時間の始まり

最近、時計をしなくなった。スマホには常に時間が表示されていることも理由ではあるが、そもそも身体に何かつけることが好きではない。店のテーブルにつけば、時計は外して時間が見えるように置いておく。用事が終われば、また時計をはめるが、シャツの裾に触れて擦れてしまうことがとても気にいらない。
会社勤めをしているときは、時間に追われるようにスケジュールをこなしていた。時計をしている、していないにかかわらず、勤め人はいつも時間を気にして過ごしているのではないだろうか。
太古の人間は太陽が昇ったら起きて、食べ物などを調達しに出かけ、太陽が沈んだら家路(洞窟だろうか)につく生活をしていた。真っ暗になってしまっては、獲物は見えないし、猛獣に襲われてしまうかもしれない、生死がかかっていた。人間が明かりを手にしたのは、100万年前くらいであろうか。初期の人類は自然に発生した火を利用して、獣除けや暖を取ることに役立てていたようである。少しずつ人間の生活活動時間が拡張していったことが想像できる。

時計が発明されたのは、紀元前3000~4000年のエジプトで日時計が最初とされる。人間が狩猟生活から農耕生活へと移行し、集団で規則正しく行動する必要が生じたという社会的な変化が促したようである。農耕社会では「いつ種をまき、いつ収穫するか」を正確に知ることが生存に直結していた。王が支配していたエジプトでは、時計は作業員の労働時間を計測するために使われていたと考えられている。その後、太陽が出なくても時間がわかるように水時計や砂時計が考案されていった。イスラム教では1日5回のお祈りの時間を知らせるのはモスクから流れるアザーンであるが、こうした宗教的な儀式にも使われていったのであろう。
中世ヨーロッパでは1300年代に機械式時計が登場し、1600年代の振り子時計の発明によって、精度が飛躍的に向上した。1500年代にはゼンマイの発明により、懐中時計ができて、持ち歩きが可能になった。19世紀末には腕時計を最初に軍人が戦地で使い始めたことで普及し、今に至っている。ちなみにクオーツ時計は世界で初めてセイコーが開発したもので、安くて正確な時計が世界中に広まるきっかけとなった。

時計の誕生は必然的なものだったかもしれないが、人間を自然の時間による生活から人為的な生活時間へ変える役目を果たした道具である。大げさに言えば、人間が自然から自立し始めた時と言えるかもしれない。農耕社会での作業は、多くの人間にとって秩序を強いることにつながったと言える。産業革命の到来により、多くの人間が製造業に吸い込まれて行き、取れ高を収穫としていた農業から時間給という収入の指標に変わっていったことが近代社会の顕著な変化であろう。今でも多くの人が「タイパ」を求め、動画視聴は1.5倍速はおろか、2倍速が若者の間では普通だという。単純に考えれば、作業を加速化すると、経験できることが増える。私も若い時分は「生き急いでいた」と今になって思う。人間いつまで生きられるかは誰もわからないので、人より早く、人より多くを求めるものかもしれないが、この歳になって思うのは、もっとゆったり生きてくればよかったと思う。「忙しい」とは心が亡ぶと書く。効率化によって人間が疲弊しているのではと様々なニュースを聞いて感じる。時間の奴隷になってしまってはいけないと思う。身体的にも精神的にもゆとりが今の時代は必要であろうと思う。今思うことは、「時間に縛られないことが人生にとって最大の贅沢である」ということである。それによって精神の平穏を保つことができる。

時間感覚は人によって様々である。幼児は新しい経験ばかりで、時間の感覚はほとんど持ち合わせていないであろう。眠くなれば寝るし、興味が湧くことに出会えば、寝食を忘れて無心に遊ぶ。大人になると繰り返し経験の継続が続き、時間を早く感じるようになる。「あぁ、もう一年経ったか、早いなぁ」は年寄りの口癖と言っていい。退屈だと時間は長く感じるし、忙しいと早く感じる。苦しければ時間は長く感じるし、楽しければ時間は早く感じる。

量子力学では時間を「背景」として扱い、実在はしないという見方が大勢を占めている。シュレーディンガー方程式では時間の進む向き(過去→未来)と逆向き(未来→過去)の区別をしておらず、物理法則はどちらの方向でも成立するとしている。宇宙全体を量子力学的に記述しようとすると、時間という概念は含まれず、「状態は時間とともに変化せず、最初から決まっている(ブーロック・ユニバース)」という解釈をホイーラー・ドウィット方程式ではしている。
人間が感じている時間の流れは、外の世界にあるのではなく、脳が物理的な変化(記録)を「過去から未来への物語」として紡ぎ出している感覚そのものという見方ができるのかもしれない。
宇宙は138億年前に極小の点からインフレーション(急膨張)を経てビッグバンにより誕生したとされている。始まりがあれば終わりがあると考えるのは我々の常識なので、時間という概念は不要だとされると途端に理解が追い付かなくなる。
一神教(キリスト教、イスラム教、ユダヤ教)では、基本的に人は一度死ぬと神の審判を受け、天国や地獄へ行くとされるため、始まりと終わりははっきりしている。しかし、インド発祥のヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教に深く根付いている輪廻転生(死後に別の姿で生まれ変わる)の思想は、解脱する以外には「上がり」がない繰り返しの世界である。
仏教でいうところの「生老病死」は人生の始まりと終わりを明示しているが、人の死は親族に限らず、多くの人に影響を与えるという意味において、人の死が終わりとは簡単に片づけられない気がする。
時間とは終わりのない円なのか、終わりが来る直線なのか、時間は存在するのか、人間の脳による創造物なのか、時間の制約から解き放たれた今、考えてみる余裕のある生活ができていることに幸せを感じている。

コメント

  1. 小山勝彦 より:

    時間てなんだろう?

  2. 小山勝彦 より:

    時計は好きです‼️英国博物館で時計を見ました‼️日時計砂時計他、楽しかった‼️

  3. 小山勝彦 より:

    今日、初めてスマホでブログを見させて頂きました意外に読みやすく良かった‼️私も会社辞めてから時計着けません(笑)自宅に置いたままにしていたらリューズが固まって動きません(笑)