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企業理念

2016年1月25日 at 11:47 AM

どこで見聞きしたか記憶は定かでないが、私のセミナーでの余談でこんなことを話すことがある。
転職面談で「あなたから質問はありますか?」と訊かれたら、この3つを質問して面接官がすべてよどみなく答えられたら、是非その会社にお入りなさいという話である。
質問⓵「御社のお得意先はどちらですか?」-面接官によっては「そんなことも調べずに面接に来たのか」とNagativeに思われそうであるが、そこを押して訊いてみよう。判断基準は「トヨタです、ホンダです」と顧客を呼び捨てにしていたとしたら、その会社は顧客志向の会社とは言い難いです。「トヨタさんです。ホンダさんです」と「さん」を付けて顧客を呼んでいるのであれば、従業員に顧客志向が浸透している良い会社と思って差し支えないでしょう。海外の場合「さん」という英語の呼称は無いので、この質問は機能しません。
質問⓶「御社の企業理念を教えてください」-この質問も同様に「そのくらい調べて来いよ」という項目かもわかりませんが、案外「企業理念」は従業員に浸透していないものです。会社によっては企業理念を持っていない会社もありますし、とても覚えきれないような長いものや、、網羅的で項目が多すぎるものも少なくありません。企業理念とは、わかりやすく言えば「我々は何のためにこの会社に集まっているのか?」つまり、事業遂行における基本的な価値観と目的意識を表現しているものです。従業員の目線で考えれば、日々の業務を行う判断基準になるもので、2択であれ、3択であれ、この企業理念を基に業務上の判断を行うという道標のようなものです。これが従業員に浸透していないとなれば、企業全体のベクトルが合うはずもなく、行き当たりばったりな非効率な企業となってしまいます。古くは毎朝「社是・社訓」を唱える会社も多くありましたが、決して意味のない行為ではありません。
質問⓷「あなたは毎日ルンルン・ワクワクした気持ちで会社に来ていますか?」-かなり不躾な質問ではありますが、これをYesと答えられる企業はどれほどあるでしょうか。かなり少数だとは思いますが、必ず存在しています。その会社の従業員の目は例外なく輝いています。いわゆるMotivationの高い会社ですが、個々の能力や可能性が十二分に発揮できている会社と言えましょう。

今日は、⓶の企業理念について書きたいと思います。日本では一流企業の代名詞とも言えるトヨタは1935年に豊田佐吉の考え方を「豊田綱領」として5つにまとめました。「上下一致、至誠業務に服し産業報国の実を挙ぐべし」や「研究と創造に心を致し常に時流に先んずべし」などは面目躍如たるものがあります。1992年にグローバルビジネスに合わせた形に変えていますが、却って凡庸な感じになってしまったと感じます。http://www.toyota.co.jp/jpn/company/vision/philosophy/

ソニーはHP上で創業者の理念「設立趣意書」を紹介してはありますが、今の企業理念は不明です。CSRの考え方や環境への取り組みビジョンは明記してありますが、断片的で、従業員の向かうべき指針は残念ながら見当たりません。デザイン・フィロソフィーのサイトで「人のやらないことをやる、つねに一歩先んずるという創業当初からの企業理念のもと、」と書いてあるところをみると創業当初の設立趣意書を拠り所にしているようですが、70年前と今では全くと言っていいほど状況は変わっているので、改めて明確にした方が良いでしょう。ソニー迷走の原因の一端はここにもありそうです。

OLC(オリエンタルランド~東京ディズニーランド運営母体)の企業使命は「自由でみずみずしい発想を原動力に、すばらしい夢と感動 ひととしての喜び そしてやすらぎを提供します」というものですが、CSR方針として掲げている「未来をひらく子どもたちの笑顔」や「お客様と社会にひろがるハピネス」の方がピンときますね。東日本大震災の時のお客様への対応は語り草になっていますが、怯えている子どもたちに何をすれば「笑顔」になってもらえるかと現場で考えて、お道化て見せたり、ぬいぐるみをあげたり、断熱シートを配ったりといった現場判断が柔軟かつ迅速にできたと言われています。

外国企業の例を挙げましょう。「Googleが発見した10の事実」のひとつに「悪事を働かなくても金儲けはできる」というのがあります。「Don’t be Evil(悪に染まるな!)」というのも社内でよく言われるそうですが、Googleにとってではなく、ユーザーにとって最善の取り組みに専念すれば、「結果」は自然に付いてくるという理念を表しています。 Appleは「improve the lives of millions of people through technology」(テクノロジーを介して何百万人もの人の生活を変える)。Steve Jobsの信念の基、まさに体現している通りです。

残念な企業理念の例を挙げましょう。サイバーエージェントのビジョンは「21世紀を代表する会社を創る」。何をするかが一切語られていませんから、従業員は何をするべきか、してはいけないかが全然わからないと思います。日本マクドナルドホールディングスの経営理念の最初に掲げている会社経営の基本方針は「ハンバーガービジネスで培った資産を有効活用し、経営の効率化と機動性の強化を通して企業価値の向上を図ることにより、長期的かつ安定的なグループ企業の成長を図りたいと考えております」。顧客視点は全くありません。これでは今の凋落はさもありなんといったところでしょうか。

企業理念と並列的にあるのが、ミッション(使命)であり、企業の果たすべき役割が明示されます。そして、何年後にはどうなっている、こうありたいというような目標というべきビジョンがあり、その実現の方策としての企業戦略につながります。企業のドメインが大きくなると企業理念と従業員の日々の仕事との間が乖離していってしまうので、企業によっては「行動指針」というようなものも作成します。あれをしてはいけない、これをしてはいけないというようなコンプライアンス視点で語られることの多い行動指針では「校則」のように従業員の行動を縛ってしまうようなものも多く見受けられます。冒頭のワクワク感を醸成するためにはベクトルを外向きにするような行動指針が望ましいですね。

そういった観点で、従業員に最もわかりやすいと思ったのは、電通の4代目吉田社長が1951年に作った「鬼十則(行動指針)」です。 1、仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。 2、仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。 3、大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。 4、難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。 5、取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。 6、周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。 7、計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。 8、自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。 9、頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。 10、摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。

エネルギーの湧いてくる行動指針です。
ソニーにも大曾根部隊ではソニー開発18か条なるものがあったそうで、「鬼十則」と非常に似ています。
http://yusan.sakura.ne.jp/library/sony18/

人工知能やロボットに奪われない職業とは

2016年1月11日 at 5:54 PM

ほぼ1年前になるが、「人工知能やロボットには奪われない『8つの職業』」という記事が出ていた。
1)Nostalgist-人それぞれの最良の記憶により、ポジティブな感覚を生み出すセラピスト能力を有した環境デザイナー
2)Localizer-快適なコミュニティ作りを行うソーシャル・ワーカー能力を有した調整役
3)Robot Counsellor-家庭にアシスタントとして入っていくロボットを、ニーズに合わせて提案し、安心して使えるようにするアドバイザー
4)Company Culture Ambassodor-企業の価値観を浸透・共有させ、仕事が楽しいという環境と雰囲気をつくり出す世話役
5)Simplicity Expert-世の中に情報が氾濫し複雑性が益々増す中で、要点を見つけだし、単純化できるマネジメント
6)Auto-transport Analyst-ドライバーを必要としない自律走行車が増えていく中で、問題を予防し、不測の事態に対処できる物流専門家
7)Healthcare Navigator-病院内のみならず自宅でも様々なヘルスケアが進展していく中で、どういった治療が最適かをアドバイスする医療コーディネーター
8)Makeshift Structure Engineer-3Dプリンターなどの構造設計者、突発的な災害に即応して緊急用施設などを作る現場監督的エンジニア

