如来・菩薩・明王・天部

2019年12月22日 at 5:51 午前

先日、親父の七回忌を終えた。特段、仏教信者ではないし、神道に帰依しているというわけでもない。「普通」の日本人のように無宗教の空間に暮らしている。俗に葬式仏教だとか、正月は神社にお参りするだとか、年末になれば何となくクリスマスを祝う。そういった意味での「普通」の日本人である。海外に行くと、無宗教というのは、一般には信じられない存在で、「特に宗教はないけど」などというとエイリアンのように思われたものだ。それゆえ、キリスト教だとか、ユダヤ教だとか、昨今ではイスラム教がかなり台頭しているので、表面的には勉強もし、スンニ派とシーア派の違いや、なぜに反目しあうのか、偶像破壊をする連中はどういったドグマに侵されているのか等、国際政治の一端を知る上で教養としての知識は身に着けたつもりではいる。

しかし、考えてみれば仏教も色々な宗派があり、何が同じで、何が違うのか、あまりわかっていない。歴史上、宗派間で争ったということも聞いていない。実家の菩提寺は浄土宗であるが、時折、浄土宗だったか、浄土真宗だったか、度忘れする程度の宗教観と実生活においての距離感がある。年をそれなりに取り、神社仏閣に何となくノスタルジアを感じ、地方都市に行った時でも時間があれば足が向かうことも少なくない。その際に仏像や曼荼羅などの仏教美術を見る機会も多い。漸くもう一歩踏み込んで仏教を勉強してみようと思い立ったのは最近のことであるが、少々の知識を持ってそれら仏教芸術を見てみると、より深い古(いにしえ)の先人の想いに近づけるような気がする。

仏教は釈迦を開祖とする宗教であるがゆえに、釈迦が最上位に位置するものと思いがちだが、釈迦には師がいる。それが阿弥陀如来である。有名なのは鎌倉大仏で、西方にある極楽浄土という仏国土に住んでおられ、多くの仏教では最も優れた仏とされている。東方には薬師如来が浄瑠璃世界の教主として、衆生の病苦を救い、無明(煩悩の苦しみ)を癒してくださる仏がいるとされる。そもそも仏とは何ぞや。仏とは悟りを開いた人で52段階ある菩薩五十二位の最上位(妙覚)に位置する。他には大日如来がおられる。大日如来は両界曼荼羅(金剛界と胎蔵界)の中心となる仏で、密教においては毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ:奈良東大寺の大仏)が発展した如来である。ここでは釈迦は毘盧遮那仏の仮の姿とされるので、大日如来も釈迦ということになるでしょう。いずれにせよ、釈迦以外は抽象的な概念の仏ですから、実在していたわけではありません。

それでは密教とは何か? 密教とは顕教(けんぎょう)と対比される「教義や作法について神秘的な要素が多い秘密の教え」で、後期大乗仏教である空海を開祖とする真言宗や、最澄によって日本に伝えられた天台宗などが、その代表例です。その思想の構造を曼荼羅などの図像によって宇宙の本質や真理を表しています。即身成仏(修行者が肉身のまま悟りの境地に達する行)や阿闍梨(一定期間の修行を経て授かる宗派の認定資格者)などが良く知られた言葉でしょう。

浄土宗に話を戻します。実家の仏壇には中央に阿弥陀如来、向かって右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩が祀られていました。観音菩薩は慈悲を、勢至菩薩(合掌した姿)は智慧を象徴する菩薩で、中央のご本尊が人々をお救いになるのを助ける菩薩です。菩薩は先述の菩薩五十二位の51位以下に位置する修行中の階位にあたります。その中でも文殊菩薩、弥勒菩薩、観音菩薩などはよく知られている菩薩です。ちなみに弥勒菩薩は51位(等覚)の位置付けで、次にブッダとなることが約束された菩薩ですが、それは釈迦入滅後56億7千万年後というとてつもない時間がかかるとされています。千手観音も有名ですが、これは観音菩薩の変化身(へんげしん)とされており、40本の手がそれぞれ天上界から地獄までの25の世界を救うといわれています。

