学校教育の改革待ったなし

2014年8月12日 at 4:21 PM

大辞林には「教育とは他人に対して意図的な働きかけを行うことによって、その人を望ましい方向へ変化させること。広義には、人間形成に作用するすべての精神的影響をいう。その活動が行われる場により、家庭教育・学校教育・社会教育に大別される」とあります。社会教育を除いては、主に未熟な人間に対して成熟した人間が何らかの働きかけを行って、その成熟した人間の思う望ましい方向へ導くという意味合いがあります。一番身近な例は親子の関係です。最近はMonster Parentなる人達が登場して学校教育の現場を混乱させているようですが、学校教育に躾から学力から試験対策まで何でもかんでも期待するのは明らかに間違っています。教育基本法の義務教育の規定には「各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする」とあります。前段は個人の、後段は国家及び社会という集団に貢献する人間形成を行うという目的を掲げています。親として子の幸せを願い、思うところの教育を施すことは必ずしも教育基本法の精神と100%合致するとは限りませんから、それぞれの家庭のオリジナリティを持った家庭教育は非常に重要で、両親・祖父母・兄弟姉妹・同居する人全てが好む好まざるとに関わらず影響力を持つことになります。

しかし、何と言っても義務教育期間の9年間に加えて、幼稚園・高校・大学などその前後合わせた20年弱の学校教育という存在は最も人間形成に大きく影響を与えていると言えましょう。ここで教育基本法の前段に注目したいのですが、「各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培う」という目的に今の学校教育は適っているのか、かねてより疑問に思っていました。平均点を上回る子供たちの量産より、それぞれの子の強みや興味を持っていることをもっと伸ばしてあげる方向に舵を切るべきです。当たり前なことはコンピュータがかなりのことをやってくれる時代です。単なる知識の詰め込みは却って考える力の欠如につながります。もし、前述の目的を学校教育が果たせないとなれば、いずれ不要になるでしょうし、一部しか果たせないということであれば、その残りの部分を他のシステム(仕組み)に委ねなければならないと思います。教科書は明治16年から当時の文部省(今の文部科学省)の認可事項になっていますから、国家という枠を外れた教育は現行法下では学校教育に期待しえないとまず認識しなければなりません。グローバル化によって、経済や社会や文化や宗教が国家を超えて動いていることは皆さん周知の通りです。

日本の高度成長を支えたものは日本国民の教育レベルの高さであったとは定説として言われていることです。アメリカから持ち込まれた品質管理を本国より実践的に消化して成果を上げたのも均一的な思想、学力、労働観などが大いに影響していると思います。日本の全国的かつ統一的教育は、江戸時代後期に幕府や諸藩が領内に設けた学校、寺子屋、私塾等がその素地となりました。後の中学・高校の母体となった藩校が270校、寺子屋に至っては数万校あったと言われます。明治14年に制定された小学校教則綱領では、小学校の教科として【初等科】:修身、読書、修辞、唱歌、体操、【中等科】:初等科に加え、地理、歴史、図画、博物、物理、裁縫(女子)、【高等科】:中等科に加え、化学、生理、幾何、経済(女子は家事経済)が規定されました。その当時に必要であると考えられた学科が並んでいるのでしょうが、文言だけ見ると、かなり難しそうですね。当時の小学生は消化できていたのでしょうか。以降、教育指導要綱によって教科や教える内容やポイントは改訂が加えられてきました。しかしながら、将来を見据えて、これからの学校教育に期待できることは何かという視点から、大きく発想を転換しなければならない時代なのではないでしょうか。

これから社会に出ていく子供達に何が必要なのか、と考えるとやはり「自分で考える力」「創造(想像)性」「コミュニケーション能力」であろうと私は思います。コンピュータ革命に始まり、ここ数十年のIT革命はこれまでの教育の有り様を根本から変える影響を与えています。産業革命はBlue Colorの労働の形を大きく変えましたが、IT革命はWhite Colorの価値を大きく変えていきます。肉体労働に取って代わる機械から、知的労働を変えるRobotの登場に繋がります。その時、人間は社会にどのような価値を生み、自らの充実感や満足感を得るのか、その下地の教育を施すことが求められます。知識ばかりでなく、緊急事態発生時のサバイバル知識や体験、それを可能にする体力作りも重要ですね。

