善と悪の経済学

2016年11月2日 at 4:54 PM

「善と悪の経済学」はチェコの経済学者トーマス・セドラチェクが2009年に出版した一般の経済学の著作とは一線を画す意欲作である。経済学の境界を遥かに超え、その語り口は古代まで遡った歴史・哲学、そして倫理学・心理学にまで及ぶ。数学的と捉えられがちな経済学が内包する多くの要素を幅広く論じたこのような著作に出会ったのは初めてである。
今年のノーベル経済学賞は米2教授が「不完備契約の理論」で受賞した。人々は将来起きることを全て事前に知って契約を結ぶことはできないことを指摘し、そのような不確実性の要素(情報の不完全性)をどのように契約において処理すれば良いのかを論じている。新古典経済学が、情報の完全性と将来起こる確実性を人々が有しているという仮定に立って、人々が自己利益の最大化を目指しても市場が社会の利害を自動的に調和させるとしたモデルに対して、現実的な処方箋を提示したと言える。経済学は比較的新しい学問であるが、扱う領域はこのように社会・政治・経済・公共等と不可分であり、実はかなり幅広い領域を扱う学問である。
さて、話を元に戻そう。現在、ほとんどの企業では右肩上がりの成長を当たり前のこととして事業運営を行っている。しかし、未だに日本経済の失われた20年は転換の兆しは見えず、成長の道筋は見えてこない。アベノミクスも新三本の矢も日銀の金利政策も効果が出ているとは言い難い。世界中を見渡しても通貨安競争による国家的な利益誘導や、貧富の格差拡大に伴う治安の悪化等が広がっている。的を得た戦略で成長し続けている企業はあるが、ほんの一握りであろう。「善と悪の経済学」の根底には、そもそも経済成長は善なのかという根源的な問いが流れている。
セドラチェクは人類最古の文学作品であるギルガメシュ叙事詩から紐解き始める。古代メソポタミア(紀元前26世紀頃)に実在したと言われる都市国家のギルガメシュ王の冒険譚である。そこには、人間的な部分は労働の邪魔とばかりに、人々をロボットのように効率よく働かせようとする支配者がいる(効率追求の考え方)。ギルガメシュに代表される支配者の欲望は限りなく広がり、永遠の生命を求めて冒険に出るが、最後まで満たされることはなく、虚無感に陥るギルガメシュが描かれる。ここでの歴史観は循環史観。つまり、歴史はどこへも向かわない。自然の営みのように成長することなく時は繰り返す。善も悪も何の脈絡もなくただ起きるといった世界観がそこにはあった。
旧約聖書(紀元前6~4世紀)では、歴史に進歩という概念が登場する。つまり歴史には始まりと終わりがあって、ユダヤ教のメシア(神が救世主を現世に送り人々が救われる)を待ち望むという歴史観である。歴史を良い方向に向かわせるには倫理観が重要であるという考えがある一方で、善は報われるがそれは現世で清算されなければならないもの、あの世という概念はなかった。労働は喜びを与えてくれて、社会的地位の裏付けにもなるものと位置づけられた。安息日には神に倣いその達成感を味わい、成果を楽しむという意味合いがあった(現代の日本の多くの労働者に見られる、週末に労働の疲れを癒し、また次の週に向けての生産性を回復するといった考えは全くなかった)。
古代ギリシャ時代(紀元前4~3世紀)には、ソクラテス・プラトン・アリストテレスなど西洋哲学の源流と言える思想が発展した。この頃は支配層・軍人・生産者(最下層)という階級制が敷かれ、労働は生きるために必要なものではあるが、それは低い階級のものがやること。エリート層は芸術・哲学・政治などの精神的活動に専念することが善とされた。アリストテレスは「人間は社会的動物である。個人の幸福は社会全体の幸福である」として、都市市民の合理的な自己利益追求を肯定している。
この時代のストア派とエピクロス派の二派は現代の経済学へ連なる基本的な思想として位置づけられる。ストア派はディオゲネスに代表されるように、欲望から解放されて自足すること、動じない心を持つことが重要だと考え、そのため肉体的・精神的な鍛錬を重んじた。経済学に照らして言えば、需給バランスは需要を減らして、供給を減らすことで均衡させる。つまり、物欲を捨て去れば、時間の浪費である労働は減らせる。それが人間にとっての幸福。ストイック(禁欲主義的幸福)は、このストア派が語源になっていることはご存知の通りです。
一方のエピクロス派は快楽主義者とも言われ、財産が多いほど、人間は自由になると考える。需給バランスは需要を増やせば、供給が増えて、成長するという考え方です。そして、利己主義(善は効用の一要素に過ぎない)・将来予測・損得計算(現代の経済学が拠って立つところ)といった思想が発展していく。この思想がのちのスチュワート・ミルに代表される「利己主義に基づく行動原理こそが人間の行動の唯一の原動力」との考えに至り、目的は手段を正当化するといった論陣が張られる下地となります。
