色覚多様性

2017年9月16日 at 2:29 PM

日本遺伝学会の第89回大会において、これまで分かりにくく誤解や偏見を招きやすかった用語を改訂することが決まりました。今月中に用語集としてまとめて一般向けに発売するそうです。
高校の生物で履修する遺伝学の「優性(Dominant)」「劣性(Recessive)」という形質は、「優劣」という日本語表記からそれぞれ優れている、劣っているというイメージを与えてきました。
実際には片方の親から受け継いだだけで発現するものを「優性遺伝子」、両方の親から受け継がないと発現しないものを「劣性遺伝子」と言うのですが、字面からそれを読み取ることには困難さがありました。
同学会は、日本人類遺伝学会とも協議して見直しを進め、「優性」を「顕性」に、「劣性」を「潜性」に言い換えるということにしたそうです。新しい言い方はなじみがない分、とっつきにくいかもしれませんが、性質を正しく指し示し、誤解を生じさせない方向へいくのではないかと期待できます。
他にも「突然変異(Mutation)」の原語に「突然」という意味は元々含まれていないので、「突然」を除いて「変異」とすることや、色の見え方も人によって多様だという認識から「色覚異常」や「色盲」を「色覚多様性」と称することが決まりました。同学会では10年ほど前から用語編集委員会を中心にインターネットで意見を聞くなどして見直しを進めてきたそうです。

私は子供の頃「赤緑色弱」と判定され、理数系が得意ではありましたが、当時、医師やエンジニア(抵抗のカラーコードが読める)にはなれない(業務上色の判断を伴う職業には就けない)ことを知り、文科系に進んだという経緯があります。同学会では「色覚異常」や「色盲」という用語について、日本人男性の20人に1人が相当する(フランスや北欧ではその倍)ことなどから、「異常と呼ぶのは不適当」との意見で集約され、科学的に中立な「色覚多様性」という表現を採用したとのことです。
小林武彦会長(東京大教授)は「ゲノム(全遺伝情報)解読が進み、遺伝子の多様な役割が分かってきた時代に合わせた用語改訂だ。広く社会にも定着してほしい」と話しており、文部科学省にも教科書の用語改訂を要請する方針だそうです。
色弱と色盲はかなり程度が違うものと思います。私は一般社会で特に不便を感じることはありませんが、修正に赤線や赤字を使われると正直見にくいです。私は修正には青ボールペンを好んで使います。ゴルフボールのオレンジやピンクは絶対に使いません。くっきり見える色とくっきりとは見えない色があるだけです。女性の場合の色盲は重度なケースが多く、全色盲(モノクロの世界)の人は3万人に1人と言われています。色覚異常とされた人のうちの0.07%という極めて少数な人達です。
他にも青や黄の認識が困難という方たちもいますが、私を含めてほとんどの色覚異常は赤と緑の判別がつきにくいという方たちが大半でしょう。特に、鮮やかでない色や暗い環境、見るものが小さい場合などでは、より似かよって見えるので判別しにくくなります。深緑の葉に小さい深紅の花や、小さい赤い果実などは近くに行かないと気づきませんし、紅葉も正常な方たちより綺麗に鮮やかには見えていないものと思います。

石原忍軍医監によって1916年に開発された色覚検査表は徴兵検査用に使用するためでしたが、後に学校保健の場にも取り入れられました。1989年に改訂されるまで70年以上に渡って、就職差別の記載が残っていました。色覚異常と就職差別は直接的な関係があるわけではないのですが、現実にはそのように判定され、将来を左右された方たちも少なくないでしょう。ネットで検索してみたら、この石原検査表を丸暗記して、就職したという方々もいました。こういう方が実際の職場で不都合を感じずに職責を果たしておられるのか、びくびくしながら毎日を過ごされているのかわかりませんが、事実は事実として受け入れる必要はあると思います。
2003年には学校での検査は保護者の同意が必要な任意実施となりましたが、これには「色覚異常を知る機会がなくなる」「学校現場で、色覚異常の子供への対応が十分なされない」といった反対意見も多くだされ、2016年4月から小学校の健康診断での色覚検査が再開されました。再開した理由は、色覚異常と気づかずに学業を終えた学生たちが企業から門前払いをうけるケースが続出したからだそうです。
先天的色覚異常を本人が早くから認識し、本人が自分の将来を自身で考えることは必要なことです。色覚異常だからと言ってデザイナーになれないわけではありません、ひとつの個性として捉えればいいのです。人に迷惑をかけなければいいのですが、やはり安全という意味において就くことのできない職業があることも現実です。

