで自分がいい気になって、世の中に甘えていたことを、しみじみ感じた。『星野君、異存はあるまいな。』星野は涙で光った目を上げて強く答えた。『異存ありません。』」
今の時代感覚からすれば、この終わり方に強制力を感じる向きもあろう。しかし、1947年に発行された当時、作者が意図していたのは、監督が生徒たちに丁寧に段階を踏んで合意を取り付けていったステップがあり、戦時中とは違う民主主義的な態度を読み取らせようとしてしていると奈良女子大の功刀俊雄氏は解説している。監督の処分に、キャプテンの大川は「だけど、二塁打を打って、クラブを救ったんですから」と星野に助け船を出すが、監督は「ただ、勝てばいいのじゃないんだよ。」と集団としての統制、独善的ではない民主主義的思考、スポーツマンシップの精神を子供たちに注ぎ込もうとしている題材として意図されているようである。
小学校高学年は、まだまだ功名心や利己心や支配欲が強く、統制に従うとか、全体のために自己を抑える訓練が身に付いていない。競技などで勝敗に囚われて規則を尊重しない傾向もあることへの指導という色彩が強く出ている。これをして監督の自己の命令への絶対服従を子どもたちへ強いる「監督絶対主義」として前川氏のように全体主義、国家主義への誘導と取る論調もある。終戦後すぐの題材を現代に流用することの難しさがここにあるが、自己の主張を正当化するために一部を都合よく切り取って反論に使うという手法も古典的で狡さを感じる。
W杯予選の最終試合、ポーランド戦での最後の10分間のパス回しは日本中がと言っても大げさではないくらいに喧々諤々の意見や論調があった。私は個人個人の美意識に通ずるところがあって、それぞれの解釈をすればいいと思う。本戦でのベルギー戦で一時夢を見させてもらったサッカーファンは、ポーランド戦の西野監督の采配を是としていた人がかなり多かった。しかし、もしベルギー戦で一方的にやられていたと仮定すれば、予選で最後まで点を取りに行って、それで負けた方が良かった(花と散る)とする人が多かったのではないだろうか。西野監督は何としても決勝リーグに行くという目的のために賭けに出て賭けに勝った。星野君の場合も結果OKであったが、いつもそうとは限らない。いや、結果が出ないことの方が多いのではなかろうか。それゆえ、こういった話には花が咲く。「星野君の二るい打」の話は小学生のみならず、大人でも意見が分かれ、それを評価することなど、ナンセンスと考えるのは私だけだろうか。ひとつの題材を基に、色々な意見が出され、その中で共感があったり、他者からの学びがあったり、仲間への新しい発見があったり、それで十分である。

明治維新150年、五か条の御誓文を読み返す

2018年7月14日 at 9:41 AM

今年2018年は、明治維新1868年から数えて150年の節目の年である。明治維新をやり遂げた薩長土肥の遺勲や幕末志士の思いなど、その評価にはいまだ毀誉褒貶があろう。当時、清の二の舞になってはいかんと、欧米列強へ対抗せんとした尊王攘夷論は、最終的には尊王開国という形に終結していき、大政奉還に至った。勝海舟と西郷隆盛の江戸城無血開城は有名なくだりであり、これにより多くの優秀な人材が犬死することなく以降の時代を牽引することとなるが、その西郷含め、維新前後各10年は多くの血が流れたことは歴史の知るところである。
今世紀に入って2010年にチュニジアで始まったジャスミン革命から波及した、アラブ世界における民主化を求める「アラブの春」は、前例のない大規模反政府デモに発展した。2012年にはエジプトやリビアで強権長期政権が打倒されたが、その後の国内対立とその衝突により混乱を招き、シリアに至っては泥沼の内戦状態がいまだに続いている。それら間隙を縫ってISが建国を宣言し、いっとき大いに勢力を拡大したことは記憶に新しい。
旧体制崩壊後に秩序立てて新体制を立ち上げることは、旧体制を崩壊させることより何倍も困難な作業である。明治維新の元勲等の奮闘努力はやはり歴史上の快挙と言っていいであろう。それら元勲等の陰に隠れて、あまりその評価が表に出ないが、明治天皇が天地神明に誓約する形で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針である「五か条の御誓文」は、当時の人心安寧とその後の日本社会における民主主義に基づいた基本的人権の確立に大きく寄与したものと私は考えている。
左巻きの人たちはすぐに「戦前回帰」=「軍国主義復活」などと声高に叫ぶが、日本軍(特に陸軍)が軍国主義に走った時代は1931年の満州事変から1945年の第二次世界大戦敗戦までの14年間であり、その百倍以上の長きにわたる日本の歴史を「戦前」と称して片っ端から否定するというのはまったくもって無知蒙昧の仕業としか言いようがない。
企業経営でも「変えてはいけないもの」と「変えなければならないもの」の峻別が非常に重要で、これを間違ってしまうと背骨の無い軟体動物のような企業体質になってしまう。
その意味で、「五か条の御誓文」(天皇が天地神明に誓ったもの)の内容は、明治維新にあたって天皇により「民主主義」が宣言され、大正デモクラシーを経て日本社会に根付いていったものである。日本の民主主義は決して、敗戦後にGHQから押し付けられたものではないということを日本国民が再認識し、五か条の御誓文の精神は「変えてはならないもの」のひとつとして後世に伝えていかなければならない大きな財産ではないかと、その歴史に思いを馳せるものである。

【五か条の御誓文(現代語訳)】(原案起草:由利公正、修正:福岡孝弟、加筆:木戸孝允)
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし
   ・広く会議を興しとは、当時人々の意見を広く集めて会議するという意味はなく、府藩県に渡って広く会議を興そうという意図であったと福岡が語っている。しかし、この思想は後に自由民権運動を経て、1928年に男子普通選挙、1945年に婦人参政権が成立する基盤となる。
   ・万機公論とは、あらゆる重要事項は、広く公開された議論を経て行うという意味で、坂本龍馬の船中八策(1867年)にある「万機宜しく公議に決すへし」から採られたものとされる。
一、上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし
   ・福岡が「士民」を「上下」に修正し、一層広い意味を持たせ、人心を一つにするという国民団結を謳っている。
   ・経論は一義的には経済振興を表したものであるようだが、経済政策に限らず国家の政策全般のことと解釈して問題ないと思われる。
一、官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
   ・福岡が「官武一途」(中央政府と地方武家が一体となって)を加えたため、主旨が不明瞭になったと言われるが、要は各々が各々の分野で弛まぬ努力を続けて志を成し遂げることが重要であると説いていると解釈できよう。
一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし
   ・まさに陋習とは「変えるべきもの」であり、変える際には普遍的な自然の摂理や原理原則(当時は国際法などが念頭にあったよう)に基づいて行われるべき、といういつの時代にも通用する考え方と言えよう(木戸の発案)。
一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし
   ・後半の幕藩体制において、極限られた国との交易しかった結果、世の中のことに疎かった反省を踏まえて、知識を世界中に求める重要性を説いている。皇基とは、天皇が国を治める基礎という意味である。

今日においては、現行憲法で「天皇は日本国と日本国民統合の象徴」であることから、天皇は国政に関する機能は全く有していない。五か条の御誓文を発した時の明治天皇は16歳。総裁・議定・参与の三職が若い明治天皇を補佐し、天皇の権威(Authority)を持って近代国家への改革を先導していった。明治天皇は、大日本帝国憲法下あっても、質素な生活と峻厳に自己を律する姿によって、当時から象徴として国民の畏敬の念を集めていた。崩御に至るまで君権政治とか圧政政治とは無縁であった。日本の軍国主義時代は大いに反省すべきところがあるが、かといって、それ以前の日本の文化・慣習・歴史を一刀両断で否定する愚を犯してはならない。古きを温ねて新しきを知る(温故知新)はいつの世にあっても金言である。

今どき、まだ文系・理系ですか?

