岸田首相の経済対策が袋叩きになっている。物価高対策として所得税と住民税の減税や低所得者向けの給付を謳い、賃上げや国内投資の促進を盛り込んではいるものの、選挙前対策のバラマキと批判されて元気も自信も無くしているように見える。先日の衆議院本会議での所信表明演説で「経済、経済、経済!」と声高に連呼して叫んだ姿は支持率アップを期待してのものではあったろうが、却ってその必死さが的外れ感を浮かび上がらせていたように思う。確かに物価高対策は多くの国民が望んでいることではあるが、一国の首相という立場であれば、他にも安全保障強化や社会保障制度の在り方や国家財政健全化といった中期的課題も着実に対応していかなければならない。3兆4千億円の税収増を国民に還元するというのがそもそも筋がおかしい。ようやく税収増のモーメンタムになったのに、それを国民にお返しするというのは政治の放棄にも感じられる。そもそも税金は個人個人では対応できない国家レベルのインフラ整備に使われるものであるはずで、国民に社会インフラとして還元すべきものである。補助金や給付金を否定するものではないが、税制や手続きが複雑になり役所の負担が増すばかりか、税理士や社労士でもなければ一般国民は様々な制度の詳細を知るすべもなく、知ったものだけがお得で、知らないものは残念でしたのような政策はおかしい。コロナ禍でも多くの予算計上がされたが、未予算の予算が多く存在するばかりか会計検査院に「無駄遣い」と指摘される始末である。
アベノミクスによって多少は日本経済は浮揚したものの、多くの国民に暮らし向きが良くなったという実感はほとんどないであろう。物価は上がって可処分所得が増えないからである。株価が上がったり、一等地の土地建物価格が上がったりといった恩恵を享受した層もあるだろうが、それは一部の限られた富裕層であり、所得格差が広がる要因にもなったと思われる。アベノミクスで最後まで苦戦したのが成長戦略である。失われた30年と言われるように日本経済が低迷している間に、中国は飛躍的な成長を遂げてGDP世界No.2の座を確固たるものにした。円安の影響があるとは言うものの日本の人口の2/3であるドイツにもドルベースで抜かれてしまった。次に世界最大の人口を抱える若い大国インドが急成長をしていくことが予想され、このままでは日本の経済における世界相対位置は低下し、影が薄くなっていく一方である。一部の素材や工作機械や製造設備においてはまだ競争力を保っている業種もあるが、日本の高度経済成長を支えた自動車・電機・鉄鋼・繊維に代わる成長産業の育成が焦眉の急である。そのことに関する明確な納得感のある言及が岸田首相から聞けないことが、安心して現政権に任せたいという気持ちにさせないのである。
日本の人口は1966年に1億人を突破し、2008年のピーク1億2800万人に達したあと、減少を続けている。1966年には65歳以上のいわゆる高齢者の割合は6.6%であったが、2020年にはその割合が28.4%にまで上昇している。今の人口推計によると2056年には日本の総人口は1億人を割り込み、その時点での高齢化率は37.6%と予測されている。私も近々65歳の誕生日を迎えるので、高齢者の仲間入りを果たすことになるが、昔の65歳と今の65歳は医療や生活の質の向上によりグンと若さを保つことができている。とはいうものの80歳を過ぎた頃はどうだろう。そもそも80歳まで生きているかどうかも定かではないが、人口推計によると2050年には80歳以上の老人は15.4%に達すると予測されており、100歳以上は47万人と現在の9万人の5倍に増加する見込みである。
岸田首相は「異次元の少子化対策」を掲げているが、これもまた児童手当拡充や子育て支援の新給付制度などバラマキ感満載である。社会で子育てができる環境を作ることが最重要であることが理解されていない。少子化対策の効果が産業力強化に結び付くにはかなり時間がかかり、喫緊の日本経済産業力強化の切り札にはなり得ない。世界中の国がいずれは高齢化国家となっていく中において、最先端を走っている日本の動向は各国から注視されているのである。もっとシニアの活用策を考えるべきである。比較的裕福で、心身ともに健康なシニアは報酬をそれほど気にすることもなく社会貢献・社会還元したいと思っている。たとえば、日本で学びたい、働きたい外国人に日本語を教えるとか、日本社会に馴染めるように生活の支援をすることもできよう。そういったボランティアをするにあたって、資格が必要だとか、手続きが煩雑だとか、そういったハードルを低くする手立てはあると思う。若くてチャレンジ精神に富んだ人達をそういった形で社会がサポートしていくことが必要である。核家族化が進んだ都会でも、子育てベテランであるシニア層に子供を預けることができれば、子育て世代の女性も安心して仕事に打ち込めるのはないだろうか。
政治学を学んだものとして、ずっと若者の投票率の低さに将来を憂いてきた。増え続ける高齢者の高投票率がこのまま推移し、若者の投票率が低下することが続けば、政治家は高齢者によって選ばれ、高齢者のための政策が若者への政策より優先する事態に陥る。既にその傾向が見られる。いわゆる「シルバー・デモクラシー」の危うさである。老人の老人による老人のための政治が将来にとって明るいはずがない。最悪は「老人が戦争を引き起こし、若者が戦場に送り込まれる」といったことにもなりかねないのである。しかし、少子化が継続し、若者が相対的に増えないとなれば、いくら若者全員が投票に行ったところで、数的には老人パワーに屈してしまうことになるのではないか。
政治の分野では男女間格差をジェンダー・クオータ制によって、その是正を図っている国も少なくない。既得権サイドからは悪平等と非難する向きもあるが、世代間格差である若者と老人の比率は天変地異が起こらない限り逆転することはないだろう。世代間格差を是正するジェネレーション・クオータ制を導入する必要も検討すべき課題であろう。0歳の赤ちゃんも含めて全国民に投票権を与え、判断力がない子供の選挙権を親が責任をもって行使して世代間格差を補うといった施策も考えられるのではないか。私はこれまでクオータ制には比較的否定的ではあったが、最近あるコラムで「ある一定の割合で議席を女性に割り振るのは、優秀な女性を議会に送り込むということではなく、無能な男性議員を排除するために行うのである」という文章を読み妙に納得してしまった。政治においてだけでなく経済の分野においても経営者の「老害」が取り沙汰されている。いくつになっても頭も体もすっきりしている人は確かにいるが、ある年齢で一線から退くことを制度化する意味は十分にあると思われる。先人の知恵によって定められた制度を自身の政治的寿命を延ばすために廃止した習近平やプーチンを見ても、その害はその益を軽々と凌駕するものであることは明らかと言えよう。
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