この8つの職業とAIロボットがいれば、全て万事心配ないとは思えないが、人工知能やロボットが確実に社会及び家庭に入ってくる近未来がやってくる。そんな環境変化の中で、必要な能力として浮かび上がってくるのは、新しいテクノロジーへの造詣が深く、社会科学(心理学、教育学、社会学)や数学、さらにコミュニケーション能力を横断的に駆使する総合力のようである。それは今でも様々な局面で求められている能力であり、特段目新しさはない。将来益々求められ、かつ人間同士の接点になくてはならない要素を強調しているとも言える。

翻って現代人は総じてコミュニケーションの問題を抱えている。上司と部下、親子関係、男女関係、世代間、様々なところでその問題の存在の大きさが浮き彫りにされる。IT技術の進歩ゆえと言えば聞こえがいいかもしれないが、メールのやり取りが増え、直接顔を合わせて議論をする機会が少ない。ネット上の一文に過剰反応し、炎上した挙句にリアルな世界で凄惨な事件も起きている。直接のコミュニケーションを避けて、Virtualの世界に浸かり、思うように行かなくなったらリセットボタン。傷つくのが怖くて告白できない。男女交際は気を使わなくてはいけないので面倒だからしない。このような存在では明らかにロボットに取って代わられてしまう。恋人はゲームやアニメの主人公。いい大人になってもアイドル追っかけ。人間が一番面白いのになぁと思うおじさんここに在り。

人間とロボットの共存は選ぶ立場の人間が心地よいと思える相棒を作れるかにかかっている。ロボットが鉄腕アトムのようなヒューマノイド型になり、ドラえもんのようにネコ型ロボットとは言え、ほぼ人間同等のコミュニケーションをしているように、技術者は使命感をもって、その実現に邁進していくであろう。その時、人とのコミュニケーションを避けてきた人間はさらなる疎外感に苛まれはしないだろうか。

Technological Singularity(技術的特異点)という言葉を度々聞くようになった。人類のこれまでの技術開発の歴史から推測して得られる未来予測の限界を指す言葉である。特異点の後では科学技術の進歩を支配するのは、人類ではなく人工知能(AI-Artificial Intelligence)となるため、人類の過去の傾向に基づいた変化の予測モデルは通用しなくなるという考えである。

何十年後か何百年後かわからないが、現在の人類には理解できない未来が待っているとしても、人間同士が健全なコミュニケーションを積極的に図り、AIを活用して幸せな暮らしが実現できていることを私の初夢話として、ひとまず筆を置きます。本年も宜しくお願い致します。

政治体制と企業組織

2015年12月26日 at 11:44 AM

今年の暦が終わろうとしていますが、暖かい毎日が続き年末の実感が湧きません。世界に目を転じると、世界中がISの脅威にさらされる中、IS空爆の有志連合は広がりを見せ、断続的に空爆を続けていますが、アメーバのような過激派組織はゲリラ的に移動を繰り返し、未だ大きな脅威として年を越すことになりそうです。シリア紛争から4年、難民は1000万人を超え、周辺国に流出しています。国が安定していないということの恐ろしさをまざまざと見せつけるものです。
また、今年は中国の台頭が政治経済両面で際立った年とも言えます。政治的には南沙諸島への中国の「赤い舌」はまさにその象徴で、経済的には成長率鈍化が世界経済を脅かす要素となるほど無視できない存在となっています。AIIBの創設も西欧諸国中心の枠組みに対抗して世界覇権を狙う動きと捉えられるでしょう。

ロシアは実質プーチン独裁の下、ウクライナ紛争の末、クリミア併合を果たしたものの、その結果として経済制裁を受け、さらに資源安の煽りも受け、経済成長は今年に入ってマイナスになりました。エネルギー輸入国日本に秋波を送り、北方領土の解決も全く無理という状況から変化が出てきそうです。
北朝鮮も独裁国家の代表ですが、ただただ危なっかしいだけで、中国がお守役を降りてからは(交渉カードとして使えない・使う必要もないとの判断か)、日本をはじめアジア諸国にとって最も危険な国と言えるでしょう。ISは国ではないですが、ISと同等程度の脅威です。拉致問題の解決は期待できないでしょうが、進展がなくとも交渉を続け、動向を注意深く見守る必要があります。一方、軍事境界線を境に対峙する韓国はアメリカからの強力なプレッシャー(これ以上、中国寄りの外交を続けるのであれば、民主国家と認めないと恫喝されたとか)もあり、明らかに日本との関係改善を探っています。懸案の慰安婦問題も岸田外務大臣の訪韓で一挙に進みそうな気配です。
中国に話を戻すと、2049年に中華人民共和国100周年を迎えます。「China 2049」(著者M・ピルズベリー)に書かれている、長く中国の方針とされていた「韜光養晦(とうようこうかい)=能力を隠して、力を蓄える」戦略から、習近平は「強中国夢 =強い中国になるという夢」を堂々と宣言し、アメリカとの対等な関係を求めました。かつての米ソ関係にまでなるのか、アメリカにあしらわれて、最後は中国にも民主化の大きなうねりが押し寄せて、習近平が中華人民共和国最後の総書記となるのか、興味は尽きません。

来年は1月に台湾の総統選挙があり、野党・民進党の蔡英文(ツァイ・インウェン)が圧倒的な有利と伝えられています。民進党はそもそも台湾独立派ですが、中間層取り込みのために「現状維持」路線(しかし、中国とは一線を画す)を取って躍進中です。11月にはアメリカ大統領選挙があります。弱体化したと言われるものの、やはり超大国の大きな選択も注目の的です。早々に脱落するであろうと見られていた共和党候補トランプが放言暴言を繰り返しながらも4割を超える支持を集めているのは、アメリカに膨張している不平不満の表れと言えます。すっかりヒラリーは影が薄くなってしまった格好ですが、民衆の最後の審判は如何なるものになるのか。

民主国家と独裁国家のどちらがいいかと、人に問えば、ほぼ全員が前者を取るでしょう。民衆によって選ばれた為政者が国を治め、民衆の安全を確保し、最大公約数的幸福を実現する。小気味良い説明ではありますが、民衆が正しい情報に基づき為政者を選んでいるかという問題は常にあります。また民衆は全体最適を考えて投票行動をする訳では必ずしもなく、個人最適で選ぶ場合も少なくないでしょう。ここには民主主義による「衆愚政治」の危険が常に潜んでいます。選挙民のレベルが議員のレベルと言われますが、なんでこんな人が?という呆れてしまう議員がニュースを賑わすことも少なくありません、皆さんお気づきの通りです。
それでは独裁国家はどうか。最高の知恵と気配りと対人能力を持った人が為政者となれば、最適な国政が行われるでしょうが、そうなる確率はほぼゼロに近いでしょう。権力は必ず腐敗しますから、第三者チェックの働かない長期政権をずっと続けることは最適から遠のいていくことでしょうし、世襲ともなれば政治の場合は特にその人民(敢えて民衆としません)はかなり高い確率で生命と財産の危機に瀕します。数百万人粛清しても体制の安定のためと平気でいられる為政者と、送り込んだ戦場で数千人が犠牲になったら政権がひっくり返る体制との違いです。
前者の弱みは為政者が民衆によって選ばれるので、耳障りの良い選挙公約がどうしても必要になります。結果、長期的視点に立っての政治が行われにくいです。1000兆円を超える国家財政の累積赤字が問題先送りの象徴です。後者の強みは選挙民に選ばれる必要はなく、よって甘言を駆使して人民におもねる必要はなく、長期的視点に立って戦略を遂行できる点です。中華人民共和国は権力闘争を繰り返しながらも捲土重来を期して第十二次に渡る五か年計画を実行してきたわけです。しかし、長い歴史を振り返れば、民衆の知的レベルは王政や共和制の時代とは比べものにならないほど上がり、インターネットの発達により情報共有度ばかりか、民衆の発信力も格段に上がってきています。ですから独裁国家は遅かれ早かれ駆逐されていくことになるでしょう。