2018年6月17日 at 2:06 PM

大学受験にあたって、受験生は未だに文系・理系の選択を強いられているのであろうか?
教育現場では便宜上、生徒を文系・理系に分けて、志望校に合格するための必須科目を集中的に勉強するのは手段の最適化という観点からわからないでもないが、卒業して随分経っているにも拘らず、それを引きずって(固執して)いる人を見ると哀れになる。昔はInnovationが50年に一度程度、人生も50歳+αであったので、学生時代に勉強したことで食いっぱぐれることはなかったであろう。しかし、いまやInnovationが十数年に一度、人生100年時代を前提とすれば、生涯学習をもって時代に適応できなくては食いっぱぐれる時代になっていることを認識しなければならない。
昭和2年生まれの私の親父は既に鬼籍に入ったが、現役時代には「私もエンジニアの端くれですから」と半ば誇らしげに人に話していた姿は今でも強く印象に残っている。ちなみに親父は新幹線の車両整備運行に携わるエンジニアであった。
日本の高度経済成長を支えたのは、紛れもなく科学技術の発展によるところが多いであろう。70年代後半には自動車、電化製品、カメラなどは日本製品がNO.1と言われ、日本が急速に貿易黒字を積み上げていった時代であった。また一方で、敗戦により、その後の軍拡競争に巻き込まれることなく、国の資本を経済発展に集中投下できたこと、護送船団方式と称されながらも経済力拡充による国力増強に舵を切った東大をはじめとする法学部等出身者の政治家や官僚が牽引してきた時代でもあった。
外国人から文系・理系という話は聞いたことがない。自分の学んだ専門分野を呼称するのが普通である。人文学部-B.A. (Bachelor of Arts)、経済学部-BEc (Bachelor of Economics)、商学部-BCom (Bachelor of Commerce)、理学部-B.S.(Bachelor of Science)、建築学部-BArch (Bachelor of Architecture)、工学部-B.E.(Bachelor of Engineering)などである。私はアメリカ赴任ビザ取得の際に自分の学位が英語ではBachelor of Political Scienceであることを調べて知るに至った。諸外国では博士課程を修了した人はPh.D(Doctor of Philosophy)と呼称され、日常生活でもDr.~~と敬意をもって呼ばれる。日本ではノーベル賞など世界的権威のある賞を受賞したような余程偉い人でもなければ、~~博士とは呼ばれない。日常生活の中で、通常Doctorと呼ばれるのは医師だけである。
日本で文系・理系と区別され出したのは、大正7年の第二次高等学校令によるとの記載がWikipediaにあった。そこで、「文科甲類」「文科乙類」「文科丙類」「理科甲類」「理科乙類」(甲‐英語、乙‐独語、丙‐仏語)なる区別が為されるようになったとある。橋爪大三郎氏によれば、「そもそもこんな区別があるのは、発展途上国の特徴である。黒板とノートがあればすむ文系にくらべ、理系は実験設備に金がかかるので、明治時代の日本は、(理系の)学生数を絞らざるをえなかった。そこで数学の試験をし、文系/理系をふり分けることにした」そうである。理系の人のそんな矜持が「私もエンジニアの端くれですから」という親父の言葉に引き継がれているのであろうか。
昨今話題の日大には文理学部がある(1958年改称)。文系と理系が複合した学科が18ある総合学部とのことであるが、教員養成の色彩が強く、文理の枠を超えて学問を追究しようといった理念は残念ながら感じられない。卒業者有名人の顔ぶれを見ても、スポーツ選手や芸能人、アナウンサーが目につき、政治家などの文系的人材は輩出しているものの、理系的な活躍をしている人は極僅かと見受けられる。
AI(人工知能:artificial intelligence)は、いまや最も盛んに語られるBuzzwordであろう。人間の敵か味方かなどと無責任なメディアが囃し立て、肯定的にも否定的にも捉えられている。別の意味合いでBIとAIという言葉がある。BIとはBefore Internetで、時代の流れがSlowでSimpleであった時代、つまり将来をそこそこ予測できた時代。AIはAfter Internetで、時代の流れがFastでComplexであり、予測できない手探りの時代。前者は完全無欠(Perfection)を目指す時代から、後者の最善の努力(Best Effort)を目指す時代へ変わってきたとする考えである。学問ではAntidisciplinary(既存の枠を飛び越えた学問)が必要とされる時代になってきており、文系・理系といった100年の前の区分に拘っている時代は遥か昔に終わっている。
そしてEducation(誰かに教わり、それを覚える)時代から、Learning(自分で学びたいことを選び、自ら学ぶ)時代へ変わっていかなければならない。なぜなら、もう既に我々は答えのない時代に突入しているからである。
AIがこれからの時代に大きな役割を担っていくことはほぼ間違いない。学問としてはAIを味方にする教養(プログラミング、論理性、合理性、網羅性など)と、AIに代替できない教養(リベラルアーツ‐歴史、哲学、文化、美術、音楽、宗教、生物学など)、そして全てを疑って掛かる程の学びの姿勢が必要になる。
それら各人各様の違った意見を出し合い議論しながら、ひとつの意見にまとめていく教養と統率力が人間個人に求められていくものと思う。
そして、これから未来を担っていく若い世代が、固定観念に縛られた親や大人のこれまでの経験値による過剰介入によって、子供本来の純真無垢な可能性に溢れた好奇心が侵されないことを切に願っている。