新約聖書(1~2世紀)では、この世にない楽園(天国)という概念が登場してくる。現世には必ずしも正義はない。現に正義の人が苦しみ、不正義の人がのうのうと暮らしている。しかし善行を積めば、あの世では報われますよという教えです。旧約聖書では現世が主役ですが、新約聖書では現世は脇役に退きます。それほど現世は不条理だったのでしょう。現世のみで生きるユダヤ教徒と、天国に行くためにこの世があるとするキリスト教徒では基本的に相容れないのがよく理解できます。
時代はぐっと進んで、アダム・スミス。1759年に発行された「道徳感情論」では倫理か富かを論じています。人間は利己的ではあるが、その生まれ持った性質の中には他の人のことを心に懸けずにはいられない「共感」があり、それが社会を結びつけている。それゆえ、人間は慈悲、正義、寛容、公共心といった自己抑制を働かせて良心に従った行動を取るという性善説に立っています。有名な「市場の見えざる手」については、自分の利益を追求する方が、実際にそう意図している場合よりも効率的に社会の利益を高めていることが多い。社会のために事業をやっている人が実際に大いに社会の役に立ったという話は聞かないと論じています。
さらに時代は進んで、「雇用・利子および貨幣の一般理論」(1936年)で有名なケインズ。利子と資本蓄積が近代の進歩の契機となったことを述べています。実はこれまで触れてきた古代からの聖典では利子を取ることを禁じています。イスラム世界では今でもこの教えは生きています。新約聖書では、同胞から利子は取ってはいけないが、異教徒からは利子を取ってもいいと記されています。日本人には理解できない感覚です。
ケインズは著作の中で、100年後にはニーズは経済的に満たされるであろうと予言しています。その「経済的至福」に達する4つの条件として、⓵人口の増加を抑制する能力、⓶戦争と内戦を回避する決意、⓷科学の方が適切に解決できる問題は科学に任せる意思、⓸資本蓄積のペース(生産と消費の差によって決まり、前3条件が整えば高まる)を挙げています。現在が4つの条件を全て満たされている状態とは言えませんが、地域を限定すれば、かなり満たされつつあると言えるかもしれません。ケインズが予言した通り、これが世界的な経済停滞の要因なのでしょうか。
ケインズは「アニマルスピリット」という言葉で、もし人々が定量的な便益に定量的な発生確率をかけた、加重平均の結果として決断をくだすならば、事業は衰退して死ぬ。人々を不経済かつ不合理な冒険に駆り立てる精神が経済を発展させると論じています。ゲーム産業等のエンターテインメントビジネスは、様々な手法で、疑似的な精神的不足状態を創り出して、人々を仮想の冒険に駆り出し、経済を成長させているビジネスモデルなのかもしれません。
そして20世紀後半、経済的発展が幸せをもたらすとするサミュエルソンやフリードマン全盛の時代になります。二人ともユダヤ系であるということは偶然ではありませんね。
今や成長が強迫観念となって、借金を背負い込んででも成長をしなければならないと思い込んでいる経済人が圧倒的に多いでしょう。富裕層もさらに利益を得ようと投資目的で借り入れをする時代です。最近、GDPの精度の問題が議論されていますが、今のGDPは債務の助けや金利の助けを受けている数字であって、未来から現在に価値を移動させたとも言えるわけです。GDPを成長させるための莫大な借金は給料の前借みたいなもので、もう前借する将来の価値が枯渇してきているのかもしれません。国家の財政赤字も同様に前借構造となっています。著書では国家はGDPの最大化より、債務の最小化を目指すべきと指摘しています。アベノミクスの考え方とは全く逆です。
さて、古代の幸福論に戻ってみましょう。何ものも必要としない人たちが幸福なのだとすれば、死者が一番幸福だという事になると、ソクラテス以前の哲学者ゴルギアスが述べています。だとすれば、満足を知らない億万長者は、満足した貧乏人よりはるかに貧しいという理論になります。現代では、豊かさが新たな問題を生み始めたと言えるでしょう。お金はたっぷりある、目の前にあるデザートは10種類もあり、そこから一つ選ぶのは苦痛。全ては食べられないから、どれを選んでも幸福にはなれない。無理矢理全部食べれば、胃もたれ、肥満、病気。昔は人々に今ほどの知識はなかったですが、徳や万人の幸福を汚すものはありませんでした。進歩とは人間の基本的条件を大幅に改善してくれるものですが、その偏在が大きな社会問題を生んでいます。古代から警鐘を鳴らしているように人間の欲望にはきりがないようです。「老子」に「足るを知る者は富む」とあります。足るを知ることが幸福への近道なのだと感じます。環境経営・3R(Reduce/Reuse/Recycle)・Sharing Economyなど循環型経済を志向するキーワードも数多く出てきました。資本主義の終焉などと言われる昨今ですが、成長資本主義が終わりを迎えているだけで、資本主義そのものは健在であると思います。成長のくびきから解放されれば、多くの人が幸福に近づくのではないかと思う今日この頃です。