日本人の心に脈々と流れる武士道精神

2017年9月8日 at 11:54 AM

「武士道」の解説書で有名なのは、五千円札の肖像となった新渡戸稲造の書いたものであるが、これは欧米に日本文化を正しく理解してもらおうとアメリカにおいて1900年に英語で刊行されたものであり、後に和訳されたものを日本人が読むことになったものである。ゆえに本来的に武士道精神の神髄を語ったものではない。
武士の誕生は平安時代後期と言われるが、その当時は「もののふ」などと呼ばれ、幼い頃から武芸に勤しみ、いまでも行事として残る流鏑馬などの技量が秀でた侍が称賛されていました。もう一面は「一所懸命」に代表される命を懸けて領地を守る、ゆえにそこで開墾している農民から安心料としての年貢を徴収する正当性を持っていました。そして武士の名誉として、決して避けることのできない一度きりの死を、主君のために戦場で華々しく散ることが最上の美学とされました。病床にあった前田利家は関ケ原の合戦の前に「畳の上で死ぬのは無念だ」と叫んで死んでいったと言われています。
武士道を語る上で基になるのは甲州武田家の「甲陽軍鑑」です。隆盛を誇っていた武田軍が、なぜ長篠の戦(1575)で敗れたのか、それまでの来し方を見直し、あるべき武士の姿と、あってはならない卑怯未練、こびへつらう者がお家を食い潰していくことを自己批判の筆で書かれています。
さらに武士の内面に対して目を向けたのが「諸家評定」(1621)で、そこでは「意地」(原文は意路)が語られています。意地のない人間は、一時の褒美、あるいはその時の権力のありようによって、風見鶏のごとく態度を変える。これらは外面的な利益誘導に動く人間であり、武士道においてはあるまじき姿であると断じています。「勇」という概念が勇猛果敢という武力の意味合いから、武士の心構えといった精神面に焦点があたるようになってきます。
「可笑記」(1640年前後)では、さらに人間の普遍的道徳性を定義するようになります。つまり武士とは「嘘をつかず、軽薄をせず、佞人(こびへつらう人)ならず、表裏をいわず、胴欲ならず、不礼ならず、物毎自慢せず、人を譏らず(そしらず)、不奉公ならず、朋輩の中よく、大方の事をば気にかけず、互ひに念比(ねんごろ)にして人を取たて、慈悲深く、義理の強きを肝要と心得べし、命をしまぬ計(ばかり)をよき侍とはいはず」といった徳義を磨き、涵養することが武士の心得であるとしています。
大坂夏の陣は1615年に終わり、いわゆる徳川大平の時代に入ります。戦が仕事の武士たちには本来の仕事がなくなってしまいます。天下泰平の時代にあっては、戦がないのですから、農民から年貢を取り立てる大義名分がなくなってしまいます。そこで武士たちが進出していった先は行財政にまつわる役職です。金勘定などは武士が最も軽蔑していた職務でしたが、「勘定奉行」で算盤・帳簿付けを行ったり、町奉行、大目付、大番頭、寺社奉行などの行財政職に就くようになります。そういった職務に就かなくても禄とか知行といった給与はもらえるのですが、次第に行財政職に就いていないものは「無役」と記されて、まるで「役立たず」のように言われはじめます。時代劇でよく出てくる傘張り浪人はまさに1700年前後の武士の生活を表しているようです。
三島由紀夫が愛読したとされる「葉隠」(1716)では、「忠義」について語られます。主君の命とあるならば、理も非もなく、まずもって慎んで承るべきであると書いた一方で、自分の心に照らして得心がいかないことは、いつまでも訴えるべしとしています。「本当にそれでよろしいのでしょうか?」「別のお考えはありませんでしょうか?」「ご再考の余地はございませんでしょうか?」と何度でも訴えかけることが大事であり、ただ黙って従うことが忠義の所以ではないと説いています。実際、この当時は「主君押込」という慣行があって、家臣の諫言をもってしても、主君の暴虐が治まらない場合には、家臣の手によって主君の身柄を拘束して、座敷牢に投ずることがあったそうです。そして、その後も家老などの重臣たちによって説得は続き、長い時間を掛けて再出勤に至ることもあったそうです。再出勤ののちに不幸にも押込した家臣たちを手打ちにすることもあったようですが、家臣としては「即隠居」という手段も取れましたが、命を懸けてお家に対する忠義を貫いていたことが伺えます。
嘘八百は江戸の町の代名詞ですが、「武士に二言なし」と言われるように、武士は信義を貫いて必ず約束を守るというプライドを維持していました。こういった武士の希少性とも言える価値観が、徐々に商人にも広がり、近江商人のような「三方良し」の商人哲学に通じたものと考えられます。商業手形や先物取引といった信用商売も江戸時代には行われていたという記録が残っています。そして一般庶民には通俗武者絵本などを通じて、牛若丸や弁慶の話、義経や静御前の話、義経の壇ノ浦での活躍などが娯楽として浸透し、歌舞伎や浄瑠璃などの大衆文化に結実して、武士道の精神が一般庶民にも広がっていきます。
冒頭の新渡戸の「武士道」は明治時代に入って、刊行されました。日本は日清・日露の戦争を勝ち抜くことによって欧米列強と肩を並べる近代国家に位置付けられていきますが、その過程で、「葉隠」の有名な一節「武士道といふは死ぬことと見つけたり」の本来の意味が消し去られ、国家のために死ぬことが名誉であるという風に利用されてしまった感があります。
「甲陽軍鑑」や「葉隠」が説く強い組織の根本は、内部の人間一人一人が自立しているということを求めています。組織の全員が事なかれ主義で、組織の方向性に何らかの間違いがあっても、保身のために見て見ぬふりをするようであれば、組織は必ず崩壊します。不正を内部から浄化できない企業が報道される度に思います。
(「武士道の精神史」笠谷和比古著 読了後)