企業組織のトップも従業員に選ばれるわけではありません(一部、野心的なベンチャー企業は、それに挑戦しているところもあります)。密室で決まるという点では民主国家型ではなく、独裁国家型です。企業経営に際しても国家体制が孕んでいるような危険を認識する必要があります。企業の理念や綱領が企業の軸を支え、将来の方向性への指標や日常の判断の道しるべとなります。企業にとっては顧客こそ重要な第三者チェック機関と言えるでしょう。顧客の存在しない企業はあり得ませんから、偏った社内論理を是正してくれる健全な「選挙民」です。
長年、消費者擁護をしてきた活動家のラルフ・ネーダーは、アメリカでは大企業による政権支配が起きていると警鐘を鳴らしています。西側諸国の中で、米国の最低賃金は最低、消費者負債は最高、貧困率も最高。一方でものすごい億万長者や多額の利益を生む企業が存在している。これでいいのか!と。ムッソリーニはコーポラティズム(国家と私企業の共同体的協調)を思想の根幹に据え、ファシズムを先導しました。日本の政府・経団連・日銀のTrinityとも言える昨今の動き「インフレ実現の為には何でもやる」というのはミニ・コーポラティズムの片鱗に見えなくもありません。安倍さん、しっかり舵取りお願いしますね。

ストレスチェック義務化に物申す

2015年12月7日 at 5:39 PM

2014年6月改正労働安全衛生法によって、
 1.(50名以上の事業所について)全従業員へのストレスチェック実施
 2.高ストレス状態かつ申出を行った従業員への医師面接
 3.医師面接後、医師の意見を聴いた上で必要に応じた就業上の措置
の3点が、企業のメンタルヘルス対策強化の大きなポイントとされた。
1.の通称「ストレスチェック義務化」法が2015年12月1日から施行され各企業での対応が慌ただしくなっているようである。様々な企業がストレスチェック義務化対応サービスをセールスプロモーションしているが、本来は上述2.3.の質向上の重要性がもっと語られるべきであり、今改正では「出来るだけ実施することが望ましい努力義務」として定められた「ストレスチェックの集団分析※及びその結果を踏まえた職場環境改善」の後段の職場環境改善に繋げることこそが、企業の活動の重点になるべきであると私は思う。そう考えると、「ストレスチェック義務化」という言葉だけが踊っている今の状況は、非常に表層的対応であると感じると同時に、文字通り誰かに踊らされているのではないかと疑心暗鬼になる。
(※集団分析とは:個人結果がわからないように集計し、職場の一定規模の集団(部、課など)ごとに行うストレス状況の分析だが、ストレスを集団で分析しようとすること自体が正しいアプローチとは思われず、個々人の悩みや孤独感、疎外感など個別ケースにこそ処方のメスを入れなければ、意味がない。組織管理の出来の悪い上司は誰かをあぶりだす意味合いくらいしかない。)

ストレスチェックの義務化の背景として次の4点が挙げられている。
 1.年間自殺者数の増加
2013年の日本の自殺者数は27,283人であり、3万人を下回った。しかし依然高水準であり、しかも働き盛り世代の死因の1位が自殺という現状がある。(警察庁「自殺統計」、厚生労働省「人口動態統計」より)
 2.精神障害等の労災補償状況
年度により増減はあるものの、請求・認定件数ともに高水準で推移している。2012年の支給決定件数は475件(前年度比150件の増)で、過去最多となっている。(厚生労働省広報より)
 3.労働安全衛生法に「質」の視点を
労働安全衛生法では、時間外労働(1カ月あたり100時間を超える)という労働の「量」に対する過重をアセスメントしている。これに加えメンタルヘルス不調には過重労働以外の要因も考えられることから、労働の「質」に対するアセスメントを追加することが必要と考えられる。
 4.総合的なメンタルヘルス対策の促進
メンタルヘルスケアに取り組んでいる事業場の割合は増えてはいるものの依然として取組が遅れている企業も多く、総合的なメンタルヘルス対策の促進が必要であると考えられる。

1.の年間自殺者数は1997年24391人から1998年32863人と急増した。その理由は、バブル崩壊以降の企業倒産や不況が生活レベルにまで浸透し、経済的な要因で自殺者が増えたと考えられる(1997年から98年にかけての自殺者数増加率は、自営者 43.8%、被雇用者 39.7%、無職者 31.7%、主婦・主夫 22.5%増となっているのがその裏付けデータ)。上述の通り、2012年より3万人を割り、2003年の34427人をピークに1997年レベルまで漸減してきているので、今更自殺者数を理由にストレスチェック義務化の根拠にはならない。

被雇用者も自殺者増加率は高いが、2.で労災補償支給決定件数の増加は、認定率が上がった(2011年30.3%→2012年39.0%、同自殺の場合:2011年37.5%→45.8%)のが支給決定件数の増加の主な理由であって、社会的に精神障害の労災補償が認知されてきた結果と見るのが妥当ではないかと思う。ここでも過労死などが労災として認定される社会的理解が進んでいることを考えると、やはりストレスチェック義務化の今更感は否めない。

「死ぬ気でやればなんでもできる」といった精神論を振りかざすつもりはないが、グローバル化によって日本の社会も流動化せざるを得ない。終身雇用や年功序列のメリットもないわけではないが、社会の変化は不可避である。個々人が今やりきれない困難に直面しているとしても、社会には様々な可能性があり、受け皿もあるという周知を政官やマスコミももっと喧伝して、転職や新しいことへのチャレンジが可能性を広げるという施策や、その社会的価値観の醸成に力を入れる方が私には効果大と思われる。

日本人間ドック学会が発表した2014年の統計調査報告によると、基本検査の全項目で異常のない受診者は男性で5.5%、女性で8.3%しかいないという。このスーパーノーマルと言われる人たちの比率が年々下がり続けている(1984年には29.8%)原因として、受診者の高齢化や生活習慣病関連の判定基準の厳格化、食習慣の欧米化、身体活動の低下が挙げられているが、普通に仕事や生活をしている人のほとんどが正常でないとされる診断基準は果たして正しいのであろうか?

欧米との比較においても、あるいは昔のデータに依拠する診断基準には問題があると指摘する医師もいる。「第12回欧州栄養学会議」では、うつ病患者の血液データを検査した結果、受診前は高コレステロールの患者は少なかった(約33%)が、3か月以上治療して精神的に元気になってくると高コレステロールの患者が約49%まで増え、結局、治療前よりも治療後は総コレステロール値や尿酸値が上がるというデータが発表されている。うつ状態の患者の多くは疲労困憊で食欲もなく、夜も寝られない生活が続いている。初診の時に血液検査をすると、生活習慣病関連の値が全く正常の方が多いそうである。これらを鑑みると心身のデータを両方総合的に判定していかなければ、正しく個々人を把握できないということになりそうである。

私も例外ではなく、心身共に健康な中年男性として暴飲暴食を繰り返し、適当な運動もしない結果、30歳半ばにして健康診断で高コレステロールと高尿酸と診断された。その後、20数年に渡って薬を飲み続けているが、還暦をまじかに控え、毎日の服用がどれほどの意味があるのかわからなくなる時がある。まるで毎朝使わないと心配になる育毛剤・養毛剤の類と一緒である。詰まるところ究極の個人問題である。こうして考えてみるとストレスチェックのような、会社に義務付ける法律は個々人のことを心配しているというより、医師会の圧力や、製薬会社の商売の臭い、そして政治と経済の癒着を強く感じるのは私だけであろうか?

