バルト三国の歴史(ヒトラーとスターリンの間で)

2020年5月2日 at 9:27 午前

バルト三国はバルト海の東岸、フィンランドの南に南北に並ぶ3つの国で、面積は日本の半分にも満たない小国群を指す。北から順にエストニア・ラトビア・リトアニアと、それぞれ公用語を持つ独立国家であるが、その自立への道のりは苦難そのものであった。今では中世ヨーロッパの歴史的建築物が保護されている世界遺産として観光地としても有名である。エストニアのタリン歴史地区、ラトビアのリガ歴史地区、リトアニアのヴィルニュス歴史地区それぞれの首都の美しい街並みは中世ヨーロッパに紛れ込んだような感覚に誘ってくれる。
バルト三国は18世紀まではロシア帝国の支配下にあったが、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、リトアニアとラトビアの南部は翌年ドイツ軍に占領される。その後、1917年ロシア革命に成功したレーニン革命政権が民族自決を掲げると、その影響を受けてエストニア、ラトビア北部においてボリシェヴィキ武装蜂起が起こり急速に独立の機運が高まった。しかし、翌1918年3月にソヴィエト政府がドイツ等中央同盟国との間で締結したブレスト=リトフスク講話条約において、ソヴィエトは大戦からの離脱を表明した。その折にソヴィエトはウクライナを失いたくなかったことから、バルト全域を事実上ドイツに割譲し、この地域の領土を放棄することになる。その年の11月の大戦終結を受けて、漸く民族自決権を掲げてリトアニアとラトビアが独立。1920年にはエストニアも独立を果たすことができた。
そして、バルト三国はソヴィエトと講和条約を結び、1921年には国際連盟加盟、1924年バルト三国は最終的な侵略者に対する相互防衛協定に調印し国防を図った。1934年にはスターリン指導下のソ連にこの先10年間、1944年までバルト三国を攻撃しないことを誓約させ、平和への歩みを進めていった。

ところが第一次世界大戦に敗北したドイツは、ベルサイユ講和条約によって屈辱的な扱いを受け、領土は縮小され、植民地は戦勝国のものになり、軍備は制限され、何より莫大な賠償金が課せられた。これによりドイツ国内経済は破綻状態になり、国民の生活は長期に渡り混乱した。さらに1929年に起こった世界恐慌が追い打ちをかけ、瀕死の状態となってしまった。ここに登場したのがご存知のヒトラーである。ヒトラーはドイツ民族の優秀さを説き、失っていた自信と誇りを取り戻すための政策を矢継ぎ早に繰り出す。
具体的にはベルサイユ条約の破棄、植民地の再配分、ユダヤ人の排斥を唱え、当時の国際秩序に挑戦し、他民族を攻撃する手法を取り大衆誘導に成功した。表面的には社会主義政策を掲げながら、国民生活の安定を約束する戦法を取った。そして、一般大衆だけでなく、ナチス同様に政府への不満を吸収していた共産党の台頭を恐れた資本家や軍部をも取り込み、ナチス支援に引き込み、結果ヒトラーの台頭を許すことになったと言われている。ヒトラーはこうして1933年に政権の座に就き、周辺各国に譲歩を迫り、その軋轢が1939年のポーランド侵攻による第二次世界大戦へのトリガーとなった。

実はポーランド侵攻に先立つ1週間前にソ連とドイツは期間10年の独ソ不可侵条約に調印していた。大戦終了後に明らかになったこの条約には秘密議定書が含まれており、その条項によるとヨーロッパ北部ではフィンランド、バルト三国はソ連の勢力圏に割り当てられていた。1940年にはソ連が密約通りにバルト三国に侵攻しソ連への併合を果たす。ソ連はバルト三国に対し、軍事施設の建設、数万人規模の赤軍の駐留、シベリアへの大量強制追放などソ連邦への組み込みを強めることとなる。

ところが1941年6月独ソ不可侵条約を破棄したドイツが突如、ソ連に侵攻しバルト三国を再び占領してしまう。最初リトアニア人、ラトビア人およびエストニア人は、ドイツがソ連の過酷な支配から彼らを解放するものであると考えて協力を惜しまなかった。赤軍の進軍に対抗するために志願し結成された領土防衛軍が奮戦している事実がある。その間、バルト三国のユダヤ人の多くがホロコーストの犠牲(16~17万人言われ、特にリトアニアでの大量虐殺率は突出している)となり、逃亡を助けた杉浦千畝の逸話も今は良く知られているところである。しかし、1944年赤軍進攻によりバルト三国は再びソヴィエト化され、シベリアへ10万人以上の強制移住を余儀なくされている。

ペレストロイカ(ソ連政治体制再構築)の中で1985年にソ連大統領に就任したゴルバチョフがグラスノスチ(情報公開)を呼びかけ、「歴史の見直し」が行われた。その際、ソ連は独ソ不可侵条約時の秘密議定書によるバルト三国併合を違法なものであったと認め、1991年のソ連崩壊によりバルト三国はソ連からの独立回復を果たすのである。
こうしてバルト三国の近代史を振り返ると、18世紀はロシア帝国下、第一次世界大戦時には8か月間ドイツ帝国下、終戦により独立を果たすものの、第二次世界大戦勃発により1941年から1944年までは再びドイツによって、1944年から1991年まではまた再びソ連によって占領されていたことになる。一般に第二次世界大戦の帰結は「民主主義によるファシズムへの勝利」と結論付けられているが、バルト三国のそれは、ソ連とドイツに継起的に占領・共産化されてきた歴史である。よってバルト三国はナチのホロコーストと共産革命のジェノサイドふたつの全体主義犯罪を厳しく告発している。ヨーロッパにおける第二次世界大戦には4つの記憶レジームがあると言われる。ひとつは前述したバルト三国のそれであるが、あとの3つは英米による「ファシズムへの勝利を誇る自己賛美(ノルマンディ上陸・ドイツ降伏)」、独による「アウシュビッツに代表されるホロコーストの凄惨な記憶(悔恨と謝罪の念)」、ソ連・東欧による「反ファシズム戦争としての赤軍やパルチザン・ソ連市民の莫大な犠牲と貢献を称える『大祖国戦争』史観(ヨーロッパの解放者)」である。

現代は大量破壊兵器の開発により、事実上戦争は政治の延長たり得なくなってきており、複雑化・小型化・局地化の様相を呈している。一方で、現下の新型コロナウイルス感染拡大で世界経済がかくも脆弱であることが明らかになってしまったことは生物兵器への悪魔の誘いに何人も屈しないと言い切れない状況を生み出してしまったとも言える。生物兵器は理論上は禁止されているが、「裏切り者」が出ないという保証が担保できないことは上述の歴史が証明している。利害対立における最終手段としての戦争手段が今後も様々に講じられていくにせよ、それぞれの国の「正義」の名において人類を裁く戦争を行えば、壊滅的な破壊をもたらしてしまうことも歴史が証明していることである。全人類の共通の敵とも言える新型コロナウイルスとの闘いにおいてくらいは、全世界が英知を結集できないものかと切願するのはお人よしすぎるであろうか。