星野君の二るい打

2018年8月1日 at 4:12 PM

二ヶ月ほど前になるが、一時色々な形で有名になった前川喜平氏の講演を聴く機会があった。醜聞も気にはなったが、教育行政に長年携わってきた前川氏が、今、そしてこれまでの日本の教育をどのように総括するのか若干の興味をもって聴いた。ちなみに前川氏の祖父は前川製作所の創業者、前川喜作氏で、喜作氏が創設した和敬塾(目白台にある男子学生寮)からは村上春樹氏や隅修三氏(東京海上ホールディングス代表取締社長)など錚々たる文化人、経済人、政治家を輩出している。ちなみに前川喜平氏の妹と中曽根康弘氏の長男弘文氏とは婚姻関係にあり、前川喜平氏と中曽根康弘氏は親戚関係にあたる。教育基本法を改正したいと教育審議会を立ち上げた中曽根元総理と、国家介入から教育の自主性を守らなければならないとする前川喜平氏の二人が、政治家と官僚という立場で、少なくとも前川氏の視点に立てば、対立含みの忖度という位置にあったのは、皮肉な話であったと言えよう。
「星野君の二るい打」という話は、この前川喜平氏の講演の中で初めて聞いた。道徳の教科化が始まる平成30年の教科書に載っていて、前川氏曰く、この話はまさに「個」よりも「全体」を重んじる滅私奉公・国家主義的考え方に通ずるものだと批判していた。私は5年前のブログで「道徳の教科化」(2013年7月14日)を取り上げ、反対の意思を表明している。道徳教育は必要だが、教科化としてしまうと評価、得点を付けなければならなくなり、それは「これが正解です」という解があり、指導する教師の立場にすれば、そこへ誘導しなければならないという使命を多かれ少なかれ負ってしまう。子供は大人の考える「正解」に先回りして、点数を稼ぐといったことにも繋がりかねない。
「星野君の二るい打」という話がどの教科書に掲載されているのか色々調べてみたが、わからなかった(文科省のHPにも道徳の教科書の内容~全て読める~が掲載されているが、そのような題名は見つけられなかった。ある人のブログには小学校6年生の道徳の教科書に載っているとあったが、そういった検索ワードでもやはり見つけられない。東京書籍のHPに10分程度のビデオが販売されているので、調べたら1999年度版には載っていたことが確認できた。もしかして、様々な批判を浴びた結果、現在は掲載されていないのかもしれない)。いずれにせよ、この「星野君の二るい打」の話が今も教科書に載っているのかどうかはこの際置いておいて、その中身に入っていきたい。ネットで検索する限り、ほぼ道徳の教科化に反対する題材として、この「星野君の二るい打」が登場する。週刊朝日の亀井洋志氏の要約によると次のように紹介されている。
「バッターボックスに立った星野君に、監督が出したのはバントのサイン。しかし、打てそうな予感がして反射的にバットを振り、打球は伸びて二塁打となる。この一打がチームを勝利に導き、選手権大会出場を決めた。だが翌日、監督は選手を集めて重々しい口調で語り始める。チームの作戦として決めたことは絶対に守ってほしいという監督と選手間の約束を持ち出し、みんなの前で星野君の行動を咎める。『いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことには変わりはないんだ』『ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ』などと語り、星野君の大会への出場禁止を告げるシーンが展開する。」
この話は丁度、日大アメフト部の話や、女子レスリングの伊調薫選手へのパワハラ、またアマチュアボクシング協会の不正疑惑など最近湧き出すスポーツ界の闇と重なってくる。
この「星野君の二るい打」の原文は1947年8月に出版された吉田甲子太郎氏著であり、もともとは高校野球の地方予選決勝での話である。教科書(最初は国語の教科書)に掲載するにあたっては、その時代背景や小学生向けに編集することで、かなりの削除や書き換えが行われている。主人公の星野君は投手で三番打者、まさにチームの主力である。その星野君に監督は試合の翌日、甲子園での出場禁止処分を言い渡す。監督はその場面でこのように口火を切る。「星野君はいい投手だ。おしいと思う。」「(星野君を出場禁止にすることで)、ぼくらは甲子園の第一予選で負けることになるかもしれない。」と苦渋の決断であったことをチーム全員に伝える。