個々の遺伝子検査によって医療を行う時代を迎え、いまだに会社集団単位で個人の心身の健康を法律で管理しようというのは、個々人の甘えを増長し、金権主義の暴走の片棒を担ぐだけで健全な社会とは言えないのではないか。日本社会主義をそろそろ卒業してもいいのではないかと思うものである。

政治問題解決の糸口

2015年11月15日 at 4:42 PM

仏パリで同時多発テロが起きた。13日の金曜日というキリスト教にとって忌まわしい日を選んだとも言われる。死者は129人、負傷者は352人と報道されている。有志国連合によるシリアへの空爆が実行に移されて、このような事態は想定できたが、仏当局の厳戒治安体制の中でも悲劇は起きてしまった。仏オランド大統領は非常事態を宣言し、早速IS兵への容赦ない報復を行うと国民に約束をした。
2001.9.11米同時多発テロに対して報復を宣言したブッシュ大統領の声明がよみがえる「これはアメリカへの宣戦布告だ!」(この時も911はアメリカのEmergency Call Numberの日に合わせたのかと言われた)。その後のアフガニスタン侵攻、イラク戦争、アルカイダやタリバンへの空爆、そしてウサマ・ビンラディンを10年かけて追い詰めて殺害した。イラク戦争の口実とされた大量破壊兵器は2004年のCIAデビッド・ケイ特別顧問の「我々は見通しを誤っていた」証言や、情報源となった国防総省の専門家の自殺などを巡って、どうやら「まずイラク攻撃ありき」で根拠はなかったというのが真相のようである(のちに911はアメリカによる自作自演の陰謀説まで飛び出した)。アメリカのテロとの戦いはいまだに続いているが、結果はテロの拡散を招いてしまったという現実に今我々は直面している。
テロ行為は許されざる行為であり、オランド大統領の「法の枠内であらゆる手段を使う」という声明に同意はする。しかし同意する一方で、報復の連鎖が問題の収束に向かうどころか火に油を注ぐ、あるいはISのシナリオ通りとさえ考えられなくもない。
このブログで2年前に「一神教と多神教」ということを書いた。世界の55%以上が一神教の何らかの信者で、代表格のキリスト教徒とイスラム教が中東地域さらには欧州に場を広げて衝突している。仏同時テロ声明と思しきものの中には「十字軍」の文字がまたも現れた。1096年から始まり200年近く続いた十字軍遠征から1291年エルサレム王国滅亡に至るキリスト教徒とイスラム教の対立の根源とも言える史実である。「アラビアのロレンス」で描かれた第一世界大戦下の英国の三枚舌外交は、パレスチナ問題を生み、クルド人の国家喪失という現在につながる悲劇の遠因ともなった。ユダヤ人悲願のイスラエル建国後もアラブとの民族対立は和解という形で何度も試みられたが、何度となく頓挫している。40%そこそこの多神教ではあるが、代表格にもなり得る唯一の原爆被爆国日本が果たせる役割はないものか。日本は無宗教と言われたりするが、多神教の寛容の心は、底流に流れている。残念なことに全体主義国家の多神教信者は、その信力を外部に発揮することは叶わないので、日本が先頭に立って発信しなければならない存在であろう。

日本も問題を抱えている。近隣の中国や韓国との歴史認識や領土問題である。中国はユネスコを舞台に南京大虐殺を声高に喧伝する。彼らの主張で世界記録遺産に登録し、日本を悪人化することに成功した。韓国は従軍慰安婦問題を常に持ち出す。竹島や尖閣列島、北方領土問題も、まるで判をついたように「古来我が国の領土である」という史実らしきものを矛(ほこ)にお互いが応戦をしている。いくら事実を突きつけても納得いかないとごねれば政治問題の解決はできない。経済問題は基本損得勘定なので、何らかの解決に向かう。というのもお互いの時間も損得勘定の要素であるから、未解決の課題を放っておくことは経済的に成り立たないからである。
一方、政治問題は基本的に解決すべき時間のDead Lineはない。かの鄧小平が1978年に尖閣列島問題を「次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」といって問題の棚上げをしたことは有名である。問題の先送りで表面だった対立を避けたのである。これは長い波乱の歴史を持つ中国4000年の知恵であり、白黒はっきりさせずに当面の課題に集中する兵法であった。
テロの問題もテロはけしからんだけでは解決への道筋は見えてこない。ジハードは何もイスラム教だけの専売特許ではない。キリスト教も聖戦だというし、日中戦争さなかの日本でも聖戦の垂れ幕が下がっていた。政治問題の解決に事実や正義の押し売りは邪魔になることがある。問題の先鋭化を招く恐れ大であるからだ。
なぜ、ごねるのか?なぜ、命を賭してまで主張するのか?そこに焦点を当てなければならない。乱暴に一言でいえば、これらの問題の根っこには「不公平感」があるのではないだろうか。相続問題はいくらもらえるかが問題の核心ではなく、ほとんどが「兄貴が1000万円で、なんで俺は300万円なんだ、あいつにそんなに取られてたまるか」という不公平感が原因という。多くの途上国は資本主義時代の列強の負の遺産を引き継いでいる。彼らに搾取された、虐げられた、今も騙されて働かされていると思っている。日本は文化文明を中国から盗んだくせに、戦後奇跡的な発展を遂げ豊かな生活を享受している、けしからん、今こそ中国の時代だと大国主義を振りかざす。
昨今は「資本主義の終焉」と言われたりもするが、資本主義を遡れば1600年に設立された東インド会社に始まる列強の力を背景にした、土地と資源と労働力の特権的搾取が始まりとも言える。産業革命という知的イノベーションを梃に資本主義は20世紀に全盛を迎え、富める者はさらに富み、搾取される者は世代を通じて虐げられてきた。前者の道徳観は経済成長の名のもとに朽ち果て、後者の救いの受け皿となったのは家族や友人に優しい周辺の人が信じる宗教がそのひとつだった。
真実が必ずしも人々を助けるわけではない。そして時には嘘が人を助けることもある。知らぬが仏というのは実生活でも大いに感じるところが多いであろう(同義の英語もあるーIgnorance is bliss-無知は至福である)。
この世に絶対的正義はないし、事実かどうかよりも、感動させられるかどうかが人を動かす力になる。歴史も為政者の都合の良いように紡がれたもの。一神教の信者が信じている聖典や経典もほとんどが作り話。でもこのStory性が人々を安寧にするのでしょう。自分に自信があって安定している人ほど宗教と距離を置くようになります。何が真実で、何が正しいかという論旨の応酬では政治問題は解決に向かいません。イソップ寓話の「北風と太陽」の話を今こそ思い返したいものです。解説にはこう書いてあります「手っ取り早く乱暴に物事を片付けてしまおうとするよりも、ゆっくり着実に行う方が、最終的に大きな効果を得ることができる。また、冷たく厳しい態度で人を動かそうとしても、かえって人は頑なになるが、暖かく優しい言葉を掛けたり、態度を示すことによって初めて人は自分から行動してくれる」。
真実を知る必要がないとは決して言いません。国同士が衝突していても自由な人々は国境を越えて人と人のつながりを作っていきます。情報化社会は玉石混交ですが、以前よりも隠し事のできない環境を提供しています。政治問題にはまず相手を思いやり、その人の心を動かす感動Storyがあって、それを補強する上での史実や論理が必要になります。この順序が逆になると政治問題の解決は遠ざかっていくことになるでしょう。ISのようなイスラム過激派に欧米社会が直接会話することは難しい。イスラム教にもローマ法王のような立場の人がいれば、いいのですが。