疑似科学

2018年5月3日 at 4:28 PM

疑似科学とは、いかにも科学的であるように見えて、実は科学的根拠がなく、実証も反証もできない事柄の事を言う。例えば、日本では今でも根強い人気がある血液型と性格の関係は代表的事例と言えるでしょう。昔から伝わる占星術や風水などもその例と言っていいでしょう。科学的思考は重要ですが、かと言って現時点で検証されたとされる科学が万能とも言い切れません。科学技術の進展が発見と修正の歴史であることもまた事実ですから。実際、過去科学的に証明されてきたことが、実は間違っていたという例を探してみました。たとえば、以前は植物性脂肪から作られるマーガリンが、動物性脂肪から作られるバターよりも健康に良いと長らく信じられてきましたが、2000年代に入ってマーガリンに使われているトランス脂肪酸が、LDLコレステロールを増加させ心血管疾患のリスクを高めると指摘され始め、国によっては法規制の対象にまでなっています。一方、宇宙科学では、冥王星は他の8つの惑星と性質が違っていると考えられるようになり、2006年の国際天文学連合の総会によって、「準惑星」というカテゴリに分類され、惑星ではなくなりました。体力増進に関しては、星飛雄馬世代には有名な「うさぎ跳び」が、スポーツ医学の進展により、1980年代に入って、膝に危険な力が加わり関節や筋肉を傷めてスポーツ障害を起こす恐れがあるということで、少年時代自主トレで筆者が行っていたうさぎ跳びなる練習は今ではすっかり消滅してしまいました。未だ様々な意見が交わされている二酸化炭素で地球温暖化が起きているという説も、多くの反論が出てきており、環境問題というよりは政治経済問題化してきている感があります。
さて、血液型性格判断に話を戻すと、日本以外では、日本の文化的影響を受けている台湾や韓国など一部アジア地域でのみ盛んなようです。起源を辿ってみると医学の基礎を作ったヒポクラテスまで遡ります。ヒポクラテスは紀元前4世紀の古代ギリシャの医者ですが、彼は「四体液説」を唱えました。それによると「血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁」の4種類が人間の基本体液であり、どの体液が優位であるかが人の気質・体質に大きく影響すると書き記しました。その考えはなんと19世紀の病理解剖学誕生まで続いていたとされますので、長い間人々の間には信じられてきた考えであったと言えましょう。
ABO血液型判定が確立するのは、1933年の第5回太平洋学術会議においてですが、ナチス・ドイツは人種差別を正当化するために、早速この血液型分類を利用しました。「ゲルマン系ドイツ人の血統が優れている」としたい彼らは、「ドイツ人に多いA型」を優れた血液型とし、「高い知能」「勤勉」などと肯定的に喧伝し、一方で「ユダヤ人やアジア人に相対的に多いB型」を劣った血液型として、「暴力犯罪者」「精神薄弱」「感染に弱い」などと非常に否定的に扱ったとされています(文献にあたれず未検証)。
もうひとつ日本ならではの例を挙げると、「マイナスイオンの効果」の是非があります。現時点でこれを疑似科学と断定するまでの結論は出ておらず、肯定派・否定派乱立状態のようです。実際、厚生省の認可を受けた医療機器が存在しますし、筆者自身も自宅に「マイナスイオン生成機」があります(もうどこになるかすらわかりませんが)。時折アウトドアに出かける筆者にとって、滝から発するマイナスイオンは、その説を信じ込まされているせいか、とても気持ち良く感じます。懐疑派で統計物理学者の菊池誠氏に言わせれば、「確かに滝の側で爽快感を得ることはあるが、これは飛び散った細かな水滴が気化する時の気化熱による空気の冷却による涼しさ、都会の喧騒から離れたことによる静けさ(滝の音のみ聞こえる)や空気の清浄さ(車の排ガスなどのない)、また木々の緑が目に及ぼす優しさ等、普通に想定される快適要因による説明で十分であり、あえて科学的に実証されていない『マイナスイオン』を原因として持ち出す必要はないのではないか」と論じています。マイナスイオンなる言葉自体も「イオン化した大気分子の陰イオンを表す造語」に過ぎず、マイナスイオンが何かを具体的に特定できる統一見解はないらしい。
いつからマイナスイオンなる言葉が発生したかを調べてみると、ブームのきっかけは1999年から2002年にかけて、フジテレビ系列の情報バラエティ番組「発掘!あるある大事典」で特集番組が組まれたことであるそうだ。2002年にはマイナスイオンは流行語となり、家電量販店の店頭はマイナスイオン商品で溢れかえることとなった。ちなみに「発掘!あるある大事典」は2007年1月7日放送の、納豆によるダイエット効果を取り上げた「食べてヤセる!!!食材Xの新事実」の放送の影響により、全国各地の納豆が売り切れ、大騒動となったことがある。しかし、その後、虚偽のデータを放映したことが発覚し、番組は打ち切りとなった。 後日談であるが、この捏造報道を受けて、茨城県ではスーパーから大量に発注された納豆が突然キャンセルされ、廃棄処分が出たり、関連書籍も店頭からも撤去、絶版となったそうである。
現在、疑似科学と疑われている事柄も、将来立証されることもありうるし、他人様に迷惑をかけない程度の話題提供であれば、一時の世間話で済むが、悪徳商法・偽医療・質の悪い新興宗教と結びつくことになると大いなる不幸を招いてしまう。疑似科学はそういった悪質な事件と親和性が高い。
米数学者マーティン・ガードナーは、科学的懐疑論者でも有名であるが、1952年の著書「奇妙な論理(邦題)」において偽医療がはびこる理由のひとつとして、「人間の病気のほとんどは心身医学的なものであるため、患者が医師を信頼すれば治療方法が奇妙なものでも、患者はしばしば奇跡のように治癒するおかげだ」と述べている。こうなると理屈はどうあれ、患者にとっては災い転じて福となすとなり、科学と疑似科学の境界の線引きは実社会では甚だ困難を極めそうだ。「病は気から」というのは果たして科学か、疑似科学か。
いずれにせよ、この不確かな、特に「悪質な疑似科学」なるものから自身の身を守るためには、疑似科学の兆候を押さえておく必要がありそうだ。1)主張する人が、反証不能な理論や態度を見せている人、2)あなた、こんなことも知らないの?という無知へのアピールを強調する人、3)自ら立証を試みるのではなく、相手に立証責任を転嫁する人(無いことを立証するのはほぼ不可能)、4)いくつかの体験談を重視し、科学的ルールを軽視する人、5)統計的裏付けに乏しい、6)人間が犯しやすい心理パターンに陥れようとする人などは要注意だ。そして自分自身の思考回路もセルフチェックを怠らないようにしたい。たとえば「自分に都合のいい情報」だけを集めて納得すること(確証バイアス)などは多忙を理由にする人ほど陥りやすい罠であろう。