そもそも「各個人の有する能力を伸ばしつつ」とありながら、今の学校教育ではできる子が足踏みを余儀なくされています。出来ない子、その科目の理解が弱い子に合わせて授業が進められていますから、基本理念と矛盾しています。学力は先生に教わらなくても今やネットでも本でもタブレットでも最新ソフトがいくらでもあります。それらを個人で行おうとするとお金が掛かりますから、無料の義務教育と同じとはいきませんが、自分で学ぼうという気があれば高額な授業料など必要ありません。未だにお受験の為に高額な教育費をかけているご家庭もありますが、そのCost Performanceの低さに気付かないのが不思議でなりません。

いまや学校のメリットは集団生活いわゆる疑似社会を経験するくらいしかないのではないかとさえ思えます。学力の違いによって理解力は違いますから、学力向上はそれぞれの能力に応じたネット学習でも十分その目的は果たせるものと思います。過去、内閣総理大臣の諮問機関である臨時教育審議会で素晴らしい提案は数多くされています。個性重視の原則を謳い、個人の尊厳・自由と規律・自己責任の原則を確立させる。国際化、情報化への対応。情操や意志の養成。心豊かな人間の育成、文化と伝統の尊重と国際理解の推進を重視。これらは何十年も前の昭和と平成の前後に答申されたことですが、残念ながら私にはその変化が見えません。生涯教育を促進すると同時に経験豊富なリタイア世代の社会人の活用をもっと実行に移すなど、「各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培う」という教育基本法の目的に合致するような改革をしなければ、現行の学校教育の存在は危うくなる一方であると思うのですが、一体、何が障害となっているのでしょう?

Sustainabilityと人間の欲望

2014年8月10日 at 2:40 PM

暑い夏が続いていますね。去年は鰻の稚魚が激減して、蒲焼の値段が高いという理由に加え、そんなに減っているのであれば、鰻だけが食べ物ではないしということで土用の丑の日にも遠慮して食べるのを控えました。今年は稚魚が豊漁で卸値も2割ほど安いと聞いていましたので、遠慮せずに何回かいただきました。食べるとやはり美味しいですし、あの口全体に広がるふわふわ感と香ばしい香りは、間違いなく幸福感を運んできてくれます。あくまで気分の持ち様なのでしょうけれど、元気になったような気もします。

しかし、残念ながら世界の科学者らで組織する「国際自然保護連合(IUCN)」は今年6月、絶滅の恐れがある野生生物を指定する最新版の「レッドリスト」にニホンウナギを加えました。法的な拘束力はありませんが、資源量が回復しなければ輸出入が規制され、将来更なる取引価格の上昇を招く可能性があるとのことです。指定の理由は生息地が減少したことや過剰な捕獲、環境汚染や海流の変化も考慮した結果であるという説明です。ニホンウナギは東アジアに広く分布する回遊魚です。回遊魚は、地球環境レベルで海流や水温が変化すると、それに伴ってエサとなるプランクトンの発生状況が変わり、その魚にとって良い条件が揃っている時は爆発的に増え、状況が悪ければあまり増えないという特性を持っています。この変化は周期的に変動することが知られており、マグロやカツオ、それにアジやイワシなども該当します。確かに昔は今年は豊漁で家計に優しいとか、不漁だったので消費者の手には届かない高値になったとかニュースで報道されていましたね。最近は日本食ブームというやや嬉しい傾向が、先進国のみならず経済的に豊かになってきた新興国でも起こりました。寿司に代表される生魚の需要が大いに高まり、それを満たそうとする乱獲に拍車をかけてしまったこともあり、これらの規制が必要になってきたのは無理からぬことです。

クロマグロの漁獲規制論議も記憶に新しいですが、「中西部太平洋まぐろ類委員会(WCPFC)」が昨年12月、各国は2014年の未成魚の漁獲量を2002~04年の実績に比べ15%以上減らすことで合意しています。もうひとつの団体である「北太平洋におけるまぐろ類及びまぐろ類似種に関する国際科学委員会(ISC)」は、現在の規制や管理措置が完全に実施されたとしても回復は期待できないとして、更なる漁獲量削減の必要性を指摘しています。

