覇道と王道

2020年4月13日 at 5:19 午後

覇道とは為政者が徳によらずして武力や権謀を以って行う支配の仕方である。王道とはこれに反して、統治するに仁徳をもってする政治の仕方である。前者は韓非子などの法家の思想で、法治主義である。中国統一を果たした始皇帝も、宰相として李斯を登用して法家思想による統治を実施したとされる。一方、後者は孔子を開祖として戦国期の孟子(性善説)によって形作られた儒家の考え方で徳治主義である。滝沢馬琴(曲亭馬琴)が著した「南総里見八犬伝」で「犬」の字を含む名字を持つ八犬士が、それぞれに仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある数珠の玉を持っていたが、まさにこれらが儒教の徳性である。
中国の各王朝は表向きはつねに儒家を尊び、孔子を聖人とし、「礼」(道徳的な規範)をもって自らを律する儒教を政治道徳の鑑としてきたが、実際の政治の運営は法家の思想を手引きとして行われてきた面が大きい(もっとも今の中華人民共和国は法治主義というより、党治体制であるが)。儒家が表の、法家が裏の思想と言われることもあるが、歴史的には儒家の思想が荀子によって変遷し、それが韓非に引き継がれていったという説が定説となっている。つまり孔子が生きた春秋時代は貴族制であり、大貴族である卿が権力を握って治めていた比較的安定していた時代から、戦国時代に入り、大貴族に代わって君主が大きな権力をもつ「専制君主制」へ移行したあたりから、儒家でありながら孔子や孟子を批判した荀子(性悪説)が強調したのは、善になるためには「人為」すなわち教育が必要、人間は生涯学び続けることによって善に至らなければならないと説いたのである。
世界中に数百あると言われる孔子学院は孔子の名を冠してはいるものの、儒学教育機関ではなく、中国語語学教育機関である。アメリカやカナダでは「設置先の大学などの教育機関の学問の自由が阻害されている」「中国共産党政府の宣伝組織だ」「孔子学院が世界の民心掌握のための中国政府の試みの一部である」などと多くの懸念や批判が表明されている。
儒教では身分秩序は固定的なものとされ、秩序の維持の基礎となっているのは「礼」の道である。身分の高いものは君主に至るまですべて徳があり、高い地位は高い道徳を前提として、下々の者がそれをとやかく批判してはならないとされる。天子は天下を愛し、諸侯は領民を愛し、大夫は官職を愛し、士はその家を愛すという徳治主義である。一方、韓非子の人間観は、天子も諸侯も大夫も士(人民)も、みな同じ利己心を備えた、権勢欲に駆り立てられた醜悪な存在として設定されている。臣下たるものは隙あらば君主を収奪して己が勢力を伸ばそうとする存在であり、道徳というようなものの入る余地がないとする。よって、「法」により人間の欲望を制御し、裁量余地のない信賞必罰の厳正な統治をすることで世は治まると主張するのである。しかしながら、始皇帝統一後の秦がわずか14年で滅んでしまったのは、この法治主義という名の恐怖政治の結果と無縁ではないだろう。
日本に儒教が伝わってきたのは5世紀であるが、日本人に浸透したのは江戸幕府による朱子学(南宋の時代に朱熹がまとめあげた儒学の一派)の奨励が大きいであろう。今でも「子は親や先祖を敬うもの」という道徳観念はほとんどの人の心に息づいているはずである。一方、法家の思想はあまり日本には受け入れられなかったように思える。わずかに、安井息軒という江戸時代後期の儒者が管子(法家思想の元祖と言われる管仲に仮託して書かれた法家の書物。管仲の著書だと伝えられているが、篇によって思想や言い回しが異なり著者は複数居るとされる)を高く評価したとされるが、一般の日本人にその思想は浸透していない。大日本国憲法はドイツ人顧問のロエスレルらの助言を得て、伊藤博文や井上毅等がプロイセンの法治主義を基礎として作成したもので、法家由来のものではない。逆に言えば、太平の江戸時代においては、大岡裁きに代表されるように法令に公正でありながらも人情味のある裁定が巷で話題になるような、およそ厳正な法治国家ではなかったのではなかろうか。
一般的に言って、思想的には孔子の仁愛の方が耳障りが良いし、それで世が治まるならそれに越したことはないと思う人が多数であろう。しかし、韓非子は言う「論客たちは口を開けば、仁義を行うことが人君の道であり、そうすれば優れた王道が実現できると言うが、いたずらに高潔ぶってみせ、実効の伴わぬことばかりしている連中が多い。政治が混乱から抜け出せないのはなぜか。民衆に人気があるものと、政治指導者の歓迎するものとが一致して、それが「乱国の術なり」と、ポピュリズムや衆愚政治を徹底的に批判している。
続けて、韓非子の言に耳を傾けてみよう。「民衆というものは、もともと権勢には服従するけれども、正義に従う気持ちを持つことのできるものは少ない。孔子は天下の聖人である。しかし、孔子は詩書礼楽の四教をもって弟子を教えたが、三千人の弟子の中で六経に通じたのは72人のみであったという。思うに、本気で正義を実行するということは事ほど困難なことである」。韓非子は、王道にだけ政治の道を期待するのは危険であり邪道ですらあると主張する。孔子そのものを否定するものではないが、政治と道徳は別であるということを強調しているのである。
コロナ災禍は先が未だに見えない。「ロックダウン」という言葉が海外から伝えられた。日本も緊急事態宣言が発令されたが、ロックダウンと違って強制力はなく罰則もない。これでどうやって8割の接触を減らすのかと一部では喧しい。法体系の違いがある。日本の法体系は良くも悪しくも人の行動の自由を最大限尊重する。国民に自粛をひたすら「お願い」する形である。PCR検査にしても他国とは違うやり方である。中国の隣国にありながら、未だに一部中国人(在住者の家族)を受け入れているにもかかわらず*、死亡者が他国より明らかに少ないという結果は認めるべきである。国は王道だけでは治まらず、覇道だけでも治まらない。これまでの歴史を通じて、各国なりの感染予防対策を行っている。厳正な予防対策の副作用も考慮して決断している。そこには休業補償や雇用安定対策も当然含まれる。そしてこれらは民主主義国家であれば、国民が選んだ政治家の判断であり仕事である。結果失敗したら、それら政治家を選んだ自らを恨むしかない。法に頼り過ぎず、徳をもって治世を行うには、荀子が説くところの国民の民度の高さが求められる。民度が高くなれば孔子の道に、低ければ韓非子の道に引き寄せられていく。全体主義国家では国民の意思とは関係なく、一方的に対策が講じられる。スピードは速いが、失敗すると底なしのダメージを受けることになる。それぞれの国家の王道と覇道のバランスの結果がコロナ災禍が落ち着いたところで判明することになる。

*http://www.moj.go.jp/content/001318291.pdf