ヴェノナ文書

2018年4月14日 at 12:32 PM

現代日本の有様がどうしてこうなっていったのかを紐解いていくと、第二次世界大戦を通り抜けて日中戦争がなぜ起きたのか、さらに1919年ロシア革命、それを主導したコミンテルンの誕生に遡る。
中国、韓国がなぜあれほど反日なのか、日本国内にひたすら倒閣だけを旗印に活動する議員やメディアがどうして存在しうるのか、戦後の日本はなぜにかくも骨抜きな国家になってしまったのか、それらはコミンテルン誕生、つまりマルクス・レーニン主義を、自らの権力構造確立のためにスターリンがレーニン死後に徹底的に浸透させていった時代(資本論に代表されるマルクス主義の意図的曲解)に突き当たる。
昨今また覇権主義を強行する中国やロシアの台頭によって「新冷戦」と呼ぶ向きもあるが、ソ連崩壊による東西冷戦終結は実は表面的なことであったことに気づかされる。資本主義陣営が、その勝利に酔って油断している間も、冷戦は水面下でずっと続いていたし、実は「米ソ冷戦」と言われる以前から広義の外交手段の一つとして存在していたのである。
このところずっと報道されているアメリカ大統領選挙へのロシア介入疑惑や、対峙する同士間だけとは限らない国家間のスパイ活動を含む情報戦、サイバー攻撃による社会システム混乱誘発など、実は目に見えにくい形の「戦」が以前よりも巧妙な形で繰り広げられてきたことを、色々な情報開示や歴史家の検証によって我々は知ることが出来るようになってきている。
しかし、それを都合良く思わない「連中」は、それをひた隠そうとしたり、相手の取るに足らないところを突くことで目くらまししようとする。ひとりひとりが情報を色々な角度から分析し、正しい知識として蓄積していかないと、いともたやすく「連中」に操られてしまう。情報リテラシーの向上はSNSなど情報手段が多様化している今こそ非常に重要であると再認識しなければならない。
「ヴェノナ文書」とは1995年に英米によって公開された1943年からのソ連スパイの暗号解読文書である。CIAのHPで公開されているが、日本での紹介は2010年発刊の中西輝政氏監訳「ヴェノナ 解読されたソ連の暗号とスパイ活動」など極一部に留まる。ヴェノナ文書の拡散を良しとしない勢力の圧力が見え隠れする。1992年にソ連からイギリスに亡命したKGBのワシリー・ミトロヒンが持ちだした機密文書「ミトロヒン文書」との突合せを歴史研究家が行っていて、現時点で全てが詳らかになっているわけではないが、原爆投下を決めたルーズヴェルト大統領の政権下に300名近くのソ連の工作員やスパイがいて、日米開戦から終戦後の日本占領政策に至るまで影響力を持っていたことが明らかになってきている。
さて、コミンテルンの話から始めましょう。コミンテルンは別称「第三インターナショナル」と国際組織のような印象を受けますが、1919年創設から1943年解散後も、ソ連を中心に共産党という名称で世界各地で継続的な共産革命活動を行っている組織です。コミンテルンの前身は第一インターナショナルで、ヨーロッパの労働者・社会主義者が1864年に創設した労働組合のような組織です。その後、社会主義者の国際組織に改組され第二インターナショナルとなり、第二次世界大戦後は分裂し、そのひとつがコミンテルン「第三インターナショナル」という共産主義革命活動組織として先鋭化されました。当初は世界同時共産革命を目指していましたが、1919年ロシア革命の成功により、前述のスターリンが「一国社会主義論」を打ち出し、各国の状況に応じた共産革命をそれぞれで目指すことになり、当面は共産革命に成功したソ連の外交政策擁護を中心として世界各地で活動する組織となりました。
1928年の第6回コミンテルン大会では、共産革命の戦術として、⓵資本主義の矛盾を突き、⓶動揺させ、⓷危機を劇化させるという「第三期論」を打ち出します。政治綱領としては⓵自国政府の敗北を助成すること、⓶帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦に転換させること、⓷民主的な方法による正義の平和は不可能という認識に立ち、戦争を通じて革命を遂行することが決定しました。
1935年、最後の大会である第7回では、⓵理想論を捨て各国の特殊事情にも考慮して現実的に対応し、気づかれることなく大衆を傘下に呼び込み、さらにファシズムあるいはブルジョワ機関への潜入を積極的に行って内部からそれを崩壊させること、⓶共産主義化の攻撃目標を主として日本、ドイツ、ポーランドに選定し、この国々の打倒にはイギリス、フランス、アメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、⓷日本を中心とする共産主義化のために中華人民共和国を重用すること(この頃よく用いられた「人民戦線」という言葉は、反ファシズムを唱え、あらゆる勢力と協力する方針のことです)が決まりました。コミンテルンの主な攻撃目標にされた日本とドイツは、これにより1936年に日独防共協定を調印することとなります。
1941年に独ソ戦が開始され、苦戦が続いたソ連はコミンテルン自身の弱体化もあって、1943年に英米との協調(まさにこれこそ「人民戦線」)に踏み切ります。そして、資本主義諸国の中の共産党を通じて気づかれることなく共産主義革命を起こすように仕組んでいく、ソ連に対する敵視の原因を除去する必要からコミンテルン解散を判断したとも言われています。1941年に日ソ間で締結された日ソ中立条約もその戦略の一環です。
ヴェノナ文書に話を戻すと、アメリカにおいては、終戦間際に日本本土侵攻やソ連参戦の必要性を唱えたジョージ・マーシャル国務長官や、蒋介石政権の顧問を務めたオーエン・ラティモアらはソ連に通じており、秘かに中国共産党政権の樹立を支援したとあります。実際、中国政府系・アメリカ共産党系のロビー活動によって、ルーズヴェルト大統領は1939年日米通商条約を廃棄し日本に経済制裁(兵糧攻め)を加え、蒋介石政権に対しては1940年、2000万ドルの軍事援助を表明し、日中戦争の長期化による日本の疲弊を狙います。若杉要ニューヨーク総領事は1938~1940年にかけてアメリカの反日運動の背後にアメリカ共産党やコミンテルンの暗躍があることを正確に分析し、その実態について詳細な報告書をたびたび作成し、都度外務省に報告しています。その内容は、共産党の狙いが日米関係を悪化させることにより日米開戦に持ち込むこと、そして支那事変を長期化させることで日本のソ連への軍事圧力を封じるという日米分断策動にあり、それに乗らないよう訴えたものでした。しかし、ルーズヴェルト政権は前述のように反日親中政策を鮮明にし、最終的には日本が全く受け入れることのできないハル・ノートによって、コミンテルンが描いたシナリオ通り、日米開戦となったのです。
1945年ルーズヴェルト大統領、チャーチル首相、スターリン元帥という米英ソ三カ国首脳がソ連領ヤルタで行った密約会談において、国際連合構想にソ連が同意する見返りとして、ポーランドやバルト三国などをソ連の勢力圏と認めることや、ソ連の対日参戦と引き換えに満州の権益や南樺太・北方領土を与えることを認めたことも、ルーズヴェルト側近のコミンテルン工作員の影響が大いにあったとされています。アメリカが共産党の脅威に本当に気づいて手を打ったのは、1947年のトルーマン・ドクトリン(共産主義封じ込め政策)以降です。終戦時にはソ連がアメリカと同じ連合国であったことで、アメリカ自身もコミンテルンを甘く見ていました。その結果、GHQ草案による日本国憲法策定にも大いにコミンテルンの秘密工作員が関与し、未だにその呪縛から日本人の多くは解き放たれていません。
東条英機は東京裁判において、徹頭徹尾「日本は侵略戦争をやったのではなく、自存自衛の為だった」と主張しましたが、負ければ賊軍、訴えは認められずA級戦犯として1948年に絞首刑が執行され裁かれました。左翼主義者の扇動によってあまり日本人には知られていませんが、サンフランシスコ条約締結により主権を回復した翌年の1953年の日本国会において、共産党を含む全会一致で「戦犯として処刑された人々は、法務死であって戦死者とみなす」と決議されているので、その時点から日本に戦犯は存在していません。しかし、野党も中韓も未だにA級戦犯を祀る靖国参拝は許さないなど声高に叫んでいます。蒸し返しもいいところです。韓国政府による従軍慰安婦問題の再三の蒸し返しもさもありなん。慰安婦像はアメリカ、カナダ、オーストラリア、中国、ドイツにも設置されいるそうですが、皆同じ勢力の仕業です。
ヴェノナ文書の公開がさらに進めば、日本を侵略国家として断罪した東京裁判史観が崩壊してしまう恐れがあります。その意味では現在未公開の日本に関する内容は今後も公開されないかもしれません。しかしその件に関しては、既にマッカーサーが東京裁判結審3年後の1951年にアメリカの上院で次のように証言しています。「日本は絹産業以外には固有の産物がない。実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジア海域には存在していた。もし、これらの原料供給を断ち切られたら、1000~1200万人の失業者が発生することを日本は恐れていた。したがって、日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が自国防衛の必要に迫られてのことだった」(They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.)と。
資本主義国家間の矛盾対立を煽って複数の資本主義国家が戦争をするよう仕向けると共に、その戦争において自分の国を敗戦に追い込み、その混乱に乗じて共産党が権力を掌握するというレーニンの唱えた「敗戦革命論」は、現在でも日本で進行中であるということを多くの国民は知る必要があります。(5月3日追記:朝鮮半島南北融和が連日報道されていますが、韓国内の従北勢力は日本のそれよりひどい状況です。それゆえ自由主義陣営である韓国で反日運動が盛んである所以です。政権すらそのコントロールができないところまできています。いわんや親北の文在寅大統領の行動は、韓国の民主主義を崩壊させ⇒北朝鮮主導の朝鮮半島統一に向かい⇒日韓関係の破綻へ向かう可能性大です。それこそ共産主義陣営のシナリオ通りです。頼りにならないトランプ大統領ですが、残念ながら彼を含めアメリカ政府の正常化に頼るほかないのです)