捕鯨問題も日本にとっては難題続きですが、こちらは資源としての側面に加え、「知的生物だから食すべきではない」「太古からの食文化としての正当性」など文化・環境保護観点からは言うに及ばず、政治・宗教的色彩も帯びて日本は劣勢に立たされっぱなしです。ノルウェーはIWCの捕鯨禁止令を1993年以降守っていません。独自の数量制限を設定して商業捕鯨を続けていますが、それでもミンククジラは増えているとして禁止令を無視し、自国の正当性を主張し続けています。データ精度が十分確保されているのであれば、個人的にはこの選択もありだと思います。知的生物だから云々の話は別のところでしてほしいですね。牛や豚はバカだから食べてもいいという理由はないですよね。食べない理由は宗教的な背景も含めて個人の自由として認められて当然ですが、食べるなという理屈は感染など人体への害を除けば、これを強制する説得性を持ちえないのではないかと思います。

いずれにせよ、食す人達、捕獲により生計を立てる人達、自然保護の主張する人達の全ては「水産資源が無くなったら困る」人達ですから、その共通目的を共有しえる関係です。その意思を持って合意形成に努力していただきたいものです。先月末に日経新聞電子版が行ったアンケートによると、ニホンウナギの漁獲制限に95%の人が仕方ないと理解を示し、78%の人が輸出入の禁止など国際的な取引規制の対象にすることに賛同しています。将来にわたって水産資源を次世代に継承していくことは現世代の責務です。多くの人がそこに理解を示していますから、密猟や抜け駆けを許さず、共通目的の下で地球規模での管理体制実現を求めたいと思います。

一方で技術進歩の進展もあります。近畿大学のクロマグロ完全養殖成功といった朗報もありましたし、実はニホンウナギの完全養殖も4年前に独立行政法人水産総合研究センターによって成功しています。あと3年で実用化したいと意欲をのぞかせています。こういった地道な水産技術の進展、関係者の皆さんの努力に拍手拍手ですが、それを盾に乱獲解禁とならないような人類の自制心を期待したいものです。

持続可能性(Sustainability)という言葉は、もともと水産資源を如何に減らさずに最大の漁獲量を得続けるかという「水産資源における資源評価」という分野の専門用語であったそうです。今では様々な分野でこのSustainabilityという言葉が使われるようになり、化石燃料に代わる再生エネルギーの開発や、金属のリサイクル等でもその考え方が浸透しています。原発の核廃棄物処理を例に取ると、埋める以外の解決案が無いまま進めるというのは、将来世代へのツケ、問題先送りという無責任なことですから、全く恥ずかしい限りであると私は思います。今後の技術革新による解決を勿論期待していますが、事実上もんじゅの核燃料サイクル計画は破綻してしまいましたから、原発政策の一時凍結は止む無しと思います。

遡ること16世紀の大航海時代にヨーロッパ諸国が植民地政策と称して略奪していった資源は数限りなくあります。まだ地球の全貌がわからず、果てしなく続く海原の先には黄金郷があると信じられていた時代です。未開の地に黄金や香辛料を求め、天然資源を安く貪り、労働力としての奴隷を売買し、他国に後れを取ってはなるまいと自国のみの繁栄を求めていった時代です。今やグローバルの時代となり、周りの環境から全く隔離して自国・自地域・自分だけが繁栄することはできません。大航海時代に一攫千金を求めて新大陸を目指した冒険者たちは、一方では数々の伝染病を持ち帰ることにもなりました。植民地時代から始まる森林伐採は、それまで密林という自然体系の中で密かに生息していたウィルスを世界中に撒き散らしてしまいました。人はこれまで好奇心と欲望の名のもとで多くのパンドラの箱を開け、その都度対策を講じてきました。今でも新たなるパンドラの箱を探す旅を続けていますし、将来開けてはいけないパンドラの箱を開けてしまうかもしれません。

地球における生命の誕生は約40億年前に遡りますが、このプロセスを100年に短縮して火星を人間の住める惑星にするテラフォーミング(http:下記)という計画があることを最近知りました。人間の創造性の無限の広がりと欲望の果てしなさ、そして生命共存という賢明さはどこでどう鼎立するのか、永遠にしないのか私の想像力を遥かに超えているのでわかりませんが、飽くなき挑戦を止めることは誰にもできないというFreedomが現世の活力を生んでいることは否定できません。