「色覚多様性」という言葉は、いわゆる差別用語からの脱却を意味しているのかもしれませんが、それにより現実を見えなくしてしまうことは決していいことではないように思います。スマホのアプリで「この色の違いわかりますか?」というゲームがありました。黄色の明るい方と暗い方を判定するゲームでしたが、私は全問正解できました。正常な色覚の人でも間違えている人はいたので、まさに「色覚多様性」といういい方はしっくりきます。個性のある幅のことを言っているわけです。画家の中でも色を忠実に再現できる一流の画家がいる一方、それが上手くない画家もいます。色覚異常と判定されない人の中でも色の感じ方に違いはあるものと思います。(目の網膜に存在する色を感じるたんぱく質「オプシン」は季節によって働きが変わり、メダカの場合、繁殖期である夏にオプシンの働きが活発化し、色がはっきり見えることが突き止められました。哺乳類でも同様な報告がされています)

道交法では免許取得の際に、赤・青(緑)・黄色を識別する適性検査を義務づけています。私の色覚異常のレベルでは問題なく判別でき免許更新できます。視力低下の方が深刻です。しかし、レベルによっては「LED型信号や点滅信号は見えにくい」という人がいたりします。2012年には福岡市で、赤信号の中に特殊なLEDを配置して「×」印を示し、色覚異常の人にだけ「×」が遠くからでもよく見えるようにという配慮から「ユニバーサルデザイン信号機」による社会実験が行われました。米国やカナダでも赤信号の形状を変えるなど、色だけに頼らない信号機が試験設置されているといいます。

CUD(カラーユニバーサルデザイン)をすすめる会というのがあります。CUDとは色覚異常者にも情報がきちんと伝わるように色使いを配慮したデザインのことです。
「色」は情報伝達手段としては非常に有効で、情報・イメージ・想いをのせて日々発信されています。しかし、色覚正常者には「情報伝達」の役割を果たしているものの、色覚異常者にとっては「情報が伝わらない」「不便さがある」「安全の確保ができない」ことがあります。地下鉄や私鉄では路線図や駅をアルファベットや数字の組み合わせなどで表す「駅ナンバリング」が広く定着してきました。路線の色分けと駅名だけの表示が主流だった15年前とは大きく状況は改善されています。「2020年東京五輪・パラリンピックを前に増加する外国人観光客や、首都圏の電車に乗りなれない人など、すべての利用者にとって分かりやすい表示を目指したい」とJR東日本はさらに力を入れていくそうです。世界に2億人と言われる、一般には認知されにくい色覚異常者に対して理解が深まってくれることはありがたいことだと思う反面、「色覚異常」が「色覚多様性」という言葉に置き換わることによって、却って問題を潜在化させてしまうのではないかという心配もあります。「障害者」を「障がい者」や「障碍者」という表記に置き換えてもあまり大きな進歩だとは考えない私は、「正しい知識」と「思いやりの心」こそが問題の本質に迫る正道だと信じるものです。