アメリカでチップ廃止の動き

2015年10月27日 at 12:09 PM

2か月ほど前の米New York Times誌に”As Minimum Wages Rise, Restaurants Say No to Tips, Yes to Higher Prices.”という記事が載った。最低賃金が上がって、サーバー(ウェイター・ウェイトレス)の生活が保障されるようになるのであれば、チップは不要。でもメニューの値段は上がりますよ、という論旨である。この記事を多くのメディアは、「レストランにおけるチップの習慣を廃止する動きがアメリカの一部で広がっているが、多くのレストランは静観の構え」と報じている。しかし、単純に捉えると最低賃金が上がるので、チップは不要です。その代わりメニューの値段は上げさせていただきます。つまりお客の支払いは何も変わらないということである。チップが無くなることによってこれまでも大したサービスとは思われなかったサーバーの接客の質がさらに落ちるかもしれない。ひいては顧客満足は低下するかもしれないという含みを私は感じるが、厄介なチップの習慣に煩わされなくなるのは歓迎だ。
そもそもチップという習慣は何故あるのかを紐解くと、イギリスの貴族社会に起源があるようだ。昔の接客サービス(給仕・ポーター・ドアボーイ等)は貴族の豪邸で始まり、働く場所だけは与えられるが無給であった。それゆえ、何かとお客様の世話を焼いてはチップをもらって生計を立てていたそうである。その流れが移民と共にアメリカ大陸に広がり、定着したもの。つまりチップの習慣は安い賃金(あるいは無給)と不可分の関係にあると言える。生計を立てられないほどの安い給料にキリスト教の施しの精神が加味されて広がっていたものであろう。事実、多くの欧州の国々では最低賃金が保障されるようになってチップの習慣が無くなっていった経緯がある。遅まきながらアメリカでもそういった動きが出てきたことは、逆説的にはそれまでの大国アメリカの行き過ぎた二極化を物語るものでもあろう。
私が毎月海外出張に出かけていた頃は、この国はチップはどうするのか気にして行ったものである。アメリカ居住が長かったので、チップの習慣や計算には慣れていたが、(昔はランチ10%、ディナー15%といった感じだったが、いつの頃からかランチ15%、ディナー20%にチップもインフレ化した。観光地ではチップを置いていかない外国人も多いので、勘定に20%のサービス料が予め加算されている場合も多い。それゆえ気の良い人は二重にサービス料を払ってしまうこともあるので要注意)国や場所によっての使い分けは自分のCommon Senseで判断しなければならなかった。
日本の物価は世界一高いと言われた時期に私はアメリカで生活し始めたので、アメリカは何でも安いなあと毎日感じていた。ほとんどの支払いをカードでしていたので、キャッシュで払った時の感覚より実感は乏しかったが、慣れた頃には「なんだ、チップを加えればそんなに安くないな」と感じたものだ。数人でレストランに行くのであればまだしも、20人くらいの団体で行けば15%と言えどもチップは数百ドルになる。ひとテーブルでそんなに稼ぐなんて何て理不尽なんだと思ったりもした。
チップ本家本元の英Finacial Times誌はこのアメリカのチップ廃止の動きを社説で取り上げ、不透明のお金のやり取りがなくなるのは歓迎すべきものだと論説している。米Wall Street Journal誌はチップをもらえるホールの従業員と料理を担当する厨房の従業員の間に不公平感(手取りは2倍の格差があるとも言われる)が生まれ、調理人には優秀な人材が集まらないという問題を指摘する。チップ廃止によって、経営者が収入の配分権限を持つことで腕の良いシェフを集めやすくなるであろうという趣旨を報じている。確かに工夫がなくて、昔から同じまずい料理を提供しているレストランは多いので、顧客満足に一役買うかもしれない(是非そうしてほしい)。カード支払いのチップは全従業員で平等に分けるということも聞いたことがあるが、Cashのチップは明らかにテーブル担当のサーバーのポケットに無造作に吸い込まれていく(税金は払っていないでしょうね)。日本の料理屋と比べ、アメリカのそれとはFrontとBack Yardの位置づけが(一部を除いて)全く反対いうのは日米文化比較という観点からも興味深い。
日本には「心付け」という習慣がある。旅館で仲居さんにそっと手渡し、より良いサービスを期待するもの。贔屓の芸者に少しばかりの小遣いを渡し好意を示すもの。冠婚祭での祝儀。引越屋さんにお昼代と称してあげる場合も多い。ポチ袋とは目下のものへの「わずかばかりの謝礼」を表すが、その語源は「これっぽっち」から来ているという説がある。なんとも控えめな言い方で、日本の古き良き時代を彷彿とさせる。「心付け」はあくまで感謝の意を伝えるものであるのに対して、チップは生計を立てるために必要なものという大きな違いがあることを認識しておきたい。サービスが良かったらチップは渡すけれども、サービスが悪かったらチップを渡さないというのは歴史的背景を考えれば本来の形ではない。グラスや皿を持ってきてくれたことに対する報酬(感謝ではなく)としてチップがある。お客から従業員への直接の給料というわけだが、日本人としては西洋の階級社会の残滓と考えるほかない。それが変わり始めたというのであれば、唯我独尊のきらいがあるアメリカの変化として歓迎したい。
私は、内外問わず一部にあるAmerican Standardが正義で、Global Standardになるべきという考え方が、American Standardと言えどもGlobal Standardに合わせて変わっていくようになってきた一つの例だと受け止めたい。全く違う領域の話ではあるが、アメリカは1875年に締結されたメートル条約の原加盟国であるにも関わらず、140年経ってもヤード・ポンド法を優先して使っている世界唯一の国である。いずれメートル法を法律で表示させるようにするのか、生活では一切困っていないから関係ないとこれからもうそぶいていくのか。アメリカに対等な二国間関係を求める中国との間に難問山積みの状態では、メートル法は取るに足らない事柄であろうが、超大国アメリカが転機にあることは誰の目にも明らかである。世界の警察として力づくでHard Powerと資本主義を行使してきたアメリカが、どのように内部変革を遂げつつ、巧みにSoft Powerを操るのか。超大国とは言えなくなったアメリカではあるが、中国やロシアの覇権主義に対抗できるのはアメリカだけである。多極化した世界にこそアメリカへの期待は以前よりも増して大きい。

フードサプライチェーン

2015年10月5日 at 4:37 PM

9月27日の国連本部で振る舞われた昼食は、舌の肥えた世界の首脳らを驚かせるのに十分なものであったろう。
昼食を担当した料理人たちは、現代人の食生活にみられる多大なる無駄が、世界的な気候変動に影響を与えていることの再確認につながることを願い、本来なら廃棄処分されるはずだった材料(ゴミ)のみを使って料理を完成させたのだ。
国連本部で提供されたのは、野菜類の絞りかすを原料とするベジタブルバーガーと、それに添えられた「でんぷん状のトウモロコシから作られた『コーンフライ』」だった。
このメニューを考案した著名な料理人ダン・バーバー氏は、「典型的なアメリカ料理をビーフではなく、牛の餌となるトウモロコシで作った。通常なら捨ててしまうものから、本当においしいものを作り出すことへの挑戦」と語った。
と同時に、今回の昼食会のようなイベントを通じて、食文化が徐々に変わっていくことを期待しているとして「長期的な目標は、残飯から食事を作らないようにすることだ」と食べ物の無駄を削減すべきであるとコメントしている。