実は、この前段には監督就任時の選手たちとの約束が綴られている。「ぼくが、監督に就任するときに、君たちに話した言葉は、みんなおぼえていてくれるだろうな。ぼくは、君たちがぼくを監督として迎えることに賛成なら就任してもいい。校長からたのまれたというだけのことではいやだ。そうだったろう。大川君(キャプテン)。」(大川君強くうなずく)「そのとき、諸君は喜んで、僕を迎えてくれるといった。そこで、ぼくは野球部の規則は諸君と相談してきめる。しかし、一たん決めた以上は厳重に守ってもらうことにする。また試合のときなどに、チームの作戦として決めたことは、これに服従してもらわなければならないという話もした。諸君はこれにも快く賛成してくれた。その後、ぼくも気持ちよく諸君と練習を続けてきて、どうやら、僕らの野球部も少しずつ力がついてきたと思っている。だが、きのう、ぼくは面白くない経験をしたのだ。」という前置きの後に監督は処分を通告するのである。
これに関係した「福岡県教育センター」の道徳学習指導案を見つけた。これによると主題は「きまりはなんのために」ということである。事前の実態調査によると、「自分が損してまできまりを守ることはできない」と考えている子供が46%。「きまりは大切だが、きまりを破ることで結果が良くなるなら、時と場合による」と考える子供は38%。規則を守る根拠に利害・損得を上げる子供が54%いる半面、他者・相手の尊重を挙げる子供は27%、利便性とする子供は8%、秩序維持という答えが6%、紋きりの理解が5%と続く。最終的な狙いとしては「自分の力を発揮して活躍したい星野君の心情への共感」「監督の命令に背くことに後ろめたさを感じる星野君への共感」「翌日の監督の話をうつむいたままでいる星野君への共感」を通じて、「星野君が置かれている立場や状況を捉える力」「きまりを守ることはなぜ大切なのか、自分なりの根拠をもって明らかにし判断する力」を養うとしている。
最近の改版では最後のくだりが削られているが、このような場面で終わる。「星野はじっと涙をこらえていた。いちいち先生の言う通りだ。彼はこれまで自分がいい気になって、世の中に甘えていたことを、しみじみ感じた。『星野君、異存はあるまいな。』星野は涙で光った目を上げて強く答えた。『異存ありません。』」
今の時代感覚からすれば、この終わり方に強制力を感じる向きもあろう。しかし、1947年に発行された当時、作者が意図していたのは、監督が生徒たちに丁寧に段階を踏んで合意を取り付けていったステップがあり、戦時中とは違う民主主義的な態度を読み取らせようとしてしていると奈良女子大の功刀俊雄氏は解説している。監督の処分に、キャプテンの大川は「だけど、二塁打を打って、クラブを救ったんですから」と星野に助け船を出すが、監督は「ただ、勝てばいいのじゃないんだよ。」と集団としての統制、独善的ではない民主主義的思考、スポーツマンシップの精神を子供たちに注ぎ込もうとしている題材として意図されているようである。
小学校高学年は、まだまだ功名心や利己心や支配欲が強く、統制に従うとか、全体のために自己を抑える訓練が身に付いていない。競技などで勝敗に囚われて規則を尊重しない傾向もあることへの指導という色彩が強く出ている。これをして監督の自己の命令への絶対服従を子どもたちへ強いる「監督絶対主義」として前川氏のように全体主義、国家主義への誘導と取る論調もある。終戦後すぐの題材を現代に流用することの難しさがここにあるが、自己の主張を正当化するために一部を都合よく切り取って反論に使うという手法も古典的で狡さを感じる。
W杯予選の最終試合、ポーランド戦での最後の10分間のパス回しは日本中がと言っても大げさではないくらいに喧々諤々の意見や論調があった。私は個人個人の美意識に通ずるところがあって、それぞれの解釈をすればいいと思う。本戦でのベルギー戦で一時夢を見させてもらったサッカーファンは、ポーランド戦の西野監督の采配を是としていた人がかなり多かった。しかし、もしベルギー戦で一方的にやられていたと仮定すれば、予選で最後まで点を取りに行って、それで負けた方が良かった(花と散る)とする人が多かったのではないだろうか。西野監督は何としても決勝リーグに行くという目的のために賭けに出て賭けに勝った。星野君の場合も結果OKであったが、いつもそうとは限らない。いや、結果が出ないことの方が多いのではなかろうか。それゆえ、こういった話には花が咲く。「星野君の二るい打」の話は小学生のみならず、大人でも意見が分かれ、それを評価することなど、ナンセンスと考えるのは私だけだろうか。ひとつの題材を基に、色々な意見が出され、その中で共感があったり、他者からの学びがあったり、仲間への新しい発見があったり、それで十分である。