「命懸け」が今の日本にはない

2021年1月1日 at 11:01 AM

2020年は随分と窮屈な一年でしたね。言うまでもなくコロナ禍が理由ですが、家で物思いにふける時間も例年になく多かったと思います。小学生の卒業アルバムの寄せ書きに「世界平和」と書いたことが突然思い出されました。小学6年生でしたから無邪気に書いたものと思いますが、人生62年生きてきて、それぞれが一断面を表していると理解はしていても、殺伐とした世の中を垣間見るにつけ、また新たに「世界平和」を想う2021年の幕開けの日です。
昨年は子供たちの間でのみならず一部の大人たちにも「鬼滅の刃」に熱狂した人々が多かったようです。「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」は11週連続首位で映画興収324億円を突破し歴代1位となりました。その映画の主題歌であるLiSA「炎」が日本レコード大賞を受賞しました。私はほとんど話の中身は知らないのですが、聞きかじったところでは、「少年漫画のヒット作に共通している点として『友情』『努力』『家族』『恋愛』『勝負』などの要素が鬼滅の刃でもストーリーの随所に盛り込まれている。ただ、鬼滅の刃がほかの作品と異なる点は、『死』に向き合うシーンが非常に多い。ストーリーにおいて重要な役割を果たすキャラクターが次々と死んでいき、生きる価値を読者に考えさせる。キャラクターの死を含め、緊張と緩和が目まぐるしく繰り返されることも、読者をどっぷり鬼滅の刃の世界観にのめり込ませることにつながっている」(岡本一道/金融経済ジャーナリスト)と評されている。若者の間で一部流行っていると言われるサバイバルゲームも、コスプレ感覚で迷彩服を身にまとい、エアガンを撃ち合うという行為は、「敵に撃たれるのではないか」というスリルとドキドキ感が味わえ、この平和な日本で非日常空間を体験することによってストレス解消しているとも説明できそうです。
ちなみに歴代ゲームソフトのTop10を調べてみると、ポケモン、マリオ、どうぶつの森の3つで占められており、こちらは随分平和な世界のようですが、マリオカートなどはかなり競争心を掻き立てるゲームと言えるのかもしれません。

個人的には珍しくNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」を観続けて楽しんでいます。本能寺の変を起こした明智光秀を通して描かれる戦国絵巻ですが、もちろん皆その結末は知っています。ですからスリルやドキドキ感が得られるわけではありません。その時代の本能寺の変に至る経緯や光秀の心象描写の随所にヒリヒリした感覚を感じることができます。あちらを立てればこちらが立たぬ。そして戦国時代ですからその判断に己の命だけでなく、愛する家族・一族郎党の生死がかかってくる。自分だったらどうするかを考えながら役者と一体化してドラマを楽しむ人も少なくないでしょう。歴史は基本的には勝者の遺したものですから、必ずしも真実が現代に伝わっているとは限りません。歴史そのものが白黒で判定できるものはほとんどなく全てがグレーであると言っても過言ではないでしょう。そしてそれぞれの決断が他者の判断に影響を与え、次の判断にも影響を与える。歴史によって紡ぎ出されたドラマが現代に引き継がれていると思うのはロマンティスト過ぎるでしょうか。朝廷と幕府と有力大名の三つ巴の力学は観ていて非常に面白いものがあります。日本はその歴史の大河において、長い間、天皇という「権威」と政権という「権力」を微妙な距離感とバランス感覚で両立安定させてきたと思います。

言うまでもなく平和であることに越したことはありません。しかし、人間の中には闘争心なるものが存在し、勝負に勝利することによって大きな高揚感と自己確認をすることができます。リチャード・ランガム著「善と悪のパラドックス」では「協力的で思いやりがありながら、同時に残忍で攻撃的な人間(ホモ・サピエンス)の特性」がどのように育まれていったのかを独自の視点でひも解いています。チンパンジーは元々カッとなって暴力をふるう激情タイプの代表格だそうですが、メスたちが連帯してオスの攻撃性を封じ込めることによって、扱いにくい個体が淘汰されていったとする説です。結果ボノボ(哺乳綱霊長目ヒト科チンパンジー属)などは従順で、小型化し、平たい顔、性差の縮小、成長の遅れといった特徴が見られ、平和な社会生活を営むに至ったと解説しています。これらは現代社会の特徴とも多くの点で重なり合っているようにも思え面白い指摘です。

人間はチンパンジーに代表される反応的攻撃性から能動的攻撃性のタイプに発達を遂げ、計画的で冷静沈着に暴力を実行するタイプになり、特に言語能力の獲得に伴い周到な奇襲が普遍化するに至ったとしています。いじめはいつの時代にもありましたが、昨今の陰湿さはこの点を表しているのかもしれません。そして、人間は内集団では協調的に振る舞うが、外集団に対しては差別的で攻撃的になっているという主張は多くの人が共感する部分でしょう。日本で言う「うちでは」と「あっちは」というような内と外の区別は元来の日本文化と思われるほど執拗に日本という国に浸透沈着していると思います。世界を眺めてみても、あちこちで内戦が頻発し、宗派同士の争いが後を絶たず、人種差別が先鋭化してきた状況を見るとその説得力には相当なものがあります。国連開発計画が掲げているSDGsも「Exclusion」から「Inclusion」というキャッチフレーズで誰一人取り残さない「全内化」を呼び掛けていますが、何やらそこにお金(ビジネス)の匂いがしたり、人間の内なる本音を覗いてみればそうそう美辞麗句ばかりで済まないことは明らかです。

日本人はよく平和ボケと言われます。個人的にはこのままでは尖閣は中国に取られちゃうよ、数十年後には日本は中国の一省になってしまうよ、と危機感が非常に高いのですが、未だに日本国には自国を守る意欲も姿勢も体制も大幅に欠如しているようにしか思えません。日本人は決して好戦的な民族ではないと思うし、絶大な戦力を持つべきとも思いません。リアルとバーチャルの命懸けでバランスを取るのと同様に、現実の守りと攻めのバランスを取っておくべきです。毎日ヒリヒリした人生を歩むのは不幸でしょう。しかし、毎日ぼんやり安寧に過ごしているのでは大切な人を守ることはできません。バーチャルの世界で留飲を下げることができたとしても現実の世界が消えてなくなるわけではありません。新年にあたって健全なバランスとは何なのか改めて考えていますが、人間が本当に真剣になるのは「命懸け」の状況に陥った時だけなのかもしれません。しかし、そういった場面が訪れた時には時既に遅しとなることも多くの歴史が教えてくれていることです。