http://quest.arc.nasa.gov/mars/background/terra.html

Conscious Capitalism

2014年8月1日 at 11:12 AM

「世界でいちばん大切にしたい会社」コンシャス・カンパニー(翔泳社)は多くの示唆に富む好著である。ここで語られるのは、ホールフーズ・マーケットの創業CEOであるジョン・マッキー氏が自らの体験に基づき自社を「人を幸せにする経営」に変貌させていった挿話と、短期的利益重視に立った経営と長期的視点に立った経営では後者が好業績生むという数多の実例である。冒頭では、この四半世紀資本主義は正しい軌道から外れてしまい、歴史上最も富を作り出せる素晴らしい仕組みであるにも関わらず、ほとんど悪者として非難の的になってきたという認識から始まる。労働者を搾取し、消費者を騙し、金持ちばかりを優遇して貧乏人には冷たく当たって不平等を作り出し、個性を認めず、コミュニティを分断し、環境を破壊する元凶として描かれがちな資本主義。企業家や経営者は利己心と欲得で動くものとレッテルを張られ、時に罵詈雑言を浴びせかけられる存在となってしまった。筆者は「縁故資本主義」(様々な規制を政府が作り、政治とコネがあるビジネスが有利となって正当な競争が阻害されているもの)がその代表例で、その土壌の広がりが誤解を生んでいると指摘している。日本の時代劇でも越後屋と悪代官という組み合わせは定番を超えてお笑いの域まで昇華された感と言えなくもないが、世の中にその類型はまだまだ多く見られる光景なのかもしれない。昨今の習近平国家主席による政治腐敗・汚職摘発は前政治局常務委員の周永康氏にまで及んだと新聞が報じているが、内実は「ミニ文化大革命」と言われる権力闘争で、政治中枢に居座る者は皆五十歩百歩と揶揄する声も少なくない。

創業当初こそ苦難の連続ではあったが、その後順調に業績を拡大したホールフーズ・マーケットは1981年に70年ぶりと言われた大洪水に見舞われる。店は2m以上の床上浸水となり、店内の装備や在庫品は何もかも破壊されてしまい、損失額は40万ドルを超えた。自社の経営資源だけで回復できる状況にはなく、破産状態となってしまった。ジョンはわずかに残った復興心を奮い立たせ、絶望の淵から少しずつ復旧を始めたが、全く予想もしていなかった素晴らしいことが起こったのだった。何十人もの顧客や近所の人々が、作業服を着てバケツやモップを携えて、店に集まってくれたのだ。「この店を潰してたまるかい。落ち込むのはこの辺にして掃除を始めよう。さあさあ、仕事に取り掛かろう。」と手伝いをかって出てくれたのだ。ジョン等創業者や社員は抑えきれない涙を流しながらも、身体の内側からエネルギーが突然湧いてきて、希望の光を実感することができた。ジョンは「どうしてここまでしてくれるのですか?」と尋ねないわけにはいかなかった。「ホールフーズは私にとって本当に重要なんです。ホールフーズがなかったらこの町に住みたいとは思わないでしょう。それほどこの店は私の生活にとって大きな存在なのです。」という答えが返ってきた。顧客にそれほどまでに愛されていたという実感はジョンが店の再開を強く決意するのに十分であった。

手を差し伸べてくれたのは顧客だけではなかった。他のステークホルダーからも支援の申し出が沢山あった。洪水で無一文になり給料も払える状態ではなかったが、多くの社員は払えるようになるまで無給で働いてくれた。何十社ものサプライヤーがツケで商品を置いてくれた。投資家もホールフーズを信じて追加投資をしてくれた。銀行から追加融資が受けられたので、在庫を新たに積むこともできた。こういった多くのステークホルダーの後押しを得て、ホールフーズは幸運にも洪水後わずか28日で店を再開することができた。もしステークホルダーが一丸となってホールフーズにあれほどの思いやりを示してくれなかったら、一体どうなっていただろう。今日110億ドルの売り上げを計上するまでに成長したホールフーズは30数年前に間違いなく潰れていただろう。

筆者はこの状況を「ステークホルダーの統合」という言葉で表現している。ステークホルダーとは言うまでもなく、ビジネスに影響を及ぼし、あるいはビジネスから影響を受けるあらゆる関係者のことである。「意識の高い会社」(Concious Company)はステークホルダーの一人一人が重要で互いに繋がり依存しあって、ステークホルダー全員の価値の最適化を目指すものである。全員が共有目的(企業の存在目的)とコアヴァリューによって動機づけられており、もし主要ステークホルダー間に紛争が起きて、誰かが得をすると誰かが損をするというトレードオフの関係ができそうになると、Concious Companyは人間の創造性に関する無限の力を発揮して「Winの6乗」の解決法を創り出して紛争を乗り越え、互いに依存しあうステークホルダー間の利害調整を図ることができる。