格差拡大と民主主義

2018年4月10日 at 10:31 AM

富の偏在性を見る指標にジニ係数がある。ローレンツ曲線をもとに、1936年にイタリアの統計学者コッラド・ジニによって考案されたものである。それによると日本は1981年0.349から一貫して上昇し、2014年0.570まで上がっている。ジニ係数とは、1人が全ての所得を独占した場合は1。完全平等社会であれば0となる。一般にジニ係数の社会騒乱多発の警戒ラインは0.4とされており、これを理由に日本は格差社会だと喧伝する向きもあるが、それは正しくない。日本は資本主義国家の中でも社会主義的な国家運営をしており、かなりの所得再配分が行われている。再配分所得によるジニ係数は1981年0.314、2014年0.376と前述の0.4を下回っており、自由経済の結果による偏在を政策によって是正してきているのである。OECD加盟国30ヶ国中、日本は貧困率がメキシコ、トルコ、アメリカに次ぐ4番目に高いというデータも持ち出されるが、再配分前の相対貧困率の比較であり、必ずしも生活実態を反映しているものとは言いがたい。ちなみに新興国の貧困率は1日1.25ドル未満という絶対貧困率で表しており、相対貧困率とは全く異質のものである。日本で絶対貧困率に相当する1日150円未満の所得しかない人は、端的に言えば働いていない人であって、選択的失業という存在である。日本の最低賃金は、高い東京で907円、もっとも安い沖縄や高知などでは693円、全国を平均すると798円。事情があって働けない人を除けば、日本で絶対貧困は起き得ない。
日本での相対貧困率はここ数年16%(6人に1人が貧困)前後で推移しており、平成に入ってから3ポイントほど上昇しているが、最近になって急激に増えているわけではない。2015年のデータでは可処分所得中央値が年245万円、その半分が貧困線と言われ年122万円。つまり月10万円の生活である。感覚的に言っても厳しい家計のやりくりが想像される。特に片親家庭では50%の相対貧困率であり、これは大きな課題と認識しなければならないと思う。しかし、その数値も1997年の63%よりは改善をしている。必ずしも相関があるわけではないが、生活保護受給者は1997年90万人から、2015年212万人と倍増している。中には疑惑の目に晒されている受給者もいるが、それは極一部であろう。

まず日本の格差問題の実態を概観したわけであるが、世界に目を転じてみると、ブランコ・ミラノヴィックという経済学者が作成した「象のチャート」はグローバリゼーションによる所得変化をわかりやすく切り出している。
https://voxeu.org/article/greatest-reshuffle-individual-incomes-industrial-revolution
1988~2008年の20年間の間に、グローバル社会でビジネス的成功を収めた一握りの超富裕層Cグループは所得を大きく伸ばし(世界で最も裕福な8人が保有する資産は、世界の人口のうち下から半分にあたる約36億人が保有する資産とほぼ同じ)、中国やインドなどの新興国の人たちAグループも所得を大きく伸ばしている。伸びが鈍化しているのが、先進国のミドル・クラスBグループで、これは主に製造拠点が先進国から新興国にシフトした結果であると考えられている。違う観点から言えば、グローバリゼーションによって、国家間の格差は縮まったが、国家内の格差は拡大したとも言えよう。

さらにこれを歴史的に遡ってみると、サピエンス全史を書いたユヴァル・ノア・ハラリが次のように分析している。
農業の始まりによって、小麦などを貯える術を得て、人間はその日暮らしからの脱皮を実現し、余剰の富が生まれるようになった。エリート層(いわゆる賢い連中)は、それを収奪して豊かになっていった。そして、その富が権力を生み、権力が富を生む社会構造を創っていった。
収奪が限界値にまで近づくと、生産者は生存できなくなるので、収奪構造はいずれ限界を迎えることとなる。この連鎖を止める方法は、過去の歴史からみれば、戦争、革命、疫病、飢饉の4つであると筆者は言う。
しかし、後者2つは文明の発展によって現代において発生しなくなってきた。限界に行くのを抑える存在が、政治である。ゆえに民主主義が必要であると私は思う(独裁主義には前者2つが待ち受けている)。貧困層が大多数になれば、民主主義が機能する限り、その民意が政治を動かすはずである。民主主義国家ではそれが曲がりなりにも機能してきた。しかし、その結果、多くの国で財政赤字が累積している(いわゆる選挙民へのバラマキ、本質的問題解決の先送り、子孫への負担増)
それでも格差拡大が止まらないのは、自由経済が正常に機能している結果であり、トマ・ピケティが言うところの「資産が生み出す富は、労働が生み出す富を上回る」の結果なのかもしれない。しかし、昨今話題にされている格差問題の本質論は、⓵格差は拡大したとは言っても多くの国では貧困層が生存できないほどのものではないこと、⓶各国の政治が機能(所得の再分配)していることの2つから出発すべきではないか。決して隣の芝生が青く見えるといった感情論から出発すべきではない。⓶が機能していない国では内戦、飢饉、貧困が蔓延っている。これこそが問題の本質である。

グローバル社会とは、ヒト、モノ、カネ、情報の移動が国境を越えて頻繁になっている時代のことである。ある国で起きた問題はすぐに世界に広がる時代であるということである。麻薬の流入、感染症の拡散、難民移動などの問題はグローバル社会で解決していかなければならない。課税額の捕捉もグローバルで対応していかなければならないという動きが漸くかかってきた。いくら保護主義を主張しても、これらの往来は止められない社会になっている。途上国の貧困撲滅、衛生改善、環境保全などへの協力はグローバルレベルで欠かせないし、安定持続的な経済成長には、援助を通じた不均衡の解消が必要である。それが豊かな国(人)が貧しい国(人)を助ける理由である。

トヨタの強み

2018年3月10日 at 5:09 PM

かんばん方式などの「トヨタ生産方式(TPS)」を体系化した大野耐一氏や鈴村喜久男氏から直接の薫陶を受けた林南八氏(トヨタ自動車顧問)の話を聞く機会を得た。トヨタ生産方式を語った本は数多あるが、トヨタの強さの神髄は上司が部下を不断の改善に駆り立てる鍛錬道場であると言えるのではないか。
この上司にはいい加減な報告はできないと感じさせること。上司自身も現場確認しているし、自分の頭で考えている、そして部下に質問したり、ヒントを与えたりしている。職場自体がこの鍛錬の場となっていることが最大の強みであると感じた。
以下、私が印象に残った林氏の講演の一部を私自身の感想を含めて箇条書きでご紹介したい。