日本人の心に脈々と流れる武士道精神

2017年9月8日 at 11:54 AM

「武士道」の解説書で有名なのは、五千円札の肖像となった新渡戸稲造の書いたものであるが、これは欧米に日本文化を正しく理解してもらおうとアメリカにおいて1900年に英語で刊行されたものであり、後に和訳されたものを日本人が読むことになったものである。ゆえに本来的に武士道精神の神髄を語ったものではない。
武士の誕生は平安時代後期と言われるが、その当時は「もののふ」などと呼ばれ、幼い頃から武芸に勤しみ、いまでも行事として残る流鏑馬などの技量が秀でた侍が称賛されていました。もう一面は「一所懸命」に代表される命を懸けて領地を守る、ゆえにそこで開墾している農民から安心料としての年貢を徴収する正当性を持っていました。そして武士の名誉として、決して避けることのできない一度きりの死を、主君のために戦場で華々しく散ることが最上の美学とされました。病床にあった前田利家は関ケ原の合戦の前に「畳の上で死ぬのは無念だ」と叫んで死んでいったと言われています。
武士道を語る上で基になるのは甲州武田家の「甲陽軍鑑」です。隆盛を誇っていた武田軍が、なぜ長篠の戦(1575)で敗れたのか、それまでの来し方を見直し、あるべき武士の姿と、あってはならない卑怯未練、こびへつらう者がお家を食い潰していくことを自己批判の筆で書かれています。
さらに武士の内面に対して目を向けたのが「諸家評定」(1621)で、そこでは「意地」(原文は意路)が語られています。意地のない人間は、一時の褒美、あるいはその時の権力のありようによって、風見鶏のごとく態度を変える。これらは外面的な利益誘導に動く人間であり、武士道においてはあるまじき姿であると断じています。「勇」という概念が勇猛果敢という武力の意味合いから、武士の心構えといった精神面に焦点があたるようになってきます。
「可笑記」(1640年前後)では、さらに人間の普遍的道徳性を定義するようになります。つまり武士とは「嘘をつかず、軽薄をせず、佞人(こびへつらう人)ならず、表裏をいわず、胴欲ならず、不礼ならず、物毎自慢せず、人を譏らず(そしらず)、不奉公ならず、朋輩の中よく、大方の事をば気にかけず、互ひに念比(ねんごろ)にして人を取たて、慈悲深く、義理の強きを肝要と心得べし、命をしまぬ計(ばかり)をよき侍とはいはず」といった徳義を磨き、涵養することが武士の心得であるとしています。
大坂夏の陣は1615年に終わり、いわゆる徳川大平の時代に入ります。戦が仕事の武士たちには本来の仕事がなくなってしまいます。天下泰平の時代にあっては、戦がないのですから、農民から年貢を取り立てる大義名分がなくなってしまいます。そこで武士たちが進出していった先は行財政にまつわる役職です。金勘定などは武士が最も軽蔑していた職務でしたが、「勘定奉行」で算盤・帳簿付けを行ったり、町奉行、大目付、大番頭、寺社奉行などの行財政職に就くようになります。そういった職務に就かなくても禄とか知行といった給与はもらえるのですが、次第に行財政職に就いていないものは「無役」と記されて、まるで「役立たず」のように言われはじめます。時代劇でよく出てくる傘張り浪人はまさに1700年前後の武士の生活を表しているようです。
三島由紀夫が愛読したとされる「葉隠」(1716)では、「忠義」について語られます。主君の命とあるならば、理も非もなく、まずもって慎んで承るべきであると書いた一方で、自分の心に照らして得心がいかないことは、いつまでも訴えるべしとしています。「本当にそれでよろしいのでしょうか?」「別のお考えはありませんでしょうか?」「ご再考の余地はございませんでしょうか?」と何度でも訴えかけることが大事であり、ただ黙って従うことが忠義の所以ではないと説いています。実際、この当時は「主君押込」という慣行があって、家臣の諫言をもってしても、主君の暴虐が治まらない場合には、家臣の手によって主君の身柄を拘束して、座敷牢に投ずることがあったそうです。そして、その後も家老などの重臣たちによって説得は続き、長い時間を掛けて再出勤に至ることもあったそうです。再出勤ののちに不幸にも押込した家臣たちを手打ちにすることもあったようですが、家臣としては「即隠居」という手段も取れましたが、命を懸けてお家に対する忠義を貫いていたことが伺えます。
嘘八百は江戸の町の代名詞ですが、「武士に二言なし」と言われるように、武士は信義を貫いて必ず約束を守るというプライドを維持していました。こういった武士の希少性とも言える価値観が、徐々に商人にも広がり、近江商人のような「三方良し」の商人哲学に通じたものと考えられます。商業手形や先物取引といった信用商売も江戸時代には行われていたという記録が残っています。そして一般庶民には通俗武者絵本などを通じて、牛若丸や弁慶の話、義経や静御前の話、義経の壇ノ浦での活躍などが娯楽として浸透し、歌舞伎や浄瑠璃などの大衆文化に結実して、武士道の精神が一般庶民にも広がっていきます。
冒頭の新渡戸の「武士道」は明治時代に入って、刊行されました。日本は日清・日露の戦争を勝ち抜くことによって欧米列強と肩を並べる近代国家に位置付けられていきますが、その過程で、「葉隠」の有名な一節「武士道といふは死ぬことと見つけたり」の本来の意味が消し去られ、国家のために死ぬことが名誉であるという風に利用されてしまった感があります。
「甲陽軍鑑」や「葉隠」が説く強い組織の根本は、内部の人間一人一人が自立しているということを求めています。組織の全員が事なかれ主義で、組織の方向性に何らかの間違いがあっても、保身のために見て見ぬふりをするようであれば、組織は必ず崩壊します。不正を内部から浄化できない企業が報道される度に思います。
(「武士道の精神史」笠谷和比古著 読了後)

