憲法改正を阻むものは何か

2018年2月1日 at 6:19 PM

前回に引き続いて日本の安全保障について書きたい。なぜならどのような私的公的活動を行うにしても人は国家の基盤がなければ、何一つ立ち行かない存在だからである。ビジネスも日本の会社ということで大いに信用されうる下地を得ていよう。個人で海外旅行をしますといっても日本国発行のパスポートがあればこそ、世界中ほとんど国を旅することができる。闇市場で日本国パスポートが高値(20~100万円?)で売買される所以である(ICチップの埋め込みによって昨今は取引は困難になってきていると言われる)。
現日本国憲法は1947年5月3日に施行された。今でも5月3日は憲法記念日の祝日である。ゴールデン・ウィークの陰に隠れてしまい、改めて「現行憲法」とは何か、大丈夫なのかと問う人は少数かもしれない。しかし、今年は憲法改正の発議が行われるであろう重要な年である。
教科書で全ての日本国民が習ったであろう、日本国憲法を特徴付ける三大要素とは「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つである。
日本は1945年8月14日にポツダム宣言を受諾してから、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効するまでの7年間弱、主権を失っている。ちなみに2013年に第2次安倍内閣によって4月28日は「主権回復の日」とされたが、ほとんどの日本人は知らないのではないだろうか。
現行憲法は日本の主権が失われていた時期に施行されていることを日本人は十分再認識すべきであると思う。1945年9月29日に発令された「新聞と言論の自由に関する新措置」によって、連合国に不都合な記事はすべて封じ込められた。現行憲法はGHQの押し付けではない、日本人が起草したものだとしか言えなかった時代である。にもかかわらず、施行されてから一度も改正されていない現行憲法は、世界最古として憲法学者の間ではよく知られている。同じ敗戦国のドイツは58回、フランス27回、カナダ18回、イタリア15回、アメリカ6回、憲法改正を行っている。時代が変われば憲法を変えるのは決しておかしいことではない。
1946年2月13日に日本政府に提示された「マッカーサー草案」は、2月21日に幣原喜重郎首相がマッカーサーと会見し、「マッカーサー草案」の意向について確認。翌22日の閣議で、受け入れを決定した。マッカーサー草案を手交された場において「案を飲まなければ天皇を軍事裁判にかける」などと脅され、48時間以内の回答を迫られた結果の受け入れである。
こういった経緯で成立した現行憲法を改正することに何の躊躇もいらないと思うが、「どう変えるか」で改憲派の中でも合意が取れない状況にある。しかし、大国覇権宣言をしている中国と、今や方針不明な行き当たりばったりのアメリカに挟まれ、さらに小国と言えども今や核を手にした(北)朝鮮(韓国と統一されることがあっても一度手にした核は手放さない)を隣国に置く日本が自衛を行使することも十分に儘ならない現行憲法で良いと考える日本人は少数派なのではないだろうか。
自民党は2005年11月22日付け新綱領で「新しい憲法の制定を:私たちは近い将来、自立した国民意識のもとで新しい憲法が制定されるよう、国民合意の形成に努めます」と謳っている。安倍首相の祖父である第3代自民党総裁の岸信介は60年安保を命懸けで成立させたが、現行憲法の矛盾を嘆いていた。その孫、第25代自民党総裁の安倍晋三は憲法改正を悲願に政治家になり、その本懐を果たそうとしている。いまでも映像が蘇ってくるが、安倍一次内閣は2007年9月12日、特定疾患である「潰瘍性大腸炎」により退陣声明を行った。当時は病名も明らかにされず、私も「なんと無責任か」と思ったし、その5年後の2012年の総裁選再出馬には「冗談でしょ。自分で辞めた人がまた出るの?」と非難したものである(しかし、在任中に教育基本法の改正と国民投票法を成立させ、真の独立国家への道を着実に進めてきた)。今は、憲法改正に向けて心から応援している。
標題の「憲法改正を阻むものは何か」という問いには、やはりGHQの占領政策に遡ってしまう。まずは日本の無力化(武力放棄)、そして愚民化という名のアメリカ同調化が中心にある。武力放棄は徹底した軍国主義の排除、それゆえ話題の憲法9条の存在がある。じつはこの9条は沖縄の米軍基地化とセットであって、当時脅威であった共産主義勢力(ソ連)と対峙するためにアメリカとしてはどうしても必要なもので、その時は日本が軍事的無力であるべきことに何の疑いも無かった。しかしその後、1950年朝鮮戦争が勃発し、GHQは日本に警察予備隊の組織化を要請(その後、1954年に自衛隊に改組)、実質的に軍隊を有する国に日本をしてしまったのは他ならぬアメリカであった。しかしながら、現行憲法により放棄しているはずの軍隊が組織されてしまったので、憲法学者はこの矛盾する憲法9条と現実の自衛隊の並立を「憲法解釈」という名でしのぎ運用してきた。その長い辻褄合わせの結果、自らその明々白々な矛盾を吐露することができなくなってしまい、多くの憲法学者が「護憲」という砦に入り込んで、その立場に馴染んでしまった(巣喰われてしまった)。自主憲法制定を党是に掲げる自民党の中でさえ、「平和憲法」が日本の平和に寄与したと思い込ませるほど時間と議論を浪費してしまった。
そもそも主権とは「領土・領海を他国に侵されない、自国民の生命と財産を守る、自国の事は自国民で決めることができる」ということである。香港は1997年イギリスから中華人民共和国に返還され、一国二制度の原理の下、特別行政区になったが、今や「本土」の意向に反する行動や思想さえも制限されてきている。習近平政権下では台湾もその対象として、2049年(中華人民共和国100周年)までにはと、その視野に入れているのである。
現行憲法9条2項では「交戦権」も放棄している。交戦権とは、国際法上、戦争において害敵手段の行使や傷病者・捕虜・文民の取扱い等に関する交戦国の種々の権利の総称を言い、国際法上認められた権利である。交戦権があれば、人を殺しても殺人罪には問われない。交戦権を否定すれば、殺人罪になる。他国が攻めてきて家族が殺されることがあっても、その相手を殺めれば殺人罪になる。これが交戦権の放棄という意味なのである。現行憲法は「戦わない、他国にすがれ」という憲法。独立国家のそれではないし、これでは国民を守れない。それでは人権を失うという現実がわかっていない。つまり、国民主権と言いながら、現憲法はそれを否定しているのである。
そして、もうひとつは、反権力こそが自らの仕事と思い込み思考停止状態にある多くのメディアなのであるが、これに触れると長くなるので割愛。
今年は明治150年である(1868)~。明治維新は尊王攘夷から始まって、激しい議論と血を流す戦い(無血開城などと言われているが、その経緯では多くの血が流れた)を経て、開国の道を進み、清のような半植民地にならずに、近代国家への階段を日本は駆け上ることができた。憲法改正ができなければ、日本は150年後には無くなってしまっているかもしれない(中国の属国)。それで良いわけはない。ソ連は69年で幕を閉じた。日本は敗戦後72年、主権を回復して66年。遅きに失したが、手遅れではない。可及的速やかに真の独立国家になる年の幕開けにしたいと心から思う。