カルテは誰のものか?

企業退職後、気になる身体部位の相談に様々な医院を訪れた。内科、眼科、耳鼻科、整形外科、皮膚科、歯科といったところか。特段、劇的な改善があったわけではないが、心理的な安心感は得られたように記憶している。セカンドオピニオンを得るために、高校の同級生などの伝手を辿って、遠方へ足を伸ばしたこともある。会社員時代は毎年健康診断の指令が下された。検査前には断酒をしたり、油物を控えたり、今考えれば涙ぐましいというか、ほとんど意味のないことに気を遣っていたことが懐かしくも哀しくもある。多くの読者諸氏と同じく、生活習慣病などと診断され、高脂血症や尿酸の値を下げる薬を処方された。間断を繰り返し35年ほど薬と付き合ってきたが、このたび断薬の決断をした。

生活習慣病という名も不思議な感じだが、生活習慣が会社員時代と今のセミリタイアの生活とでは全く違っている。会社員時代は、仕事上の外部との付き合いであるとか、社内の懇親を意図した飲み会であるとか、仕事上のストレスを発散するための飲酒であるとか、それが高じて、飲まないと一日が終わらないといったまさに生活習慣が形作られていった。今はストレスなく、かつ酒量も落ちてきているし、ノンアルコールビールなどの技術革新もあり、アルコールに頼らない平穏な環境に身を置いている(相変わらず揚げ物は好きだが)。扶養義務も終え、夫婦共々それぞれの自分たちの時間を自由に使える生活を謳歌できている。
まあ、この歳になれば様々な身体上の衰えを感じるばかりでなく、生活上の違和感も大いに感じるが、完治ということは期待できず、騙し騙し余生を生きていくしかないという諦観に達する。痛みなく生を終えることができれば幸甚であると思うのみである。

マイナンバーカード(マイナカード)の交付が始まったのは10年前の2016年1月である。2024年12月には従来の健康保険証の新規発行を終了し、マイナ保険証へ移行された。
マイナ保険証を利用する最大のメリットは、過去の薬や健康診断のデータが医師・薬剤師と共有され、より適切で安全な医療を受けられる点にある。ほかにも手続きの簡略化や費用の面など、受診者にとって以下5つの利点があるとされる。
➀より良い医療の提供: 医師・薬剤師と過去の薬や特定健診情報が共有され、安全な診療を受けられる。
➁高額な窓口支払いの免除: 事前の手続きなしで、自動的に自己負担限度額までの支払いに抑えられる。
➂確定申告が簡単に: マイナポータルと医療費データが自動連携され、医療費控除申請がスムーズになる。
➃窓口負担が少し安くなる: 従来の保険証より、初診料や再診料が数十円ほど安くなる。
➄更新手続きが不要: 転職や引越しでもカードをそのまま使え、新しい保険証の到着を待つ必要がない。

筆者も積極的にマイナ保険証使用時には、医療情報の提供への同意を選択している。実際、遠隔地で医療を受けた時に過去の治療の履歴を医師が見られたことで、スムーズな受診を受けられた経験がある。
医師同士の情報共有にはそういった利点があり、受診者にもメリットがあるのは確かであろう。一方、カルテなどの治療履歴は誰のものなのか気になる。というのも、自身のカルテを見たこともないし、簡単に自身の治療履歴を知りたくても容易に知る手段がないことに気付かされた。
調べてみると、自分のカルテを確認したい場合、主に「病院の窓口で開示請求をする方法」と、スマホなどから手軽に見られる「マイナポータルで確認する方法」の2つの選択肢があるとのこと。前者は申請から発効まで約2週間かかり、実費(コピーや画像データのCD等)もかかる。後者は確認できることに制約があり、処方薬や健康診断の結果、医療費の明細くらいが現時点での状況であり、カルテの内容を見ることはできない。

欧米やシンガポールでは、電子カルテの普及が進んでいて、ほぼ100%に達しているようである。そして医療情報は「病院のもの」ではなく、「患者本人のもの」という権利意識が高いということもあり、カルテの閲覧が可能になっている。日本では診療所などではまだ紙のカルテや連携不足が残っていることに加え、欧米のようにカルテは患者自身のものであるという意識が十分形成されていないように思われる。
アメリカでは21st Century Cures Actが2016年12月に発効し、科学的研究のための資金提供や、迅速な医薬品承認を支援している。医療データの点では、「患者ポータル」が普及しており、医師のカルテの記述、診査結果、処方箋をリアルタイムで無料閲覧できる仕組みがある。また、患者や医師が電子健康記録を簡単に共有できるよう、情報の囲い込み(情報ブロッキング)を禁止している。正当な理由なく患者へのデータ提供を遅らせたり、拒んだりする行為は、医療機関やシステムベンダーに厳しいペナルティが科されるようになっている(最大100万ドル)。
EUではEHDS(European Health Data Space:欧州ヘルスデータスペース)法案が2024年に成立しており、EU内でのデータ共有と閲覧の仕組みの整備が進んでいる。イギリスはNHS(National Health Service:国民保健サービス)が1948年に設立されており、税金を主な財源として全国民に医療サービスを原則無料で提供する公費負担医療制度がある。NHS Appが普及していて情報へのアクセスは問題ないが、長引く財政難と深刻な医療従事者不足による慢性的な受診・入院の待ち時間長期化が問題となっている。専門医の診察や手術を受けるための待機リスト(Waiting list)に何百万人もが並び、治療が必要な時期に受けられないケースが増えていると報道されている。

日本でも遅ればせながら、全国の医療機関で「電子カルテ情報共有サービス」の本格運用に向けた準備が進められている。今冬頃の開始を目指して、モデル事業での検証や現場の負担軽減をふまえた仕様の見直しが行われている。これが全国展開されると、医師が書いた傷病名やアレルギー情報、一部の検査結果などが、マイナポータルを通じて順次患者自身の手元で確認できるようになる。こういったニュースや国会での議論をこれまで目にしたことはなかった。今回自分で調べてみてわかったことだが、20年以上前からの関係者の活動によって漸く実現する仕組みなのである(2003年5月に個人情報保護法が成立して、カルテ開示は医療機関の法律上の義務になった:http://www.iryo-kihonho.net/disclosure_medicalrecords)。メディアの怠慢なのか、国民の関心が薄かったのか? 少なくとも高齢者の身になった私としては自身の医療情報が自宅で確認できるような仕組みを早く実現して欲しいものだと大いに期待している。遅まきながら関係者のご努力に敬意を表する次第である。

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