国際連合食糧農業機関(FAO)の要請により、スウェーデン食品・生命工学研究機構(Swedish Institute for Food and Biotechnology、以下SIK)が2010年8月から2011年1月に実施した調査研究によると、世界全体で人の消費向けに生産された食料のおおよそ3分の1、量にして年約13億トン(7500億ドル相当)が失われ、あるいは捨てられていると示唆した。

日本での統計では、農林水産省が今年4月30日に公表した「食品ロス統計調査」がある。日本の世帯食品ロスは3.7%で、その内訳は過剰除去(調理時の大根の厚皮むきなど)が2.0%、食べ残しが1.0%、直接廃棄(賞味期限切れなど)が0.7%となっている。外食産業では、結婚披露宴で23.9%、宴会で15.7%と高い食品ロス率を記録しているが、およそ世界の食料の3分の1が無駄になっているとはにわかに信じられない数字である。先のSIKの調査によれば、消費段階で廃棄される一人あたりのロスは欧米が年間100kg前後であるのに対して、日本のそれは15kgとまさにMOTTAINAI精神の面目躍如たるものがある(Apple to appleの比較ではないので注意を要する。このブログを書くにあたって、色々調べたが、記事によっては日本の食料廃棄率は世界一であると何か意図的なものを感じるものもあったが、筆者はその根拠を見つけることはできなかった)。

フードサプライチェーンとは食料の生産から貯蔵、流通、加工、販売、消費に至る一連のプロセスを言う。調べてみると、食料の種類や地域によってそのロスの構成に大きな違いがあることがわかった。先進工業地域では廃棄の約4割が消費段階で無駄になっているが、開発途上地域では廃棄の9割ほどが消費前段階の、生産から小売り段階で無駄になっている。つまり開発途上地域では農業生産過程で生じるロスがフードサプライチェーン全体のロス総量の大半を占めているのである。一例を挙げれば、果実や野菜などは、収穫後と流通段階でのロスが甚だしく、暖かく湿度の高い気候条件で腐敗してしまう品質劣化や、供給過剰をもたらしやすい季節性も原因となり、収穫のおおよそ半分が消費段階前に廃棄されてしまうのである。

日本のような先進国の視点から食品ロスを考えると、まだ食べられるのに賞味期限が過ぎたからという理由で捨てられたり、スーパーの高い外観品質基準によって、店頭では並べられないような規格外野菜や魚が出荷されずに無駄になったりということを想起してしまうが、一方の生産地域(特に低所得国)ではフードサプライチェーンの初期段階で、予期しない天候不良、病害虫の発生、貧弱な貯蔵施設、インフラ整備の不足、旧式な輸送形態、食品取扱技術の未熟、あるいは流通段階での非衛生的な市場環境などの悪条件によって大量の食糧が無駄となっているのである。

CSR活動に熱心なネスレはCSV(Creating Shared Value:共通価値の創造)を企業の基本に据え、環境サステナビリティや農業・地域活動に力を注いでいる。世界中に10億人に至らんとする人々が栄養不足の状態にあり、一方で、食べ過ぎで肥満になっている人が10億人以上もいる、この低所得国における低栄養と先進国における過剰栄養という問題を企業の最重要課題として取り組んでいる姿勢は特筆すべきことである。二つの問題は独立事象ではなく、フードサプライチェーンを見たときには双方からの解決のアプローチが重要であることを見逃してはならない。
栄養不足に苦しんでいる人々への世界からの食糧援助量は600万トン、日本一国の食糧廃棄量だけで800万トンという数字を弄んでも、この問題は解決に向かわない。
先進国での消費者意識の変革と、開発途上国での収穫技術、農業者教育、貯蔵施設や輸送方式を改善することによって生産者に展望を与えるという両方に施策が必要である。

日本では、加工食品に3分の1ルールと呼ばれる商習慣があり、賞味期限が6カ月であれば、これを3等分して、メーカーが卸や小売店に納品できるのは製造日から2カ月までの製品。その後、店頭で販売できるのは製造から4カ月までの製品。それを過ぎると、賞味期限まで2カ月残っていても、店頭から撤去、廃棄するという仕組みだそうである。日本の消費者は鮮度にこだわると言われているが、果たして本当に消費者が望んだことなのか、企業が先走ってその方向に誘導したのか。賞味期限も消費期限も無かった時代には、味見して確かめ、時に腹を下したりして実地で体得していったものであるが、今や自分の舌より、良く知りもしない企業の刻印数字を頼りにするのは、過剰サービスの結果なのかもしれない。小売り大手の中には、この期間を見直そう、という取り組みをしている企業もあり、実証実験も始まっているという。健全な消費者と健全な生産者が、将来食糧不足になるかもしれない世界を救う一助になってくれるものと思う。

うなぎとビール

2015年9月8日 at 4:15 PM

すっかり秋めいてきました。晩夏にこんなに雨が降り続くのも珍しいですね。一時の猛暑が嘘のような涼しさです。7月後半から猛暑の夏の定番というべき「うなぎ」を食べたい食べたいと思い、たまたま用事があった江戸川橋付近の創業1910年という鰻屋に電話をしてみると昼でも予約が一杯で入れないとの応対。それ以来なかなか機会が無く、たまにスーパーやデパートの食品売り場でうなぎを見かけるものの、一尾3000円では、絶対鰻屋で食べるべきと心に決めていました。8月に入ってやっとその機会に恵まれ、横浜でボリュームたっぷりのうなぎ中入り丼(御飯の間にもう一枚鰻の蒲焼が入っている)4400円と生ビール600円、それに消費税で〆て5400円20分で平らげ大満足をしました。しかし、一食5400円というのは贅沢なので、なかなか一人で鰻屋に入る決心がつきませんでした。夜の宴会で5400円は普通の会費、ちょっと後輩にウェイト付けされれば10000円は飛んでしまいます。鰻の五千円と飲み会の五千円は前者が贅沢に聞こえるのに対して、後者は普通そんなもんだろうと感じます。前者が20分、後者が2時間といった単位時間当たりのコストも関係しているかもしれません。前者は清水の舞台からとは言いませんが、後者に比べると思い切りが必要でしたが、スーパーの3000円の鰻を家で食すのよりは鰻屋の蒲焼に十分な価値があるという判断が背中を押してくれました。

数年前に「100円のコーラを1000円で売る方法」という本が話題になりました。日本の企業は高品質・多機能、でも低収益。どうしたらこの低収益体質から脱却できるかをテーマにした本でした。1000円のコーラとはリッツカールトンのルームサービスのコーラの価格というのが種明かしです。正確に言うと、ラグジュアリーな快適空間であるホテルの部屋で、最適な温度に冷やされたコーラにライムが添えられて、シルバーのお盆に恭しく運ばれてきたというサービス全体に対する値付けです。リッツカールトンのルームサービスでコーラを頼む人は勿論、値引きは要求しません。提供された全てのValueに納得感が得られるかどうかで満足感が決まります。(ちなみにコーラ1缶の原価は液体が5円以下、缶が10円程度と言われています。価格ドットコムで見ると1缶70円で売っています)