密教の仏閣には鬼の形相をした明王も多く見かけます。明王は密教において如来の変化身とされます。如来は穏やかな表情をしていますが、仏の教えに従順でない者たちに対しては恐ろしい憤怒の姿形を現して教化する仏として存在します。一般には五大明王が有名ですが、その中でも不動明王はその中心に位置し、「お不動さん」などと呼ばれ親しまれています。

浅草に行けば、帝釈天などまた別の信仰の対象となる神さんがおられます。七福神に代表される恵比寿・大黒天・福禄寿・毘沙門天・布袋・寿老人・弁財天は、それぞれが神道、ヒンドゥー教、道教、仏教、など様々な背景を持っている神を、室町時代に「竹林の七賢人」に見立てて集めたもので、まさに多神教の国ならではのオールスター総出といった様相です。
梵天、帝釈天、吉祥天、弁才天、伎芸天、鬼子母神、大黒天、四天王、竜王、夜叉、聖天、金剛力士、韋駄天、天龍八部衆、十二神将、二十八部衆などは仏教において天界に住む者の総称として天部と呼ばれます。仏教で言うところの六道(りくどう:天界道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)の最上界に住んでいますが、煩悩から解き放たれておらず、仏教に出会うこともないため解脱も出来ません。死を迎えれば、一般の衆生(しゅじょう)と同様に輪廻転生により六道を行き来する存在です。そもそもは古代インドの神々でしたが、好戦的な神も多く、仏教では仏法の守護神として位置づけられました。弁財天や大黒天など現世利益的な信仰を集めるものもあります。

以上を整理をすると、如来は仏教の最終地点である悟りの境地に至った者を意味します。菩薩は悟りに至るために精進する者や、人々が悟りに至ることをサポートする者を指します。菩薩は仏教芸術的にはきらびやかな服装や装飾品を身に付けることがありますが、これはまだ悟りに至っていないことを表現しているものです。明王は大日如来の変化身であり、密教の教えに素直に従わない者を激しく説き伏せることで悟りへの正しい道へ導こうとする存在です。天部は仏教の世界に煩悩が侵入することを防ぎ、人々が悟りに至ることを応援する存在です。そのため、四天王や金剛力士は寺院の山門や入り口に安置されることが多いのです。天部に共通する特徴としては、甲冑や剣などで武装する姿です。煩悩の象徴である邪鬼を追い払うために武装し、にらみを利かせているのです。

最後に、「天上天下唯我独尊」という言葉で締めくくりましょう。釈迦が誕生したとき、右手で天を指し、左手で大地を指して「天上天下唯我独尊」と唱えたとされます。言葉尻からすると随分不遜な言葉だなあと感じます。しかし、一般に「この世で自分ほど偉いものはいない」と解釈するのは誤解曲解で、本来は次のような意味だそうです。
「天上天下」とは、天の上にも天の下にも、ということで、大宇宙広しといえども、という意味です。「唯我」とは、六道の中で、ただ私たち人間に生まれた(人間道)ときだけ、ということです。「独尊」とは、たった一つの尊い使命がある、ということです。「唯我独尊」とは、「私たち人間に生まれなければ果たすことのできない、たった一つの究極の目的がある」という意味です。つまり、「人間に生まれたときにしかできないこと」を「自分自身で考えて生きる」と解釈します。

長い歴史の荒波に揉まれながら、後世に伝えられてきた教えには、その風雪に耐え、磨き抜かれた真理があります。しかし、その宗教の威を借りて人心をコントロールしようという人々もいます。先人の教えに自ら直接向き合い、人間として生まれなければ果たすことのできないことをひとつでも実行していきたいものです。六十にして耳順う。。。