1)TPSとは、原価低減と人材育成の仕組みに他ならない。自分自身(上司)がチャレンジしていますか? 部下にチャレンジさせていますか? 原価低減を目的として、その過程を人材育成に充てている意識は忘れがち。原価低減目標達成ばかりに目が行きがち。
2)滞留を無くしていくと、課題が出てくる。分岐・段取・不安定な工程・物流において、新たな滞留が発生するので、それを解決していく繰り返し。生産現場はモノの滞留を減らすこと。事務部門は情報の滞留を減らすこと。調達部門は極力近くで調達すること。
3)パワーポイントは作り手が勝手な強調を施すがゆえに問題を却って潜在化させてしまう。聞く側がわかりやすさを求めると、却って問題の本質を覆い隠してしまう恐れがあることを肝に銘じるべき。
4)事務部門でも、設計部門でも遅れ進みを見えるようにする工夫が必要。さもないと、問題が顕在化した時には手遅れになる。
5)販売機会を失っても、儲けそこなうだけ。潰れはしない。足らざるをもって尊しとすべし(徳川家康)が基本。当たらぬ計画は無計画と同義。売れたものだけ作ればいい。
6)5回のなぜには訓練が必要。なぜを5回繰り返した結果「社長が悪い」としても問題解決にはならない。なぜなら社長を変えても、あなたの問題・課題の対策にはまずならないからである。
7)「ああそうか症候群」になるな。物分かりが良すぎるのは、潜在化した問題を素通りさせている恐れがある。それでは問題の本質に切り込む深堀は出来ない。
8)目で見るな、足で見ろ。頭で考えるな、手で考えろ(鈴村語録)。足を使って調べ、手を使って考える。データは現場確認の動機づけであって、データばかり見て発破をかけているだけの上司は督促をしているに過ぎず、フォローをしているとは言えない。情報を使うと左脳が働く。体を使うと右脳が働く。右脳が働くと知恵が出る。右脳と左脳をバランスよく動かすためにも現地現物は大事。
9)現地現物は、現地見学とは違う。現場に行けばいいというものではない。問題意識と課題意識をもって現場現物確認を行うこと。
10)改善後は改善前。改善の報告をするために改善前の写真と改善後の写真を貼っておくと、改善前の写真は破られる。なぜなら、改善後とした姿はもう既に過去のことだから、その改善後の姿をどうしたら改善できるか、すぐに考え始めよとする日々改善の精神。
11)ものづくりも課題の与え方も一個流しが原則。いろいろな企業と関わって感じるのは、これ以上抜けがないというくらいにやるべきことを掲げているが、1年してもほとんど解決、改善していない。ひとつに集中して取り組むことが実は確実な成果につながっているのではないか。

トヨタから盗むべきは、こうした彼らの不断の努力によって作り上げた仕組みではなく、それらの仕組みを生み出してきた土壌そのものなのである。

憲法改正を阻むものは何か

2018年2月1日 at 6:19 PM

前回に引き続いて日本の安全保障について書きたい。なぜならどのような私的公的活動を行うにしても人は国家の基盤がなければ、何一つ立ち行かない存在だからである。ビジネスも日本の会社ということで大いに信用されうる下地を得ていよう。個人で海外旅行をしますといっても日本国発行のパスポートがあればこそ、世界中ほとんど国を旅することができる。闇市場で日本国パスポートが高値(20~100万円?)で売買される所以である(ICチップの埋め込みによって昨今は取引は困難になってきていると言われる)。
現日本国憲法は1947年5月3日に施行された。今でも5月3日は憲法記念日の祝日である。ゴールデン・ウィークの陰に隠れてしまい、改めて「現行憲法」とは何か、大丈夫なのかと問う人は少数かもしれない。しかし、今年は憲法改正の発議が行われるであろう重要な年である。
教科書で全ての日本国民が習ったであろう、日本国憲法を特徴付ける三大要素とは「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つである。
日本は1945年8月14日にポツダム宣言を受諾してから、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効するまでの7年間弱、主権を失っている。ちなみに2013年に第2次安倍内閣によって4月28日は「主権回復の日」とされたが、ほとんどの日本人は知らないのではないだろうか。
現行憲法は日本の主権が失われていた時期に施行されていることを日本人は十分再認識すべきであると思う。1945年9月29日に発令された「新聞と言論の自由に関する新措置」によって、連合国に不都合な記事はすべて封じ込められた。現行憲法はGHQの押し付けではない、日本人が起草したものだとしか言えなかった時代である。にもかかわらず、施行されてから一度も改正されていない現行憲法は、世界最古として憲法学者の間ではよく知られている。同じ敗戦国のドイツは58回、フランス27回、カナダ18回、イタリア15回、アメリカ6回、憲法改正を行っている。時代が変われば憲法を変えるのは決しておかしいことではない。
1946年2月13日に日本政府に提示された「マッカーサー草案」は、2月21日に幣原喜重郎首相がマッカーサーと会見し、「マッカーサー草案」の意向について確認。翌22日の閣議で、受け入れを決定した。マッカーサー草案を手交された場において「案を飲まなければ天皇を軍事裁判にかける」などと脅され、48時間以内の回答を迫られた結果の受け入れである。
こういった経緯で成立した現行憲法を改正することに何の躊躇もいらないと思うが、「どう変えるか」で改憲派の中でも合意が取れない状況にある。しかし、大国覇権宣言をしている中国と、今や方針不明な行き当たりばったりのアメリカに挟まれ、さらに小国と言えども今や核を手にした(北)朝鮮(韓国と統一されることがあっても一度手にした核は手放さない)を隣国に置く日本が自衛を行使することも十分に儘ならない現行憲法で良いと考える日本人は少数派なのではないだろうか。
自民党は2005年11月22日付け新綱領で「新しい憲法の制定を:私たちは近い将来、自立した国民意識のもとで新しい憲法が制定されるよう、国民合意の形成に努めます」と謳っている。安倍首相の祖父である第3代自民党総裁の岸信介は60年安保を命懸けで成立させたが、現行憲法の矛盾を嘆いていた。その孫、第25代自民党総裁の安倍晋三は憲法改正を悲願に政治家になり、その本懐を果たそうとしている。いまでも映像が蘇ってくるが、安倍一次内閣は2007年9月12日、特定疾患である「潰瘍性大腸炎」により退陣声明を行った。当時は病名も明らかにされず、私も「なんと無責任か」と思ったし、その5年後の2012年の総裁選再出馬には「冗談でしょ。自分で辞めた人がまた出るの?」と非難したものである(しかし、在任中に教育基本法の改正と国民投票法を成立させ、真の独立国家への道を着実に進めてきた)。今は、憲法改正に向けて心から応援している。
標題の「憲法改正を阻むものは何か」という問いには、やはりGHQの占領政策に遡ってしまう。まずは日本の無力化(武力放棄)、そして愚民化という名のアメリカ同調化が中心にある。武力放棄は徹底した軍国主義の排除、それゆえ話題の憲法9条の存在がある。じつはこの9条は沖縄の米軍基地化とセットであって、当時脅威であった共産主義勢力(ソ連)と対峙するためにアメリカとしてはどうしても必要なもので、その時は日本が軍事的無力であるべきことに何の疑いも無かった。しかしその後、1950年朝鮮戦争が勃発し、GHQは日本に警察予備隊の組織化を要請(その後、1954年に自衛隊に改組)、実質的に軍隊を有する国に日本をしてしまったのは他ならぬアメリカであった。しかしながら、現行憲法により放棄しているはずの軍隊が組織されてしまったので、憲法学者はこの矛盾する憲法9条と現実の自衛隊の並立を「憲法解釈」という名でしのぎ運用してきた。その長い辻褄合わせの結果、自らその明々白々な矛盾を吐露することができなくなってしまい、多くの憲法学者が「護憲」という砦に入り込んで、その立場に馴染んでしまった(巣喰われてしまった)。自主憲法制定を党是に掲げる自民党の中でさえ、「平和憲法」が日本の平和に寄与したと思い込ませるほど時間と議論を浪費してしまった。
そもそも主権とは「領土・領海を他国に侵されない、自国民の生命と財産を守る、自国の事は自国民で決めることができる」ということである。香港は1997年イギリスから中華人民共和国に返還され、一国二制度の原理の下、特別行政区になったが、今や「本土」の意向に反する行動や思想さえも制限されてきている。習近平政権下では台湾もその対象として、2049年(中華人民共和国100周年)までにはと、その視野に入れているのである。
現行憲法9条2項では「交戦権」も放棄している。交戦権とは、国際法上、戦争において害敵手段の行使や傷病者・捕虜・文民の取扱い等に関する交戦国の種々の権利の総称を言い、国際法上認められた権利である。交戦権があれば、人を殺しても殺人罪には問われない。交戦権を否定すれば、殺人罪になる。他国が攻めてきて家族が殺されることがあっても、その相手を殺めれば殺人罪になる。これが交戦権の放棄という意味なのである。現行憲法は「戦わない、他国にすがれ」という憲法。独立国家のそれではないし、これでは国民を守れない。それでは人権を失うという現実がわかっていない。つまり、国民主権と言いながら、現憲法はそれを否定しているのである。
そして、もうひとつは、反権力こそが自らの仕事と思い込み思考停止状態にある多くのメディアなのであるが、これに触れると長くなるので割愛。
今年は明治150年である(1868)~。明治維新は尊王攘夷から始まって、激しい議論と血を流す戦い(無血開城などと言われているが、その経緯では多くの血が流れた)を経て、開国の道を進み、清のような半植民地にならずに、近代国家への階段を日本は駆け上ることができた。憲法改正ができなければ、日本は150年後には無くなってしまっているかもしれない(中国の属国)。それで良いわけはない。ソ連は69年で幕を閉じた。日本は敗戦後72年、主権を回復して66年。遅きに失したが、手遅れではない。可及的速やかに真の独立国家になる年の幕開けにしたいと心から思う。