ユーゴスラビア連邦の崩壊

2017年9月5日 at 11:16 AM

ユーゴスラビアは、かつて南東ヨーロッパのバルカン半島地域に存在した、南スラブ人を主体に合同して成立した国家である。先日、クロアチア、スロヴェニア、ボスニアヘルツェゴビナを回ってきた。風光明媚な地域で観光客に人気なところであるが、四半世紀前には戦禍にまみれていたところである。
私が学生時代には「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字」を持つ多様国家をチトー大統領が一つにまとめて率いた理想社会主義国家と称された。
国家の成立は1918年に遡り、セルビア王国を主体にしてスロベニア人・クロアチア人が集合し、1929年にユーゴスラビア王国に改名され、1945年からは社会主義体制を固めて、ユーゴスラビア連邦人民共和国となった。
チトーは第二次世界大戦後、コミンフォルムの設立者であるスターリンと対立し、社会主義国家でありながら、NATO陣営のギリシャやトルコとの間で集団的自衛権を明記した軍事協定バルカン三国同盟を結んで、NATOと事実上の間接的同盟国となった。
1960年代にはスターリンに代わってソ連指導者となったフルシチョフと和解し、東側からの軍事支援も得た。
その中立的立場から国連平和維持活動にも積極的に参加し、チトーの指導の下、独自路線を歩んでいく。一方で、ソ連からの侵攻を念頭に置いた兵器の国産化も進め、地域防衛軍を組織して自主路線を強化していった。
チトーは1953年から1980年死去するまでユーゴスラビアの大統領として、そのバランス感覚とカリスマ性で国家を率いた。オタワ大学教授ミシェル・チョスドフスキー氏は、1960年から1980年までの20年間のGDP年間成長率は平均6.1%で、医療費は無料、識字率は約91%、平均寿命は72歳、かつてその地域の産業大国であり、経済的な成功を収めていたと評価している。
共産主義国家、社会主義国家においては党主体の独裁と党内の権力闘争が繰り広げられることは現代に至るまで見られることであるが、チトーは与党の中に制限野党を作ったり、体制批判を含めた言論の自由をある程度許し、民族排外思想家を摘発するなど連邦の維持に腐心したとされる。生産手段もソ連流の国有ではなく、社会有つまり経済は政治と分離し、各企業における労働者によって経営を行うシステムを導入し、自主管理社会主義という独自の社会主義を運営していった。
人治国家とも言える当時のユーゴスラビアは、チトーが1980年に死去すると、一斉に各地から不満が噴出した。経済的成功を収めていたスロベニアには分離独立の機運が台頭し、クロアチア人は政府がセルビア人に牛耳られていることへの不満を訴え、セルビア人は自分たちの権限が抑え込まれていると不満を口にした。つまり、裕福な地域は「もっと自由を」と主張し、貧困地域は「もっと社会主義的政策を」と主張し、民族間の亀裂が深まっていった。
1990年代初頭にはスロベニア、クロアチア、マケドニアが相次いで独立。その後はセルビア主導のユーゴスラビア連邦軍との紛争勃発、そしてボスニア・ヘルツェゴビナの独立、最終的には最後まで連邦に留まっていたセルビア・モンテネグロが2000年代に入って連合を解消し、連邦は6つの共和国に完全に解体されることとなる。
ユーゴスラビア内の紛争、そして解体の理由は決して内部崩壊というだけではない。チトー亡き後の西側諸国による自由主義市場への開放という多分に資本主義的な戦略に翻弄された面は見逃せない。実際に紛争の激しい戦禍に見舞われたドブロヴニクで聞いた話であるが、紛争終結後リゾート開発をする地域には爆撃をしないという密約が権益を狙う西側某国とあったと説明を受けた。国連やIMFが主体となって進めた「再建プログラム」は共和国の権限を奪い、自主再建できない形へと引きづり込まれていく。財政再建という名の通貨切り下げ、賃金凍結、公営企業の売却、財政支出の大幅削減。一方で外資規制の大幅な自由化、西側諸国の債権者への利払い優先によって、国内経済は疲弊し、インフレを誘発する結果となった。
最近の動きになぞらえて言えば、EU離脱を決定した英国は、内部にスコットランドの分離独立問題を抱えている。米国はトランプ大統領の登場により、保護主義、格差拡大、人種間亀裂が際立ってきている。内憂外患という言葉があるが、内側にばかり目が行ってしまうと、憂うべき外の動きに気づかなくなってしまう。内輪揉めしているうちに、外部に漁夫の利を与えてしまうこともある。ユーゴスラビア連邦の崩壊は遠く離れたバルカン半島で起こった無関係のことではなく、気づかないうちに近くで起こり得ることとして歴史の教訓とすべき題材である。