実際のビジネス社会ではステークホルダー間の利害関係は複雑だ。あちらを立てればこちらが立たずというトレードオフばかりだ。私もそういった多くの問題に直面して、打開策というよりは妥協策を模索していたひとりである。ちなみにJAL再建に力を発揮した稲盛氏は「トレードオフ」という言葉を禁句とした。京セラ時代からとのことであるが、その意味が本書を読んでわかったような気がする。品質と価格はトレードオフとかいうが、それを言ったらInnovationは生まれない。両方を満足するからこそ、これまでにない商品やサービスの差別化ができて、結果として顧客に受け入れられ、社会に貢献することができる。身近な例で言えば、掃除機の吸引力と騒音。これを両方満足する為に多くの技術者が課題に取り組んでいることであろう。吸引力を上げると騒音はうるさくなるトレードオフ関係ですと言った途端にinnovationは絶対起こらない。

いっとき企業の目的は株主価値の最大化だと言われた。企業によっては長期的投資を渋り、期間利益の最大化を達成し、一般従業員の何百倍もの報酬を期間経営者が得て去ったのち、その企業が低迷迷走した例は少なくない。株主はステークホルダーの重要な一員であるが、他全てのステークホルダーがサーバントになるのは明らかに間違っている。売上や利益といった数字が目的化すると知恵が出てこなくなるものだ。数字を前にして妙案を挙げた人を私は見たことがない。揺るぎない共有目的があればこそ、その達成に向けてステークホルダーの全員が何とかしたいと知恵を絞るものであろう。人は数字のみで心を動かされることはない。Concious Capitalism(意識の高い資本主義)とはあらゆるステークホルダーにとっての幸福と、金銭、知性、物質、環境、社会、文化、情緒、道徳、そして人間の尊厳を同時に創り出すような、進化を続けるビジネス・パラダイムのことである。

本来の(自由競争)資本主義はわずか200年の間に、①世界の85%の極貧(1日1ドル未満)を16%にまで激減させた。②1800年初頭に10億人を超えた人口は今日70億人を超えたが、これは公衆衛生・医療・農業の生産性の拡大が大きく寄与している。③一度に数百万人の命を奪う疫病から人々を救い、平均寿命は30歳から68歳まで伸びた。④この40年間で栄養失調者割合は26%から13%へ半減した。この傾向が続けば21世紀中に飢餓がなくなると言われている。⑤極一部のエリートしか読み書きできなかったが、今日識字率は84%である。⑥わずか120年前には民主主義国家でさえ女性や少数民族には参政権がなかったが、今は53%を超える。⑦1910年にアメリカで高卒の学歴を持つ人の割合はわずか9%だったが、現在はおよそ85%。そして25歳以上の40%以上が大卒以上の学歴を持っている等々の成果を上げてきた。

本来の資本主義を取り戻すというConcious Capitalismが脚光を浴びてきたのは、こういった歴史的社会変化と無縁ではないだろう。資本家と労働者が対立関係にあった時代においては、資本・知識・情報・社会参加などの観点で圧倒的な格差があった。しかし(自由競争)資本主義と民主主義の下、多くの人々が教育の機会を得て、IT革命による情報へのアクセス自由度が増大し、肉体的苦痛や精神的緊縛から解放され、心の安寧を得ることできた。資本家と労働者といった対立概念は一部の抑圧地域を除けば、すっかり昔のものとなった。以前よりもはるかに複雑な事柄を理解し、これに対応できる人々が多くなってきているのだ。個人が投資家であり、生産者であり、消費者の時代である。争奪による自分だけの幸せを希求しても決して長期的な安寧を得ることはできない。金銭は現代社会において生きる上での必要条件ではあるが、人生の喜びを感じさせてくれる十分条件ではない。Concious Capitalismは、多くの人々の幸せが、自分のそして家族や友人の幸せに帰することを理解してきた人々の増加によってもたらされた福音とも言えるニューパラダイムなのではないだろうか。