ヘルムート・シュミット(西ドイツ第5代首相)

2018年1月3日 at 5:11 PM

ヘルムート・シュミットは、西ドイツの政治家で、第5代連邦首相(在任:1974年 – 1982年)を務めた人物である。首相退任後の1983年からは『ディー・ツァイト』紙の共同編集者を務める言論人・文化人として政治的発言を続けた。なぜ、新年早々この人物のブログを書こうと思ったかと言えば、当時の西ドイツの置かれた状況が、今の日本のそれに酷似しているからである。
第二次世界大戦敗戦後の西ドイツはアメリカの後押しを受けて、1949年ドイツ連邦共和国としてNATOに加盟するという条件付きで主権を回復した。アメリカと西ドイツはソ連に対抗するという共通の目的のもと、互いに協力していくことが合意され、1950年代には大量のアメリカ軍がヨーロッパに配置されることとなる。
1961年アメリカ民主党のジョン・F・ケネディが第35代アメリカ合衆国大統領に就任すると、アメリカはベトナム戦争にその関心の重心を移していったが、1960年代に入ってもアメリカと西ドイツの関係は良好に推移していた。1968年に第37代アメリカ大統領に就任したリチャード・ニクソンは、泥沼化していったベトナム戦争からの撤退を模索していた。その結果が1970年代に入ってのデタント(米ソの緊張緩和政策)である。具体的には米ソ間の戦略核兵器の制限交渉(SALT I)が始まったのである(1972年調印)。この頃の西ドイツの状況はどうであったか。1969年に西ドイツ首相に就任したウィリー・ブラントは新東方政策を掲げ、ポーランドやソ連との友好関係を結び、デタントに協力姿勢を取った。アメリカも東ドイツや東ヨーロッパに直接コンタクトできる西ドイツの必要性を十分認識していたのである。今の日本でも話題に上がるアメリカ駐在軍の削減や、駐在費用の負担増額などが議論され、結局ブラント首相はデタントという不安定な時期にこそアメリカの防衛が必要だと判断し、駐在費用の負担を増額するという形で決着をみている。
ウォーターゲート事件の責任を取る形で辞任したニクソンの後釜、フォード第38代アメリカ大統領が1975年に西ドイツを訪問し、シュミット首相と対面をした。その時、シュミットはSALT Iが米ソ間のみのミサイル保有数を制限する(別途、弾道弾迎撃ミサイルも制限)だけであって、欧州における戦略兵器不均衡は全く考慮されていないと懸念を強調した。戦勝国である英仏が独自の核を保有しているのに対し、敗戦国の西ドイツは自国の核兵器を保有せず、またその希望もなかった。ソ連がユーロ戦略兵器でハンブルクを攻撃した場合に、アメリカはシカゴを破滅させるリスクを冒してまで、大陸間弾道弾で反撃してくれるだろうか? もはや昔のように西ドイツはアメリカによる核の盾を確信することができなくなっていた。
フォードはその懸念を理解し、SALT IIの対象にSS20(ソ連製核弾頭搭載の中距離弾道ミサイル)やバックファイヤー爆撃機(新超音速長距離爆撃機)を加えると約束したが、1976年の大統領選挙でジミー・カーターに敗れ、約束を果たすことはなかった。翌1977年に第39代アメリカ大統領に就任したカーターの取った外交戦略は、先のオバマ大統領(第44代)とよく似ている(時代順から言えば、オバマがカーターに似ているというべきだが)。冷戦は終了し、ソ連封じ込め政策からは脱却、国際的な変化に対応し、調整戦略を取るというものである。人権とグローバル共同体を追求し世界におけるリーダーシップを取ろうと考えたのである。
一方、シュミットは西側の安全保障政策を考えるにあたっては、東西における軍事的均衡が重要であるという認識に立っていた。当時から核戦争の被害の甚大さは数字的には十分認識(西ドイツ民間人死者170万人と想定)されていたし、もしソ連が核兵器を装備した戦車を西に侵攻させた場合に、アメリカが救援に駆け付けなかったらどうなるのか、という問題は常に頭から離れなかった(この対応策には中性子爆弾配備が議論されたが、中止)。SS20は命中精度の高い台車に載った移動式(北朝鮮のICBM輸送起立発射機ーTEL【Transporter Erector Launcher】を彷彿とさせる)であり、NATO側のミサイルが届かないソ連本土から西欧のどこへでも攻撃できた。シュミットは西欧におけるこの脅威をカーターに度々伝えたが、SALT IIを早々に同意して政治的成果に繋げたかったカーターが真剣に聞き入れることはなかった。
シュミットは1977年5月にNATO協議会で、同10月にロンドン戦略研究所で、「ヨーロッパ戦域核の不均衡」の問題を取り上げ、「SALTは米ソの戦略核能力を中和する。そのため欧州では戦術核及び通常兵器の面で東西間不均衡が増幅される」「ヨーロッパでのソ連の軍事的優位に直面している西欧の同盟諸国の安全を不可避的に奪う」「そうならないために我々は抑止戦略の全範囲の均衡を維持しなければならない」と述べ、その懸念を率直に表明した。シュミットはソ連に対しても、ユーロ戦略増強は欧州との協調、そして平和そのものを脅かすものであると繰り返し説得を試みている。カーターはシュミットの演説に不快感を示しながらも、その後、ヨーロッパの均衡兵力についても配慮するようになった。
1979年6月にはカーターとブレジネフによって第二次戦略兵器制限交渉(SALT II)が調印され、核兵器の運搬手段(ICBM、戦略爆撃機、SLBM)の数量制限と、複数弾頭化(MIRV)の制限が盛りこまれることとなった。NATOは、同年12月西ヨーロッパに核兵器を搭載した中距離弾道ミサイルを配備すること、そして一方でワルシャワ条約機構には軍縮を呼びかけるといういわゆる「NATO二重決定」を決議した。しかし、このカーターの緊張緩和政策放棄という方針転換は、ソ連のアフガニスタン侵攻の引き金にも繋がり、1980年1月にはソ連軍によるアフガニスタン制圧という事態に至る。アメリカ議会はこれをもってSALT II批准を拒否。結局SALT IIの合意は日の目を見ることなく、1985年に期限切れとなった。そして、初の共産圏での開催となった1980年のモスクワ・オリンピックは、アメリカをはじめ、日本、西ドイツ、韓国、中華人民共和国、イラン、パキスタンなど50カ国近くがボイコットを決める前代未聞の政治色に塗れたオリンピックとなったのである。カーターが西欧各国に打診することなく、多分に自身の大統領選挙を意識して半ば一方的にボイコットを表明したのとは対照的に、シュミットはソ連が米欧の分断を図っていることを十分知りながら、事態を悪化させまいと、ソ連を公然とさらし者にすることなく、面子を失わせずに、進み始めた欧米協調によるヨーロッパの戦域核不均衡是正の方向性を崩さない方法はないかと思案した。そのためには米ソが新たな軍拡競争に走らないように話し合いの場を設定することだった。国内ではソ連寄りとの批判を受けながらも、精力的にソ連との仲介を試みたのである。シュミットは、東西冷戦の最前線としてソ連と対立しながらも、政治面・経済面での対話や協力を進めた鉄の宰相であった。INF(中距離核戦力全廃条約)が米ソの間で調印されたのは、シュミットが政権を去って5年後の1987年、第40代アメリカ大統領レーガンとソ連の最後の最高指導者ゴルバチョフによってである。ご承知のようにその4年後ソ連は1991年に69年の歴史に幕を落とすことになった。
戦争が不可避な状態まで従来の覇権国家と新興国家がぶつかり合う現象は「トゥキディデスの罠」と呼ばれるが、新興国中国は高らかに次の覇権国家を狙うと公言している。世界を制御する力も気概もなくなったアメリカと中国の間に位置する日本はまさに、冷戦時代のソ連とアメリカに挟まれた西ドイツの立場に近づいている。目先では北朝鮮の核ミサイル問題が顕在化した問題として注目されているが、海洋大国を目指し世界の覇権を求める中国と日本の対立は不可避である。幸いロシアのプーチン大統領と安倍首相は良い関係のようであるが、周辺諸国や利害関係の少ない遠国とも関係性を強化し、確固たる国家観としたたかな外交を通じて国家の安寧を維持していく必要を痛感する中、改めてシュミットの言動に学ぶことは多いはずである。それは詰まるところ「適切な均衡が防衛を保障する」ということである。

