【浅井の3姉妹】
戦国時代、北近江に浅井長政という大名がいた。浅井には今も歴史に名前を残す3人姉妹がいる。茶々、初(1歳下)、江(ごう:さらに3歳下)である。浅井は織田信長の妹で戦国一の美女と言われたお市を妻にして同盟を結んだが、1570年の金ヶ崎の戦いで信長を裏切り、その後も対立が3年続いた。最終的には1573年の一乗谷城の戦いによって長政は自害(享年29)を余儀なくされ、3姉妹の兄・万福丸は信長の命により羽柴秀吉によって串刺しにされたという(享年9)。
お市は3人の娘とともに藤掛永勝によって救出され織田家に引き取られるが、1582年の本能寺の変により信長が討たれると、お市は信長の重臣柴田勝家と秀吉との協議(取り合い?)により結果、勝家のもとに嫁ぐことになる。ところが、その翌年には勝家と秀吉の対立が先鋭化し、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れることになる。最終的には覚悟を決めた勝家は、お市に越前北ノ庄城外退去を勧めたものの、それを拒否したお市は勝家とともに自害する(お市享年37)。
両親を失った3姉妹は富永新六郎という武士によって、両親を死に追いやった憎き秀吉のもとに届けられる。当時50歳を目前にした秀吉は32歳下の茶々を側室に求め、求められた茶々は条件として1つ下の初と、4つ下の江の縁組を依頼し、3姉妹生き抜くため秀吉の申し出を受け入れた。茶々は秀吉の後継となる秀頼を儲けたが、初は若狭国小浜藩の大名京極高次に嫁ぐも子には恵まれなかった。江は織田信雄の家臣・佐治信吉の妻となっていたが、秀吉の甥で養子の秀勝と再婚させられ、秀勝の急逝を受けて、徳川秀忠と3度目の結婚をする。のちに3代将軍となる家光を産み、第108代天皇・後水尾天皇の皇后となる和子など2男5女を儲けている。秀忠は一切、側室を持たないほど江を愛しんだとされる。
1594年秀吉の死去により、茶々(淀殿)は秀頼とともに大阪城に移り豊臣家を必死に守ろうとするが、五大老・五奉行体制の崩壊により、1600年、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍との戦いに至る。勝敗を決したのは東軍に属した京極高次の大津城での1週間にわたる籠城によって、毛利元康・立花宗茂ら西軍1万5000を釘付けにしたことである。その後も家康の義娘である江は、当時出家の身であった初(常高院)を通じて、淀に対して和平による事態鎮静化を働きかけていた。一時は和平交渉が成立したものの、最終的には淀と秀頼は1615年大坂夏の陣によって自害に追い込まれることになる(淀殿享年47、秀頼享年23)。
初と江の交流はその後も長く続き、江は54歳(1626)で、初は64歳(1633)で、それぞれの生涯を平穏に閉じた。淀が父母供養のために秀吉に頼んで創建した京都東山の養源院(長政の法名)には、時の中枢にいた江が淀と秀頼を祀り、以降徳川家の菩提所として第14代将軍家茂までの位牌が安置されている。秀忠と江(崇源院)の位牌には他に例を見ない菊(天皇家)・葵(徳川家)・桐(豊臣家)の3つの紋が記されている。10代までに2度落城を経験した3姉妹の人生は生と死の狭間で互いを助け合いながら生き抜いた大いなる歴史絵巻物である。
【宗家の3姉妹】
