今、改めて開発購買を考えてみる

2015年4月19日 at 5:24 PM

数年前、とある会社で「購買本部」を「開発本部」に統合し、「開発・購買本部」とするという組織改革を行った記事を見た。「開発購買」という言葉は、製造業ではかなり市民権を得たものと思うが、それを文字通り体現したような英断なのであろうか。私はこの会社の詳細は分からないし、社内事情にも勿論精通していないので、その経緯や背景はわからない。なぜこの記事が気になったかというと、筆者が調達部門長として、開発購買のさらなる進化を目指していた時、開発設計部門と調達部門との融合をかなり真剣に具現化しようと議論していたことがあったからである。

蛇足ながら、開発購買を定義付けしてみると、「商品企画・開発設計段階から、計画利益を確保するために、製造原価や品質・納期などの目標を達成すべく、開発設計・調達・サプライヤーが三者連携で協働推進する一連の活動」と言えるであろう。そもそも開発購買は「製品開発段階での購買活動」の略であるから、設計者の行う仕様決定・図面作成の一連のプロセスに、市場環境やモノづくりに精通した専門家たるバイヤーが関与して、初期段階からのQCDの最適化を実現していく活動である。

サプライヤーの能力を十分に引き出して活用することは開発購買の成功に必須の要素であるが、まずは同じ社内の開発設計と調達の連携が図られなければ、外部の力を十分に引き出すことはできない。その意味では開発設計と調達の一体化である組織の統合は一つの型と言えるかもしれない。しかし、連携を図るために組織の統合をするというのはいささか早計に過ぎるのではないかと最近感じている。というのは、開発設計と調達では本来の役割が違うからである。役割が違うということは存在目的が異なるということである。勿論、両部門とも事業や会社の目標を共有し、同じ目標に向かって鋭意努力する訳であるが、開発設計と調達では求められる機能が違うことを認識すべきである。

開発設計の究極の役割は社内でしかできないValue Creationである。調達の役割は社外からのValue Purchasingである。前者はInvestmentの決断が求められReturnが期待され、後者はExpenseという形でCash Outの個々の妥当性を問われる。

まず両部門の最初の連携作業は内外製方針を決めることである。この開発・設計・製造・サービス等を社内で行えば、競合に対して優位を保てるかどうかを判断することが極めて重要であり、そのためには調達がその役割を通じて、市場の動向や競合の状況を探り、それをFeed Forwardして、事業企画あるいは開発の基本方針を適切に決定していくことになる。

開発設計はひとたび社内開発が決まったら、そのリスクを背負いつつ、その成功に向かって邁進する。数年後、結果的に失敗あるいは競合に負けることがあるかもしれないが、それを恐れていては大きな成功は望めない。それゆえ、開発設計者は寝食を忘れて開発設計に打ち込む。会社の成否を左右する大仕事である。

一方、調達部門は外部から調達することが決まった機能(敢えて、物品とは言わず、ある機能を満足するものを外部調達するという役割を負わせている)を最小のコストで、使用上の要件を満たす品質レベルで、必要な時に必要な量が得られるように万事手配する。

開発設計と調達の組織的融合は理想的なように見えるが、組織一体化後に開発設計者が外部からの調達品の価格交渉を行うようになってしまっては、開発設計の本来の存在理由であるValue Creationに十分な時間を割くことができない。調達がCash Outについて責任を負うのであって、この二つの異なる役割を踏まえた上で、それぞれがその役割を果たすように共同戦線を張り、切磋琢磨し、情報共有を行い(同じフロアで隣同士にするだけでも効果は絶大)、戦略構築・実行を連携して行っていくのが本来の姿であろうと思う。外部購入費が増えるのは調達部門としては腕の振るい所が増えて存在価値も高まるが、顧客への価値を外部に頼りすぎるというのは、会社や事業として問題である。社内のValue Creationが無くなれば、その存在は風前の灯であろう。

開発設計部門が開発購買の役割を積極的に担う会社も少なからずある。開発購買という活動は現行組織に縛られて行うものではなく、適材適所の組み合わせで行えば良いと思うが、よく聞こえてくるのは、目標原価は達成できたものの、量産で品質問題や納期問題、キャパシティ問題に直面してしまい、計画通りの出荷が出来なかったり、販売機会損失に至ってしまうことである。

開発購買は、開発設計段階で原価の8割以上は決まってしまうというデータから注目されてきたところがあるが、原価低減だけが目的ではない。量産段階でのQCDの最適化が目標なのであって、開発設計部門だけでは、この目標達成が極めて困難である。調達部門の経験と知恵が期待される分野である。

開発設計者がValue Creationにその知識と技能と時間を費やせるように、調達部門は開発設計部門を支援できるだけの知識と技能を会得して期待に応えられる組織にならなければならない。そしてサプライヤーを含めた三者連携をリードしていくコーディネート力が求められるのである。

国民の義務と権利

2015年4月3日 at 3:24 PM

中学校で憲法に定められた「日本国民の三大義務」を教わります。①保護する子女に教育を受けさせる義務(小中学校教育)、②勤労の義務、③納税の義務の3つです。教わって以降、普段疑問に思ったり、気にしたりすることはありませんでしたが、最初の海外赴任から帰国した91年7月後半、①について面を食らうことがありました。3人の学童期の子供がいましたが、もう一学期を数日しか残していないある日に区役所に転入届を出しに行った時のことです。親としては夏休み期間中に3年ぶりに帰国した日本に慣れてもらってから、二学期から登校すればいいという呑気な気持ちでいました。区役所の窓口では「子供には教育を受ける権利があります。明日から学校へ登校させてください。」と強い口調で言うのです。義務教育を受けさせるのは親の義務であり、子供の権利であるいうことですが、親として子供にしかるべきアイドリング期間を設けてスムースな日本の学校への導入を図るのが、親としての務めであるとの考えは今でも変わっていません。ショッキングな出来事として一生忘れえないお役所の対応でした(今はもう少し柔軟な運用が図られていることを願います)。