契約自由の原則と放送法

2017年12月23日 at 11:44 AM

12月6日、最高裁大法廷は放送法64条1項に定めるNHK受信契約義務付けを合憲と判断した。その趣旨は下記の通りである。
1)特定の個人や団体、国家機関から財政面で支配や影響が及ばないよう、受信設備を設置してNHKの放送を受信できる者に広く公平に負担を求めることは、国民の知る権利を充足する目的にかない合理的であり、憲法上許容される立法裁量の範囲である
2)受信契約の締結はNHKからの一方的な申し込みによって成立するものではなく、双方の合意によって成立し、設置者が受信契約の申し込みを承諾しない場合は、判決の確定によって受信契約が成立する
3)受信契約を締結した者は受信設備を設置した月から受信料を支払わなければならないとする規約は、設置者間の公平を図る上で必要かつ合理的である
これらが15人の裁判官の結論である。木内道祥裁判官のみが、64条1項は判決を求める性質のものではないし、遡及適用や設備を廃止した人への適切な対応は不可能であるという反対意見を述べている。
いずれにせよ、NHKの受信契約義務付けは私法の大原則である「契約自由の原則」より優先するという判決を下したのである。
契約自由の原則とは、人が社会生活を営むに際し結ぶ契約(私法)は、公の秩序に反しない限り、国家はこれにできるだけ干渉すべきでなく、当事者が自由に締結できるという民法上の基本原則のことであり、以下4つに分類される。
1)締結自由の原則
契約を結ぶかどうかを当事者は自分自身で決定することができる
2)相手方自由の原則
誰と契約をするかという意思決定の自由
3)内容自由の原則
契約の中身に何を盛り込むかは自由である
4)方法自由の原則
契約は当事者の合意だけで成立し、書面化するのか、口頭だけかも自由ということ
一方で、強行法規というものがあり、民法90条(公序良俗)公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、当事者間の合意の如何を問わずに無効とする等が、代表的なものである。公共保護を目的とした規定は強行法規となり、独占禁止法、下請法、労働基準法、不正競争防止法、消費者契約法等がある。
つまり、今回の最高裁の判決は、放送法が公共の福祉に適合しているとして、契約自由の原則より優先すると司法が判断したことになる。
放送法は、総則で「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」を目的として、1)公安及び善良な風俗を害しないこと、2)政治的に公平であること、3)報道は事実をまげないですること、4)意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすることの4つを第4条で定めている。しかし、その実態は、公共放送であるNHKも民法も、全ての局において疑問符をつけざるを得ない状況があるのではないか。一方的な発言を長々と流し、世論誘導を図っている放送番組があるのは事実で、偏向報道との指摘もある。BPOというNHKと民放連によって設置された第三者機関もあるが、その視点は「放送における言論・表現の自由を確保しつつ、視聴者の基本的人権を擁護するため」であり、自らの信念で放送する番組の作り手に中立を求めるものではない。
先の総務大臣高市早苗氏は昨年、政治的公平性を欠く放送を繰り返した放送局に電波停止を命じる可能性に言及しメディアから総反撃を食らった。メディアが表現の自由を理由に反発するのはその立場から言って当然であろう。しかし、放送法は不偏不党や政治的公平性を求めているが、この二つは果たして両立するものであろうか。公共放送であれ、民放であれ、事実、真実のみを電波で流すにしても、編集という作業が入る。主張・強調したいところを切り取って放送すれば、人間である以上、程度の差こそあれ、必ず偏る。これは意見が違う人が世の中にいる以上、不可避のことであり、それこそが民主主義の証である。スポンサー収入に依存する民法は、スポンサーにおもねる番組もあろうが、一方NHKは放送法を盾にして、一般視聴者がサイレントマジョリティであることに胡坐をかいて、公共の福祉とは到底言えない領域に業態を拡大していると言えないだろうか(1982年に放送法が改正されてNHKは営利事業への出資が認められるようになった)。
NHK・EテレやNHKスペシャルなど、さすが公共放送といった番組もあるが、私見で言わせていただければ、8割方は公共的なものではない、無くても困らない番組である。
公共の福祉とは何かを再度考えて、必要不可欠なものに絞った上で、月500~1000円程の受信料を徴収し、バラエティ番組や旅番組、グルメ番組など民放でやっている番組は全くやめるか、従業員の雇用を考えるなら、民営化すればいいと思う。
どうせ、中立性は保てないので、思う存分好きな番組作りをして、それらを求める視聴者から堂々と視聴料を取ったらいいと思う。当然スクランブル放送の対象であるから、お金を払わない人は観れないし、電波を垂れ流しておいて視聴料を強制徴収することもない。
現在、電波オークション導入の検討が政府の規制改革推進会議で行われている。導入されれば、既得権に胡坐をかいている放送各社は自由競争にさらされる。電波を購入すれば、誰でも自由に意見を発信できるようになる。それを視聴者が選別すればいいだけの話である。
GHQ占領下の昭和25年に施行された放送法や電波法は技術の進歩、社会の変化から明らかに後れを取っており、時代錯誤の法令になっている。この法令の改革は国会の仕事である。これが票につながるとわかれば、国家議員は必ず動く。選挙で落ちたらただの人。民意を示すことが自由と民主主義を守る唯一の方法である。