大津事件に見る司法の気概

2016年6月19日 at 5:14 PM

ロシアと日本の関係は興味深い。戦後一貫して北方領土問題を抱えてはいるものの、クリミア併合で欧米諸国から一斉に非難の的となっていることを思えば、安倍晋三首相とプーチン大統領の関係は表面上比較的良好と言える。
過去最も大きな事件といえば1904年2月から約1年7か月戦った日露戦争であろう。当時のロシアは強大な軍事力を有した列強であり、不凍港を求めて極東地域への南下政策を採っていた。日本にとっては虎の子の朝鮮半島の利権を取られてしまえば、日本の独立さえも危ぶまれる状況であった。幸いにもロシア拡張主義に懸念を持つ英米の支援を得て、勝利のうちに講和に持っていくことができたわけだが、バルカン半島をめぐって一敗地にまみれていたトルコや、ロシアの支配下にあったフィンランドは日本の勝利に快哉を叫び、多くの有色人種国家の独立への勇気付けとなったと言われている。

一方、日本軍に次々と敗れたロシアは、内政においても帝政に対する民衆の不満が増大し、その年ロシア第一革命が起こり、制圧はしたものの12年後のロシア2月革命へと帝政の弱体化が進行することになる。
革命によりロシア最後の皇帝となったニコライ2世(在位22年)は、日露戦争や第一次世界大戦において指導的な役割を果たすものの、レーニンの命により一家虐殺されてその一生を50歳で終える。
ニコライ2世は子供の頃は女の子っぽかったと称されているが、帝王学を通じて露仏英独語を解し、歴史・政治・経済・軍事にも通じていたという。
22~23歳の時にギリシャ王子ゲオルギオスと共にアジアを中心にして1年弱の旅行をしている。本人は気が進まなかったようだが、両親の勧めと弟の同行もあり、楽しんでいたようである。

1891年4月27日最後の訪問国として日本・長崎に到着した一行は、約3週間日本に滞在した。国力の差を知る日本政府は未来のロシア皇帝を国賓待遇で迎えた。そうした接待が功を奏したのか、ニコライ(皇太子)は「長崎の家屋と街路は素晴らしく気持ちのいい印象を与えてくれる。掃除が行き届いており、小ざっぱりとしていて彼らの家の中に入るのは楽しい。日本人は男も女も親切で愛想がよく、中国人とは正反対だ」と日記に記している。一時は本当に日本人妻を娶ろうと思ったともいわれる。

日本での旅も後半に差し掛かり、大津を訪れ琵琶湖や唐崎神社を見学した一行が京都へ戻る途中に、人力車に乗ったニコライを滋賀県警の津田三蔵巡査がサーベルで襲い掛り、ニコライは右耳を負傷した。世にいう「大津事件」である。この時の斬撃により終生ニコライは後遺症や頭痛に苦しむことになる。この頃の日本の「恐露症」はかなり大きかったらしく、皇太子が来るのは日本を占領するための下見だとまことしやかに言われていた。そういった社会背景が津田という狂人を生んだのであろうが、津田本人は殺すつもりはなかったと後述している。

当時のニコライの記憶ではゲオルギオスが土産物で買った竹の杖で津田を一撃してくれたので、九死に一生を得たと述懐しているが、後の裁判記録によれば、人力車の車夫二人が飛び掛かり、津田が落としたサーベルで車夫のひとりが津田を斬りつけ、他の警官が津田を取り押さえたとある。

この事件の報告を受けた明治天皇はすぐさま京都へ行幸し、ニコライを見舞い、「犯人をただちに処罰する」と確約し、引き続き東京訪問を希望した。両親に相談したニコライは結局東京訪問を中止し、帰国の途に就くことを決めた。
明治天皇は神戸御用邸での晩餐に改めてニコライを招待したが、逆に待機していたロシア軍艦上での晩餐に招待された。「恐露症」閣僚の中には拉致されることを恐れ、ロシア軍艦への搭乗を止めるよう進言する向きもあったが、明治天皇は「ロシアは先進文明国である。そのロシアがなにゆえに汝らが心配するような蛮行をしなければならないのか」と反論し晩餐に出席したという。

日本人により負傷させられたニコライには日本中から多くの手紙、1万通の電報や贈り物が届き、街頭には跪いて合掌し許しを乞う日本国民の姿があったという。ニコライはこれに痛く感動したと日記に記している。神社・寺院・教会では皇太子平癒祈祷、中には自害をする若い女性、津田姓や三蔵名を禁止する村も出たほどである。時の山縣首相は即座に辞任している。当時ロシアの報復を如何に恐れたかが容易に想像される話である。

裁判では、ロシアとの関係悪化を危惧してニコライを日本の皇族同様とみなし死刑を求める松方正義後任首相と、政治的思惑によらずあくまで法治主義を堅持し、一般人への謀殺未遂罪を適用すべきとする児島惟謙大審院長が対立した。時の実力者伊藤博文も前者を主張し、さもなくば戒厳令をもって強行すべしとの意見であった。最終的には後者の罪で有罪とされ無期懲役に処された(同年急性肺炎により獄死)が、これをもって日本は法治国家であるということが列強諸国に印象付けられ、のちの不平等条約改正に有利に働いたと分析されている。

この裁判を通じて政府内では、ロシアとの死罪密約をしていた青木外相、西郷内相、そし病気を理由に山田法相も辞任している。まだ発展途上であった日本が武力報復・賠償請求・領土割譲されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる所以である。

ロシア外相ギールスは、日本で死刑判決が出た場合にはロシア皇帝が減刑嘆願を行い、両国親善に資するというシナリオを考えていたらしいが、何でも利用しようとする政治の世界はいつの世も魑魅魍魎の巣窟である。

5年後のニコライ2世戴冠式には日本から山縣有朋らが明治天皇の名代で出席するなど、二国間の関係改善に努力していたが、残念なことに事件以降のニコライの日本人観は後遺症もあってか嫌悪的になり、日本人を「猿」と馬鹿にして「腰抜けの日本が帝国ロシアに戦争など挑むまい」と高を括っていたなど、日露戦争の敗因につながったと分析する歴史家もいる。

余談だが、ニコライを助けた二人の車夫は国民的英雄となり、ロシアから一時金2500円(現在の1000万円程)と終身年金1000円が贈られた。日本政府からも勲章と年金36円が与えられ大金持ちとなった。ところが日露戦争が始まると敵国の皇太子を助けたとされた二人は年金を取り消され、前科者の向畑は遊興に明け暮れた挙句に婦女暴行・勲章剥奪、もうひとりの北賀市は独身であったため結婚希望者が殺到し、後に郡会議員まで務めたものの開戦後は「露探(ロシアのスパイ)」と言われ、余生は安穏としたものではなかった。

二国の君主と取り巻きの政治家、そして不安に揺れ動く国民を巻き込んだ歴史絵巻には、大国の驕りと尊大、英雄の毀誉褒貶、無責任に煽る報道、不安に駆られ暴挙に走る者、三権分立の危機といった今の世界のあちこちで見かける様相とそれほど違わぬ風景が繰り返し繰り広げられている。来週結論が出るイギリスのEU離脱・残留問題もそういった断面のひとつである。