ここでの顧客満足とは、「顧客が感じた価値-事前期待値」の差です。お笑いの世界にもこの式は通用します。つまり「あまり期待していなかったけど、案外面白かった」ということです。「面白いですよ~」とハードルを上げてしまうと、少々面白いくらいではお客さんは笑ってくれません。しかし、商売の世界では「事前期待値」をあまり下げてしまうと、他社との競合においてそもそも見向きもしてくれませんし、買ってもくれないでしょう。事前期待値を高めつつ、期待を超えるそれ以上の価値、あるいは顧客が気が付かない意外な心配りを提供していくことが重要になりました。

ビールはどうでしょう。ビールもコーラに負けず顧客は原価の何倍もの御代を払っています。ビール各社の売上原価を見てみると、アサヒ60%、キリン57%、サッポロ65%、サントリー50%(サントリーはビールがメインではありませんが)となっています。皆さんご存知のようにビールは酒税が高いです。350ml缶でビール77円、発泡酒47円、第3のビールで28円を納めています(全て一律55円にしようという法案が議論されています)。販売費及び一般管理費(SGA)が製造業の中では非常に高い業種です。アサヒ33%、キリン38%、サッポロ35%、サントリー44%です。販売や宣伝広告、間接経費がかなり高いですね。冷えたビールを飲んでいるときにはこれっぽっちも気にしませんが、これらも顧客の皆さんが負担しているわけです。ちなみにトヨタはあれほどコマーシャルの認知度が高い割にはSGAは10%です。ビール会社の酒税の負担は、売上高の15%程度はありますから、純売上高比率で見ると、SGAはさらに5~6ポイント上昇します。350ml缶のビール原価は50円+缶20円+酒税77円。居酒屋の生ビール樽は20リットルで9000円ほど、ジョッキ一杯180円くらいでしょうか。テーブルに持ってきてくれますから、その分の人件費やその他固定費負担分はプラスで掛かりますね。

原価の話はやめてくれ、酒がまずくなる!という声が聞こえてきそうですが、それこそが売る側の狙いです。原価を気にせず満足にお金を払う顧客を掴めれば高収益が期待できます。毎日ビールを家で飲む人は、原価とは言わないまでも価格には敏感でしょう。酒税の安い発泡酒や第3のビールに切り換える人も出てきます。前段の1000円のコーラを毎日飲む人はまずこの世に何人もいないでしょう。だからこそ、その価値が際立ってくるのだろうと思います。日常と非日常それぞれの場面でのサービスや満足感が付加価値を生み、生産者の生活を支え、消費者の人生を豊かにする。金は天下の回り物とはよく言ったものです。

戦争とテクノロジー

2015年8月5日 at 5:58 PM

「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」とクラウゼヴィッツは、その著書「戦争論」(1832年出版)の中で「戦争とは何か」を近代における戦争の本質に迫る形で理論立てて表現した。この著書が名著と謂われる所以は、それまで「いかにして戦争に勝つか」ばかりを論じていた軍事学において、初めて戦争という事象を国民国家との関わりで論じた点にある。

猛暑が続く日本は今年終戦70年の節目を迎え、今、参議院では安全保障関連法案の審議が行われている。TV各局は恒例とも言える第二次世界大戦を中心に色々な角度から特集を組んで放映する。8月6日の広島へのウラン型原子爆弾投下、8月9日の長崎へのプルトニウム型原子爆弾投下、そして8月15日の終戦に至る過去の戦争の反省をもとに、将来の禍根を絶つことの重要性は今もこれからにおいてもいささかも揺るがない。誰しも戦争を望んでいる訳ではない。戦争を起こさないこと、戦争に巻き込まれないことの手段や方法論を論じているという意味において、議会で論戦を張っている政府もどの党も会派も同舟であると信じたい。

過去の出来事を反省の材料にすることは同意であるが、過度に過去に拘泥してしまうのも将来を見誤ると感じる。子供心に「第三次世界大戦はいつ起こるか」なんていう今思えば不遜な話題の種にした記憶がある。単純に2度あることは3度あるの延長線の発想でしかなかったが、人間の愚かさを思えばリアリティのある話でもあった。大人になるにつれ、世界は様々な過去の反省のもとに第三次世界大戦が起こる確率は少ないと思うようになった。しかし再度、第一次世界大戦を思い起こせば、小国セルビアの某グループが引き起こした事件が世界大戦の引き金になってしまったことはまさに経験したことである。戦争の可能性は確率論で安易に片づけられるものではなく、起きるか起きないかのゼロイチであり、大地震に巻き込まれるか巻き込まれないかの個人の運不運と現象面では似ている。しかし、大きく異なるのは前者は人智で抑えられる脅威であるのに対して、後者は人智を超えた大自然の猛威であるということであろう。

世界最古の戦争は、紀元前4000年ごろの遺跡から「良く乾燥させた粘土球」が大量に見つかったシリアで起こったとの見方がある。南メソポタミアの都市国家ウルクが北部のハモウルカを侵攻して陥落させたと米シカゴ大学東洋研究所の調査隊が推測している。個人同士の殺し合いはそれこそ人類発祥の頃から小競り合いの結果としてあったと思われるが、戦争の定義を「人間の集団が別の集団に殺意を持っておこなう組織的な行動」とするならば、都市国家の始まりと共に戦争が始まったとする説は説得力を持つ。日本では弥生時代から戦争が始まったという説が有力のようである。鏃が刺さったり刀傷のある人骨が、弥生時代にかなり大量に発見されているというのがその理由である。しかし、それが戦争によるものか事故によるものかは想像の域を出ない。

おそらく古代から長らく武器の主役にあったのは「石つぶて」であろう。最も原始的ではあるが、手近にあり、威力があり、射程も大きく、接近戦を避けられるので戦(いくさ)の初期段階においては有効な武器であったと推察される。石つぶては子供の時に腕力がない子がジャイアンのような子供に対抗する最終手段であった。非常に危険であったので、子供のころから「石を投げてはいけません!!」と母親に強く教育されたものである。

戦国時代の武田方の武将小山田信茂が三方ヶ原の戦いで投石隊を率いたとする逸話が残っているが、鉄砲が徐々に武器として取り入れられる時代になっても刀傷よりは石つぶてによる死者が多かったとの文献がある。攻撃と自衛を総合的に考えれば、刀より槍、槍より石つぶて、石つぶてより弓矢、弓矢より鉄砲という順で戦闘化されていったことであろう。時代劇でよく見られる帯刀した武士が肩で風を切って闊歩したのは、あくまで安寧な江戸時代に丸腰の農民や商人相手だったからである。

しかし、弓矢以降の武器はそれを作る技術、使う技術が一段と求められる。鉄砲もその入手経路、製造技術、使う腕前がなくては効果的な武器とは言えない。屋島の戦いで、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とした弓矢の名手・那須与一や、石山合戦で信長を大いに悩ませたといわれる鉄砲軍団雑賀衆はそれぞれの時代の武器を極めた戦争のエキスパートであったと言えよう。

時代はぐっと近代に寄るが、第一次世界大戦以前では陸においては砲兵・歩兵・騎兵を使った戦術と守りにおける塹壕掘り、海では軍艦の登場が戦術に変化をもたらした。その後、射程と連射速度が上がったライフルの登場で騎兵は姿を消し、守りは砲弾や手榴弾からのダメージを最小限にとどめるべく曲がりくねった塹壕線を延々とつくることが最新の戦術となった。さらに機関銃の登場により、お互いの戦線は塹壕に釘づけとなり戦争が長期化することとなった。今度はその塹壕線を打破するために戦車が登場する。