広東省出身でアメリカの教育を受けたプロテスタントメソジストの牧師である宋嘉澍(そうかじゅ)には妻・倪桂珍の間に3姉妹・3兄弟がいた。宋は清朝末期から中華民国成立にかけて銀行業と印刷業で財を成し、孫文の辛亥革命を全面的に支援した人物である。兄弟3人(宋子文・宋子良・宋子安)は全員、中華民国政府の高官であったが、3姉妹の人生はそれ以上に歴史に名を刻むものであった。長女宋靄齢(そうあいれい)は14歳の時にアメリカに留学し、帰国後孫文の秘書となった。国民政府財政部長を務めた孔祥熙(こうしょうき)に横浜で二番目の妻として嫁いだ。1937年に日中戦争が始まると、妹の宋慶齢(4歳下)・宋美齢(さらに5歳下)とともに抗日運動に参加した。靄齢は全国児童福利会を創設したほか、香港の負傷兵の友協会の会長に就任するなど社会活動に積極的に参加した。弟である宋子文がかつて夫・孔祥熙を政敵として様々な形で叩き、アメリカに渡っても孔祥熙の葬礼に出席しなかったことを根に持って、宋子文の葬礼を末の妹美齢とともに欠席するなど、兄弟間での諍いは最後まで続いた。
二女宋慶齢(そうけいれい)も14歳でアメリカに留学し、帰国後は孫文の英文秘書を務めていた。1915年に日本で26歳年上の孫文と結婚した。当時孫文には妻がおり、年上の子供もいたため周囲から反対されたが、妹美齢の後押しもあり結婚に踏み切った。慶齢は孫文の「聯俄容共(ソ連との協力、共産党の容認)」政策を堅持する立場をとり、家族とは離れて1929年には国民党を脱退、共産主義者を支援しコミンテルンとも密かに通じていた。1936年、蒋介石が拉致監禁された西安事変を機に第一次国共内戦が終了し、第二次国共合作が成立しているが、そのあたりの真相は未だ不明である。慶齢は1949年国共内戦が終結すると、蒋介石・美齢とは行動を別にし、中国大陸に残った。1959年から1972年まで董必武(とうひつぶ)と共に中華人民共和国副主席になり、死の直前の1981年には中華人民共和国名誉主席にまでなった。
話は前後するが、三女宋美齢(そうびれい)は9歳のときに姉慶齢と共にアメリカに留学し、中学校、高等学校時代を留学先のジョージア州の高級住宅街で過ごした。その後マサチューセッツ州の名門女子大学を首席で卒業し、この時に身につけた流暢な英語が、後の政治活動に大きな影響を与えることとなる。7年の交際期間を経て1927年に蔣介石と結婚し、蒋介石の強力なパートナーとしてのみならず、世界に向けてのスポークスマン兼ロビイストの役目も果たすことになる。美齢は親中派のフランクリン・ルーズベルト大統領やその妻エレノアと親密な関係を構築し、日中戦争から第二次世界大戦に至るアメリカの対日政策に大きな影響を与えた。日中戦争中にはアメリカ合衆国義勇軍「フライング・タイガース」の設立に携わり、抗日戦へのアメリカ市民からの義捐金を募るためにハリウッドで演説した際には、ハンフリー・ボガートやキャサリン・ヘプバーン、イングリッド・バーグマンなどの多数のハリウッドスターから大きな称賛と金銭的なものを含む支援を受けた。のちにルーズベルト大統領および夫人の後援を得て中華民国空軍を設立し、抗日戦争を勝利へ導く道程で大役を担った。
毛沢東は3姉妹を「一個愛錢、一個愛權、一個愛國」と称した。それは「一人は金(長女靄齢)と、一人は権力(三女美齢」と、一人は国家(次女慶齢)と結婚した」という意味である。裕福な家庭で恵まれて育った3姉妹は、その生涯を通じてそれぞれが自らの想うところに正直に生き抜いていったのだろうと感じる。慶齢は共産党を支持し、靄齢と美齢はどちらも国民党を支援していたが、日中戦争勃発時に3姉妹は10年ぶりに顔を合わせた。そして抗日統一戦線の象徴として戦地での慰問等の活動を行う政治的なプロパガンダを積極的に行った。
靄齢は1973年ニューヨークで84歳の、慶齢は1981年に上海で88歳の生涯を閉じた。美齢は105歳まで長生きして2003年マンハッタンの自宅で老衰により亡くなった。彼女らの様々な活動は日中戦争や太平洋戦争におけるアメリカの対日政策にも大きな影響を与え、日本の運命を左右したと言っても過言ではない。
コメント