一人殺せば殺人者、100万人殺せば英雄になる

2019年9月1日 at 4:09 PM

チャップリンの映画「殺人狂時代」(1947年)で、チャップリン演じる殺人犯が死刑判決のシーンで叫んだ有名なセリフである。原文は One murder makes a villain, millions a hero. Numbers sanctify. 〆には「数が殺人を神聖化する」と続く。この映画は第二次世界大戦の勝利に酔っていたアメリカを強烈に皮肉ったものだ。当時アメリカを覆っていた恐怖のレッドパージ(赤狩り)によってチャップリンは追われる身となり、事実上の国外追放によりスイスに移住することとなる。遡ること7年前ナチスが台頭する戦中に製作された「独裁者」(1940年)では、恐怖によって世界を征服しようと企むヒトラーを容赦なく「滑稽な愚人」として強烈な風刺をもって描いた。激怒したヒトラーが、ナチス全軍にチャップリンの殺害を命令したという。

殺し合いによる大量死者というと多くの人の頭には2つの世界大戦が過るものと思う。第二次世界大戦における死者数は5000万〜8000万人とされ(民間人3800万〜5500万人、軍人2200万〜2500万人という統計数字がある)、第一次世界大戦のそれは3700万人と言われている。想像を絶する恐るべき数字である。

多くの悲惨な国家間の戦争を経て、人類は「ハーグ法」(1910)や「ジュネーブ法」(1949)を制定し国際人道法を確立してきた。戦争による殺人の法的建付けはどうなっているかというと、政府の正規軍等が戦時国際法の規定の範囲で戦闘行為を行い、その結果人を殺しても個人の法的責任は免責とされている。 ただし、戦闘員と言えどもどんな殺人を犯してもよいと規定されているわけではなく、必要性・必然性の無い殺人を行った場合は罪に問われる。また政府軍・正規軍であろうが、正当性を著しく欠く殺人を行うと人道に対する罪に問われ裁かれることになる。 しかし、戦時自体が異常な狂気の状態であって、後に戦勝国が敗戦国を裁く形は変わらない。生死の狭間で戦闘を行う戦闘員にしても、その巻き添えを食う民間人にしても、一挙手一投足を法に照らして行動できるわけはない。戦争による殺人の適法性とは、そもそも戦闘そのものの適法性に関わるが、これは(法)哲学の領域であって、これまでも、そして今でも、そして将来も、世界が一つの国家にならない限り明確になることはない。

なぜ戦時における戦闘員の殺人行為が免責になるのかといえば、国家の正当防衛や緊急避難にあたるというのが、その解釈である。これにより戦時においては殺人罪という違法性が阻却されるのである。戦時国際法では、「文民や民用物が巻き添えになることは不可避であるが、攻撃実行にあたっては、その巻き添えが最小限になるように努力し、攻撃によって得られる軍事的利益と巻き添えとなる被害の比例性原則に基づいて行われなければならない 」とある。文字通り解釈すれば「核攻撃」なるものは手段として正当化されない。事実上の核保有国は増えているが、使用可能性はゼロではないものの、事実上凍結された兵器である。日本への原爆投下を密約したF・ルーズベルトとチャーチルの判断は決して正当化されるものではない。しかし、彼らは戦勝国ゆえ裁かれる立場になかったということは歴史の大きな教訓のひとつである(ちなみにアイゼンハワー将軍は、原爆使用は不要である旨、トルーマンに進言していたし、多くの軍人がそれに同調していたことがのちにわかっている)。

現在では全ての国において、殺人は重罪である。全ての宗教も殺人を禁忌している。しかし、戦争は他国との交戦であるので正当化され、宗教は他宗教との聖戦(ジハード)によって異教徒を殺すことを正当化している。ところが、現代戦争は国家のみで行われることばかりとは言えなくなり、「テロ」という名の個人や組織による殺戮も起きるようになってきた。戦時国際法は国家間戦争を対象にしているが、そういった国家間以外の「戦い」には残念ながら無力・無効である。また、国家司法制度による死刑にしても、その正当性が十分かと言えば、昨今大きく揺らいできていると言わざるを得ない。実際、時の政権が国民の支持を失い交代すると、前政権にはそもそも正当性がなかったとして、死刑執行命令を出したことも違法な行為だったとして、遡って以前の権力者が殺人罪に問われ裁かれることもある。

大量殺戮の歴史は戦争だけではない。毛沢東6000~7800万人、スターリン2000~2300万人、ヒトラー1100~1700万人、反体制分子や人種差別によって無残にも命を奪われた人々の数もおびただしい数に及ぶ。今は情報技術やSNSの進展により、国家は安寧を図るために危険分子を選別するための監視社会へとひた走り、国家発信・個人発信問わず情報隠蔽やフェイクニュースが社会を駆け巡る時代となった。自由民主主義・社会主義問わずSNSという人々の権利に国家も脅かされ、国家と個人の関係性も先鋭化している。国家間、国内の境を飛び越えてテロや全体主義の導火線が飛散しているとも言える。

手元にある日本の某団体が100人に調査したアンケート結果がある。「人を殺せば罪になりますが、戦争では罪にならないことをどう思いますか?」(複数選択)⇒結果は「根本的におかしい」(54)、「人類が未熟」(34)、「戦争なら仕方がない 」(16)、「命は絶対的価値ではない」(14)、「戦争なら当然」(10)、「その他」(14)。半数以上が「根本的におかしい」と答えたのは、人々が以前よりも国家に守られている、守られるべきという意識や精神構造が明らかに変貌したことを伺わせる。もはや戦時国際法も人権に目覚めた人々の支持を得ることは出来なくなっていると考えるべきではないだろうか。

国家も個人も「正当防衛」を主張するということは詰まるところどういうことなのか? それはつまり個々の人権を認めるということではないか。個々の人権を何人も国家も侵すことが出来ないと考えるのが自然ではないだろうか。であれば、結局あらゆる殺人は正当化できないという結論になりはしないか。過度に国家に背を向ける必要はないが、人権を最上位に位置付けるのであれば、理由はどうであれ、全ての殺人は正当化されるべきではない。国家も組織も個人の人権を守るという大前提に立って、これからの社会を構築していかなければ、人類の明るい未来はないと考えるのは甘いであろうか。少なくとも100万人殺せば英雄になるというような時代はご免である。