条約改正への道のり

2020年12月5日 at 11:30 AM

日本は諸外国からの開国を求められて1858年に米露蘭英仏とつぎつぎ通商条約を締結した。遡ること1854年にはペリー提督率いる黒船の圧力に屈し、補給の利便性を重視した日米和親条約(片務的最恵国待遇)を結ばざるを得なくなった。その後、下田に駐在したハリスから通商条約の締結を強く求められ、老中堀田正睦(まさよし)は列強との戦争を避けるために孝明天皇からの勅許を得ようとするが失敗。1858年にはアロー戦争(第二次アヘン戦争)で清が英仏に敗れ、その二の舞になってはたまらんと大老井伊直弼は勅許を得ぬまま日米修好通商条約を結ぶこととなる。井伊は2年後桜田門外の変で攘夷派に暗殺されたが、治外法権(磔や打首を目撃した外国人がこれを主張するのは無理からぬこと)、関税自主権、先の片務的最恵国待遇といった不平等条約が長く残ることとなった。

一度締結した不平等条約を改正する道のりは並大抵のことではなかった。明治維新を経て岩倉具視外務卿等が条約の期限切れを前に1872年に、条約改正に必要な近代国家への足掛かりを目的に欧米へ視察を行った。各国の元首に国書を手渡したものの、条約改正の糸口は掴めなかった。逆に欧米各国の発展ぶりにカルチャーショックを受けた岩倉は今のような日本ではとても条約改正は程遠いと感じ、まずは鉄道敷設や欧米の政治・経済制度を導入することが不可欠であると考えるに至る。

翌1873年外務卿となった寺島宗則は関税自主権回復を目指すも、へスペリア号事件(コレラ流行時に清から直行してきたドイツ船が日本の検疫規則に従わなかった)などがあり国民感情の高まりに頓挫。その後を継いだ井上薫外務卿が不平等解消すべしと高まる国論を受けて条約改正の交渉に臨んだものの、ノルマントン号事件(1886年横浜港から神戸港に向かった英貨物船が暴風雨を受けて和歌山沖合で座礁。船長以下26名の外国人は救命ボートで脱出し沿岸漁民に保護されたが、日本人乗客25名は取り残され全員溺死。船長無罪)などにより国民感情が爆発。東京に外国団を集めて夜会を開くなど鹿鳴館に代表される欧化政策も税金の無駄遣いと自由民権運動を背景にする民衆に糾弾され井上は辞任。

その後、外相に就任した大隈重信は方針を各国との個別交渉に切りかえて挑む。領事裁判権を撤廃するのと引き換えに、外国人に対する裁判を担当する外国人司法官を任用する案を政府に提案したが、政府内で外人司法官は憲法違反とする反論に加え、その動きを知った民衆から反発を買い、国家主義者の爆弾テロを受け右脚大腿下1/3を失い辞職を余儀なくされた。

大日本帝国憲法発布の1889年に外務大臣に就任した青木周蔵は領事裁判権撤廃に向けて奮闘したが、1891年大津事件(露皇太子ニコライを警備に当たっていた警察官が斬りつけ無期懲役の判決)によって引責辞任となり、またしても交渉は中断を余儀なくされる。しかし、この間に第一回衆議院議員総選挙が行われ、帝国議会が開設され、民法・商法が公布されたことは日本の国家近代化が進んでいることを内外に示すことができた期間と言える。青木改正案を引き継いだ榎本武揚外相はポルトガルが経費削減のため総領事を廃止したのを機に同国の領事裁判権を撤廃することにようやく成功した。

1894年に外相に就任した陸奥宗光は英国との交渉において日英通商航海条約を結び、日本の悲願だった領事裁判権撤廃(一方、外国人に対する居住・旅行・外出の制限を撤廃する内地開放を1899年から認めた)を勝ち取ることができた。英の目的は南下するロシアへの対抗を日本の軍事力に期待したものであった。片務的な最恵国待遇も相互的に改正され、一部ではあるが関税自主権も認められることとなった。これを弾みにアメリカをはじめ14か国と同様の調印を行い、法権においてやっと欧米列強と対等な関係に入ることができた画期的な年と言える。日本はこの年に日清戦争に突入するが、条約改正を通じた英との関係強化が後押しとなったことは十分考えられよう。

陸奥宗光が果たした条約改正は陸奥条約とも言われるが、実は実務において貢献したのは元青木外相であった。陸奥は青木を駐英大使として派遣し、交渉に当たらせていたのである。この条約の有効期限は12年、そして12年後の1911年小村壽太郎外相によって新日米通商航海条約調印が行われ、完全なる関税自主権を回復することとなる。

不平等条約締結から53年、条約改正に挑み始めてから39年目の悲願達成である。こうして条約改正の道のりを振り返ってみると、目的に向けて諦めることなく、そして間断なく準備し努力しタイミングを見計らって交渉してきたことの重要さを教えられる。今、日本における主な外交課題は北朝鮮による拉致問題・ロケット問題、領土問題で言えば韓国との竹島問題・ロシアとの北方領土問題、実効支配している尖閣諸島への中国の脅威などがある。どれを取ってみても一筋縄ではいかない案件ばかりである。拉致問題も日本の警戒心や危機意識の低さ(1970年代から拉致が行われてきたが、金正日が認めたのは2002年)によるものであるし、竹島も勝手な李承晩ライン(1952年サンフランシスコ平和条約発効の3か月前)に手も足も出ない国力(占領下)の弱さによる。北方領土は終戦間際のどさくさで奪われてしまった(1945年8月28日から9月5日にかけて、ソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄して北方領土に上陸し占領)と多くの日本人は思っていることであろう。日本人においては8月15日(ポツダム宣言受諾の翌日の玉音放送による)が終戦となっているが、世界においては9月2日が終戦日の一般的理解である。つまり米戦艦ミズーリ号の上で日本が降伏文書に調印した日である(米英仏加露など)。中国や旧ソ連は9月3日、それまでは戦争が続いていたと解釈する。たとえそれが後付け理論であっても反論反撃する力がなければ、現実を変えることはできない。正論だけでは通用しない、これが国際政治の現実である。