高市政権になり、国論を二分する政策に着手するという宣言がなされた。国論を二分する政策とは紛れもなく「憲法改正」である。護憲か改憲かの論議であると同時に何を変え、何を変えないかの議論である。それに関連して「安全保障」の問題、端的に言えば「非核三原則」(1967年に佐藤栄作首相が国会で表明した日本の「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という政治方針)の見直しである。目的はどうやって日本の領土と国民の生命と安全を守るかということである。また、皇室を安定的に維持するための皇室典範改正も重要な案件で、憲法における天皇の位置づけや国体に関わる問題を包含している。これらの問題を正視して取り組むためには、太平洋戦争における日本の敗戦を総括する必要がある。それがなされていないために「国論を二分する」政策になっていると私は考えるからである。
16世紀に始まる「大航海時代」は、貴金属(金・銀)の略奪や、香辛料などの交易独占を目的として開花した。その後、産業革命を契機として母国の工業製品を売る「市場」と、安価な原料(農産物や鉱物資源)を供給する「供給地」の獲得に変化をしていったのが18世紀後半から19世紀前半である。19世紀末になると、巨大化した独占資本が余剰資金を投下し、高い利潤を得るための「資本輸出」にさらに変異していき、軍事力を背景とした武力征服と、鉄道敷設などのインフラ投資を通じた地域経済の囲い込みに進化?していった。その対象となったのが、アフリカ大陸やアジア大陸である。
欧米列強の日本へのアプローチは18世紀後半以降、蝦夷地周辺にロシアや英国の艦船が来航し始めたのを契機に各国艦船が相次いで来航することになる。時の徳川政権は、異国船打払令や、台場の建設などの海防強化策を打ち出して防衛を固めたが、最終的には国力の違いをまざまざと見せつけられ、開国を受け入れることとなる。並行して欧米列強のアジア全域への進出は留まることを知らず、大変な危機感に襲われていた明治政府は1873年の徴兵令発布により17~40歳の男子を兵籍登録し国民軍に編入する。1888年には師団制が布かれ、外征軍が整備されていった。
南下政策を図るロシアへの防衛線としての朝鮮進出は、日本にとって、朝鮮の宗主国・清と対立する事であり、1894年両国は日清戦争へと向かうことになる。日本軍は黄海海戦、旅順などでの戦いに次々と勝利。北京への攻撃を恐れた清国は講和を求め、賠償金の支払いと、遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲に応じた。当初は清と共同して欧米列強と対抗し、アジアを守ろうとしていた日本ではあったが、あまりに無力の清を目の当たりにして方針転換していた(1840年アヘン戦争敗北、1851年〜1864年太平天国の乱による内乱、以降英に続いて露仏の清国領土や権益の奪取)。排外思想を掲げる義和団が「扶清滅洋」を掲げて1900年に蜂起し、清もこれに同調して列強に宣戦布告(北清事変)したものの、中国本土の分割支配に群がる欧米列強(英・米・露・仏・独・伊・墺)に日本も呼応する形で共同出兵し、北京を制圧した。日本は最大規模の兵力を派遣し実効支配するに至る。
ロシアは北清事変後も満州(中国東北部)に駐兵し撤兵しなかった為、日本は韓国、ロシアは満州を勢力圏とするよう交渉したが、ロシアが拒んだ為、日本は開戦に踏み切った(1904年日露戦争)。日本陸軍は旅順攻略戦、奉天会戦に、海軍はバルチック艦隊との日本海海戦などに勝利。日本はアメリカに和平交渉への仲介を依頼し、日本は旅順・大連の租借権、南満州の諸権益、樺太南半分を譲り受け、韓国の統治権を韓国に認めさせた。
人類史上初の世界大戦となった第一次世界大戦の主戦場は欧州だったが、日本は日英同盟の下に連合国側として参戦し、ドイツが権益を持つ中国・山東省の租借地の青島や南洋諸島を攻略した。一方、連合国軍からの要請で日本海軍は艦船をインド洋・地中海に派遣し、護衛・救助活動を行った。戦後、日本はドイツ支配下にあった赤道以北の太平洋上の南洋諸島を委任統治領とした。
連戦連勝の日本は無敗神話の「神の国」と思い込み始めたのか、当初、欧米列強からの侵攻に対するアジア防衛を掲げていたはずが、欧米列強と同じ武力による植民地拡大の道を歩み始める。1917年に起こったロシア革命に対する日本を含む連合国軍(日米主体・英加伊も出兵)による干渉戦争で、日本軍は連合国軍の規約を無視し、北樺太、沿海州、満州にまで侵攻し、他の連合国軍撤兵後も単独駐留を続けた(北進事変後にロシアは撤兵しなかったが、ここで日本も同じ轍を踏んだ)。