文科省が昨年発表した義務教育期間における不登校は11万9617人で、前年比7000人増加だそうです。小学生はさすがに0.36%と低いですが、思春期の中学生ともなると2.69%、つまり1クラスに1人は不登校の生徒がいる勘定になります。ついひと月ちょっと前に起きた川崎の中学一年生殺人死体遺棄事件では、なぜ最悪の事態を防げなかったのかと識者が色々議論していますが、本当にケアが必要である子供たちに親は勿論のこと、学校も行政も周辺の大人ももっと注力すべきであるということに関しては誰も異論はないのではないかと思います。彼らこそ本当に保護されなければならない対象です。

②勤労や③納税についてですが、私は32年間一つの会社に勤めるサラリーマンだったですから、天引きで税金をボーナスを含め毎月きちんと納めていました。ここ2年は個人事業主としての収入を確定申告して税金を納めるようになりました。そこから考えると、サラリーマンの場合は②と③がセットであると考えられます。一方で、働いていない国民も多いですよね(働く必要のない人、働きたくても何らかの事情で働けない人、全く働く気のない人等)。投資をして稼いでいる人は勤労しているのでしょうか?ニュアンス的には勤労って感じはしないですよね。辞書には「勤労とは、心身を労して仕事にはげむこと、賃金をもらって一定の仕事に従事すること」とあります。どうやら勤労の義務とは社会主義的な考え方から発しているようです。1936年に制定されたソビエト社会主義共和国連邦憲法は先祖や親の財産を相続して地代や家賃、利子収入で生活することを否定し、総プロレタリアート(労働者)化を図るために作られました。その影響を現憲法は受けているという見解があります。憲法を良く読み込んでみると、第27条には「すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」とあります。つまり勤労を国民の義務とするとともに、国家に対して国民が勤労の権利を行使できるように義務を課したとも言えます。不況期の失業対策などは国家の義務の現れの一つと言えるでしょう。

③納税に関してはアメリカで13回確定申告をした経験のある私からすると、日本の一般のサラリーマンの源泉徴収・年末調整の仕組みは徴税する側からはほぼ完璧なシステムと言えるでしょう。一方、納税者側からは毎月の納税額はどのように決まっているのか、年末の調整金額はどのようなロジックで決定されているのか、良くわからないまま国民の義務を果たしていることになります。言い方を変えるとお上の言うがままに納税をしている、納めているというより取られて(盗られて?)いる感じ。確定申告は自分で計算することで、どういうロジックで納税額が決まっていくかが理解できる点で重要な作業です。それに加えて自分が主体的に納めたという意識が高まります。当然使い方にも関心が高まります。

源泉徴収制度というのは事業者が納税者に代わって国に納税するので、納税者は事業者に不服申し立てはできますが、国に直接不服を申し立てることはできません。これは1970年の最高裁判所の判例があります。ひどい判例ですが、1992年には一層それを強固なものにするような判例が出されています。憲法で国民の義務としておきながら、事業者からの訴えしか認めませんというのは全くおかしな話です。一方で、法的に保護されている方々を除いて、簡単に言えば賢く?脱税している方々を放置しておくことは納税を義務としている国家としては看過できないはずですから、国の威信をかけて徴収を徹底していただきたいと切に思います。でなければ真面目なサラリーマンは浮かばれません。

アメリカの合衆国憲法は国民の義務について規定はありません。しかし、アメリカの市民権を得るためには、次の宣誓をしなければなりません。1)アメリカ合衆国憲法への忠誠の誓い(以前保持した外国への忠誠放棄)、2)国内外の敵からアメリカ合衆国憲法を守る誓い、3)法律が定めた場合、兵役に従事する約束、4)国家の大事の際に、法律が定めた市民としての義務を果たす約束。

イギリスは憲法として法典化されていない所謂「不文憲法」国家ですが、同様にイギリス市民には「エリザベス女王陛下、法に則った陛下の世子および継承者に対して誠実であり、真の忠誠義務を負うことを誓います」という「宣誓」と、「連合王国に忠義を捧げ、誠実に国法を遵守し、イギリス市民としての義務と責任を果たします」との「誓約」が義務づけられています。

日本国民の権利は実は随分沢山認められているのですが、その前提となるのは、上述の英米に見られるA「国家への忠誠」とB「国防の義務」であると私は思います。権利と義務はセットで語られるべきで、義務のない権利はあり得ません。今、参政権を18歳に引き下げようという議論があります。今の20歳代を筆頭に若年になればなるほど、投票率は低いのが実態です。国民の義務と権利をきちんと学ぶ場がないことがこの無関心となって現れているのではないかと危惧します。18歳引き下げ議論と国民の義務権利意識の高揚を並行して行うべきと考えます。その意味で、憲法に記載するか否かは別にして、AとBを承服できないのであれば、以下の権利を行使する資格はないと思いますが、皆さんは如何お考えでしょうか?

日本国民の権利:差別されない平等権、精神・身体・経済活動の自由権、生存権・教育権・労働基本権などの社会権、国家賠償請求・裁判を受ける権利・刑事補償請求などの請求権、選挙権・被選挙権・国民審査・特別法制定・憲法改正などの参政権