第二次世界大戦では飛行機が登場して、空爆技術が発達した。それまでの前線における戦いから敵国の主要インフラや工場を殲滅する戦術に変化していくことになる。海においては強力な主砲と高度な弾道計算を有す戦艦の登場で、「軍艦の数という量」から「強力戦艦という質」への転換が図られる。つまり前線での消耗戦から飛行機による制空権の争いへと変化していくわけである。その後は空と海の戦術を合体させた空母の登場で、図体が大きいだけの戦艦は無用の長物となっていってしまう(戦艦武蔵は被弾に9時間耐えたが、その後、戦術を検討したアメリカ軍の左舷集中攻撃によって戦艦大和は2時間足らずで沈没した)。

第二次世界大戦後は資本主義と共産主義が対峙する冷戦時代に入り、軍事大国は核兵器をせっせと作ったものの人類を破滅させるに充分な最終兵器を扱いしかねる状況になり、軍縮の動きも始まった(SALT~Strategic Arms Limitation TalksやSTART~Strategic Arms Reduction Treaty)。一方、この時期には電子技術が進歩し、衛星・無人偵察機・レーダーごと空に飛ばす早期警戒機などの導入により、戦時に得られる情報が飛躍的に増大した。軍の仕事は情報収集と膨大な情報分析にシフトしていく。攻撃面では一度ロックオンしさえすれば目標に向かって突き進む誘導兵器やミサイルが圧倒的な優位性を持つ時代となった。

ソ連邦の崩壊により冷戦が終わると国家の管理下にあった武器が拡散してしまい、軍事力を誇示するしか能力がない小国やテロリスト・テロ国家が新たな脅威となった。テロリストとなるともはやクラウゼヴィッツが言った「戦争とは政治の延長である」という論理が通じない相手となってしまう。時計が逆回転するように、孫子の兵法「いかに戦に勝つか」の時代に戻っていってしまうのであろうか。技術の進歩により遠隔テロが行われるような時代になれば、迎撃ミサイルやレーダー、そして即応性のある管理体制が健全な国家には求められる。155か国以上が批准している生物兵器禁止条約もテロリスト・テロ国家への拘束力はない。ハッキングも大きな脅威で、先月トルコに駐在しているドイツ軍の保有していたパトリオットミサイルシステムが何者かのハッキング攻撃を受けて、ミサイルシステムが一時制御不能に陥ったというニュースが配信されている。昨年末には韓国水力原子力発電がハッキングを受けて原子力発電所の図面などの内部文書がTwitter上にアップされる事件があった。制御系にはアクセスされていないと当局は述べているが、活断層や津波といった日本の原発安全性議論とは別の角度で安全性への不安は募る。

「ドローンが攻撃し、ロボット兵士が応戦する」ような戦場では技術者とゲーマーが鉄砲軍団雑賀衆宜しくもてはやされる時代が来るのかもしれない。安保法制反対派が口走る「徴兵制復活」「戦場に若者を行かせるな!」などの心配は無用である。テクノロジーの進歩がそれを必要としなくなっているのである。武力行使の新3要件にある「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」からどのように国民を守るのか、その守り方は過去の反省ばかりにあるのではなく、将来のテクノロジーの進化を見据える視点がなければならない。怖いのは変化に目をつぶりイデオロギーに凝り固まって思考停止に陥ることである。

 

麻生さんの財政赤字心配ない理論

2015年7月27日 at 11:18 AM

「自民党麻生太郎が日本の借金について説明! コワモテな麻生先生ですが超わかりやすく聴きやすい!」なんてコメントが書き込まれています。
この動画は2010年に録画されたものですが、「そう、その通り!」「これはペテン!」とネット上で多くの議論が起こっています。

麻生さんのスピーチの要旨は、「マスコミや財務省は借金のことだけ喧伝するけれど、ギリシャなんかと違って日本は国債のほとんどを国民が円建てで持っているので、国民の資産である。政府の借金は札を刷って返せばいい」という論理です。ちょっと乱暴すぎる要約ですが、日本の財政破綻なんて心配はいらないと言いたいわけです。

麻生さんの論理は財務諸表の貸借対照表の考え方で、貸方と借方があって、右側は日本政府の借金、左側は国債という国民資産がある。ギリシャみたいに、外国の金で支えられているわけではなく、日本国内でバランスしているので、財政破綻はないということです。三橋貴明さんも日本の国家資産は5000兆円超あって、日本政府の資産は480兆円ある。日本政府の借金が1000兆円超くらいではどうってことないという論理を展開しています。しかし、日本銀行「資金循環統計」の国家資産5000兆円超のうち、大方は金融機関、家計、民間法人のもので、正確には国家の財産ではありません。共産国家でもなければ、企業も個人もいざとなれば国を出ていくことはあるわけです。政府が日本国民に安心感を与えられない状況が長く続けば、国家資産として計上されているものは砂上の楼閣となりかねません。

一般に会社経営の健全性をチェックする会計資料には貸借対照表、損益計算書、キャッシュフロー計算書の財務三表があります。貸借対照表では借金は資産でもあるという論理で心配はない、キャッシュフローはお札を刷ればよいから問題はない(一国だけ札を刷り過ぎれば通貨安→インフレが起こりますが)、とここまでは企業経営と比較して国家という特殊性を認めるとして、損益計算書はどうでしょうか。企業経営で売上高や利益は非常に重要な経営指標です。また総資産との関係においては総資本回転率や総資本利益率など、資本の有効活用度を見ることも重要です。企業は年度であげた利益を自己資本に積み増しして安全性を高めたり、将来の成長の為に投資に回したりして経営を行っています。国で言えば、GDPが企業の売上にあたるでしょうか。日本の名目GDPはリーマンショック以降の1990年あたりから25年間500兆円でほぼ横ばいです。物価変動の影響を除いた実質GDPは微増といったところです。もうひとつの指標である貿易収支は毎年1000億ドルほどの黒字を計上していましたが、2011年には初めてマイナスになり、2013年は1000億ドル超の赤字に転落しています。多くの日本企業は、85年プラザ合意から始まり95年には70円台となった超円高下で、事業の海外展開を加速しました。その結果、対外純資産は2014年で367兆円(資産945兆円、負債578兆円)にまで増加しました(過去10年で平均年18兆円増)。色々な見方があるでしょうが、日本の稼ぐ力はそれほど毀損していないようにも思えます。

高度成長期で国も企業も個人も稼ぎ、相応に使うお金を増やして生活を豊かにしていった時代はそれでも良かったでしょう。しかし、年金をはじめ、その慣性の勢いでお金を使い続け、低成長下での税収減は赤字国債で補填という構造から抜け出さなければ、絶対ギリシャにはならないという確信が私には持てません。アベノミクスで声高に言われた第三の矢である成長戦略がなかなか実感できない中、成長戦略が大事であるという意見に勿論賛同するものの、世界中が成長の種を探しあぐねた挙句の低金利と通貨安競争となっている状況を鑑みると、財政再建というテーマに真正面から取り組まなければなりません。成長戦略による税収入増と同時にやはり支出を抑える施策がどうしても必要です。過去政府判断により投資と称して行われた公共事業のうち、どれほどが日本国家の成長に寄与したでしょうか? それを思うと財政破綻は心配ない、将来の投資には国債発行してでもという論理の正当性に私は与することはできません。企業でも経営者の質は最重要な要素ですが、国家を運営するにあたっては官僚組織を率いる首相や閣僚はなおのこと重要と言えるでしょう。冒頭の麻生節は到底「超わかりやすい!」とは思えないものでした。