石橋湛山は1921年に『東洋経済新報』へ寄稿した論文「大日本主義の幻想」で「小日本主義」の考えを鮮明に打ち出している。その主張は、日本が当時進めていた軍事力や領土拡大による「大日本主義」を真っ向から批判し、平和的な貿易立国を目指すべきという考えである。➀植民地経営は多額の軍事費や統治コストがかかり、国民の生活を圧迫する非合理なものである。➁朝鮮や台湾などを手放しても国内産業を振興すれば日本経済は十分に発展できる。➂植民地や軍隊の維持は列強との対立(戦争)を生む最大の原因になる。今振り返れば蓋し明察である。
しかしながら昭和に入ると、第一次若槻内閣の総辞職を受けて誕生した田中義一内閣は従来の対中不干渉主義から強硬策に転じ、蒋介石の北伐に対して山東省における日本の権益確保と日本人居留民保護の為、3度にわたって山東に出兵した(1927~28年)。とどのつまりが、中国の奉天(現・瀋陽市)近郊を通過中の列車に乗っていた奉天軍閥指導者の張作霖を、中国の国民党の犯行に見せ掛けて、関東軍が列車を爆破し殺害。首謀者である関東軍の河本大作参謀らは、事件当時、陸軍の軍法会議で裁かれることはなく、秘密裏に処理された(予備役に処すという甘い処分)。このあたりから、関東軍の暴走を止められない日本陸軍の体制が後の敗戦に繋がっていく。
1931年中国の奉天郊外にある柳条湖で、関東軍による南満州鉄道線路爆破(柳条湖事件)をきっかけに関東軍が5か月ほどで満州を占領。翌年3月には傀儡「満州国」が建国された。1937年夜間演習中の日本軍に対して中国兵が射撃した事を口実に、中国軍を攻撃。宣戦布告のないまま日中の全面戦争に発展した(盧溝橋事件)。
第二次世界大戦における敗因は、作戦を無視し、独りよがりの神国神話と、ひとつ覚えの進軍にこだわり続けた関東軍の暴走を陸軍(日本政府)が止められなかったことにある。
1930年代後半から日本の海外進出や紛争に脅威を感じ始めた欧米列強は、ABCD包囲網(米英中蘭)に代表される石油や屑鉄など戦略物資の輸出規制・禁止によって経済的な対日措置を講じるようになる。1939年第二次世界大戦が始まると、1940年に日独伊三国同盟を結成し、さらに翌1941年に日ソ中立条約を結んで北方の安全を図るとともに、南進によって戦争遂行に必須の資源を求めてアジア各地に戦線を広げていくことになる。
アメリカの中国支援拡大と日本への石油輸出全面禁止によって追い込まれた日本は対米戦争を決意、初戦は機先を制し順調に進軍したが、徐々に消耗。起死回生一発逆転を狙った1942年ミッドウェイ海戦に日本は歴史的大敗北を喫し、1943年イタリア降伏、1945年5月ドイツ無条件降伏を経て、8月日本への原爆投下、無条件降伏に至る。
ミッドウェイ海戦において連合艦隊司令長官であった山本五十六は25歳の時に2年間米ハーバード大学に留学し、4年後駐米大使館付武官としてさらに2年半アメリカに駐在している。アメリカの実力をよく知る山本は最後まで対米開戦には反対をしていた。軍人としてミッドウェイ海戦一択を最後に主張した山本であったが、並行して行われた北方作戦による戦力分散や、何より事前に日本の暗号を解読して待ち伏せ攻撃を実施した米軍により主力部隊の出る幕もなく作戦中止、完敗してしまった。ミッドウェイ海戦の図上演習(事前のシミュレーション)では空母加賀、赤城は爆弾9発命中判定で沈没判定となったが、宇垣纏連合艦隊参謀長は「9発命中は多すぎる」として爆弾命中3発に修正させ、赤城を復活させて進行させたと後に明らかになっている。実際には図上演習と同じ9発が空母加賀に命中し沈没した(赤城は格納庫内誘爆により沈没)。
勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議の負けなし。昭和天皇は終始戦争には反対であった。東条英機が総理に就任した時にはもはや選択肢はなかった(敗戦後、日本は神武天皇以来の国体を失った。天皇の形式的存続<将来的に維持不能>とアメリカの平和的占領政策によって日本は大きな経済的飛躍を遂げたが、当時敗戦したらどうなるのか誰も想像できないほどの恐怖があったに違いない)。そしてアメリカは日本を歯向かうことのない弟分として占領政策を成功させた。戦後80年、ようやく公に本当の独立国日本の存立が問われて始めている。敗戦を総括し、しっかり反省した上で、古事記・日本書紀から連なる日本の国体をもう一度しっかり嚙み締め、「国論を二分する」政策課題に取り組んでいきたい。


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