財政再建はドイツには出来て日本には出来ないのか

2014年7月5日 at 11:55 AM

ドイツが2015年に財政均衡を実現し、赤字国債の発行を46年ぶりに停止する見通しとなったと7月3日にマスコミ各社から報道された。2日に閣議決定された予算案では好景気で税収が膨らんで財政赤字が消滅。借金をしなくても歳出が賄える状態になるとのことである。

一方、日本政府は、2013年6月に骨太方針(経済財政運営と改革の基本方針)を閣議決定し、中長期の財政健全化に向けて2020年度までに黒字化するという財政健全化目標を掲げた。目標通りいけばドイツに5年遅れということになるが、本当に可能なのかどうか不安視するのは私だけであろうか。

ドイツの単年度財政収支は実は2012年から黒字転換しており、政府総債務残高も2012年をピークに減少し始めている。GDP比率で見ても1992年の40%からジリジリ上がり2012年には82%まで上昇したが、今年は70%台半ば、2017年には70%を割り込む見込みと報じられている。

日本の政府総債務残高のGDP比率は今年242%、ほぼずっと一貫して上昇し続けている。日本が高度成長を謳歌している時期には資産も増加し、負債が増えても大きな問題にはならないが、日本のそれが80%を超えたのは1994年バブル崩壊の後遺症がまだ残る時代で、1996年に100%超え、2009年に200%を超えてしまった。失われた20年と俗に言われているように1991年から日本の安定成長期は終焉を迎えた。にも関わらず財政支出は垂れ流し、国債発行という麻薬でここまで財政赤字を増大させてきてしまった。選挙のたびに甘い汁に吸い寄せられ衆愚政治に陥ってしまい、2009年期待をもって政権交代に成功した民主党は埋蔵金も掘り起こせず、中途半端な強制力の無い劇場型パフォーマンス事業仕分けしか行えず、子ども手当に代表されるバラマキを行って財政再建どころか、それまでの自民党時代と変わらず新規国債発行額を更新し続けていった。

2012年3月末の日本のバランスシートは、負債総額は1088兆円、資産総額は629兆円と専門家が試算していた。私は1000兆円を超える借金だけを捉えて声高に危機を煽るつもりはないが、一家のバランスシートが家屋敷を売っても400万円超えの借金が残る(便宜上兆円を万円に置き換えた)状態を誰しも健全とは言わないだろう。国債の95%は国内貯蓄で賄われているので、財政破綻はしないという論理がまかり通っている向きもあるが、国の借金と国民の資産をごっちゃに考えてはいけない。計算上、今の出生率では日本人は950年後にひとりぽっちになってしまうそうであるが、その時には借金と資産は一人のものなのでチャラみたいな絵空事を真顔で言う人がいるが、それまでに国家が破綻していないわけがない。愚政が続けば国民が国民であり続ける保証もない。世界中には国が滅び流浪する民や、国を捨ててあるいは追い出されて移住している人達が巨万といる。1900年代に始まった日本人のブラジル移民だって、奴隷解放令に伴う労働力不足を補うために導入され渡伯したものの、現地の居住環境は悪く労働は過酷で賃金の悪さなどの待遇が悪かったために、「棄民」(日本国に棄てられた民)と呼ばれたのである。

財政再建には法的拘束力のある財政規律を設けて、中期的に進めていかなければならない。ドイツやアメリカのそれに比べて、日本の政治的コミットメントはその決意のほどが感じられない。EU では1977年6月締結の「安定と成長に関する協定」で財政赤字のGDP 比及び債務残高のGDP 比の限度が規定されている(罰則規定がある。しかし近年の財政困難国の相次ぐ出現により一部骨抜き緩和がなされ、ドイツの将来の負担が懸念される)。アメリカでは1990 年代において「OBRA90」「OBRA93」が制定され、財政健全化に効力を発揮した。最近では政権と議会の一歩も譲らない攻防で政府予算執行が出来なくなる事態が起きるほど、その真剣度を伺わせる。

オバマ政権は2020年までに3.8兆ドルの財政赤字を削減するという壮大なシナリオを作成し、「年金支給年齢69歳への引き下げ」「連邦政府の人員10%削減」「軍事費を聖域化せず」などの歳出削減措置を行う一方で、必要な歳入増のため「ガソリン税のアップ」「不動産ローンの税軽減措置の一部カット」など国民に負担をさせるという政策を掲げ実行中である。スターバックスCEOのハワード・シュルツは、財政赤字を解消するまで全ての政治的キャンペーンへの献金をストップしようと呼びかけ、200名近い大企業経営者が同調した。アメリカの資本主義には知性も魂も存在し、世界中の多くの夢を持った大志を惹きつけている。

日本でも遡ること2002年度予算では、財政規律維持のために「国債30兆円枠」が掲げられた。しかし、2004年度予算編成においては、国債発行額は「一般政府の支出規模の対GDP比を上回らないものとする」という新たな緩和指標が導入され35兆円超の国債発行が行われた。

国民のニーズに合致しない無駄な公共サービスを停止させ、国民に適切な租税負担を求めるという基本中の基本の効率性を是非実践していってほしい。今の安倍政権には特に財政規律を守るべき指針はない。基礎的財政収支の目標もあくまで目標であり、今年のようにアベノミクスで税収が回復しても、粗方法人税減税に使われ、不透明な成長戦略頼みに終始し、財政再建に充てるようなことがなければ、日本の財政再建は進むはずがない。それでも長期金利は0.6%以下にあるので日本国債の信認は維持されているとか楽観論を吹聴する人もいるようだが、借金はいずれ返す必要があるものという基本は個人でも国家でも変わることはない。

100年前に起きた第一次世界大戦から今日まで

2014年7月2日 at 10:34 AM

1914年6月サラエボでオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が暗殺されたことを引き金に起きた第一世界大戦は第二次世界大戦に比べて日本人の記憶に実感としてほとんど残っていないのが実情であろう。

しかしながら、その時代背景は今日本を取り巻く状況に酷似している。その意味で今一度第一次世界大戦を考察してみることは意味深いことであると思う。ひとつは今でもボスニア・ヘルツェゴビナでは英雄視されるボスニア系セルビア人の暗殺実行青年ガヴリロ・プリンツィプの存在。初代韓国統監を務めた伊藤博文を暗殺した安重根の記念館が今年1月に中国のハルビン駅に開設されたことを想起させる。ガヴリロ・プリンツィプのオーストリアでの存在は、身ごもっていた皇太子妃をも殺した残虐な人間として憎しみの対象となっている。暗殺グループは7人で構成されていたといいガヴリロ・プリンツィプは下っ端の実行犯。決して発作的に銃弾を向けた個人の単独事件ではない。それまでセルビア人の感情を逆なでする事柄が色々あったと記されている。だからといって暗殺が正当化されるはずもないが、事が起こってからではもう遅い。事件が起こった理屈付けは必ずできる。正当性があろうがなかろうが可能ではある。勝てば官軍、負ければ賊軍のごとく歴史的強者がその理屈を正当化していくだけである。日本と中韓の間に横たわる歴史認識という名の政治的かつ感情的なしこり。北朝鮮やロシアも一筋縄ではいかない相手ではあるが、会話があるという点ではまだマシである。偶発的な事件が起きないように最大限の外交努力が必要である。そして万が一その偶発事件が起きたら、早く火消しに回らなければならない。誰しも戦争は望んでいないが、ギリギリのせめぎ合いが起きうることは想定しなければならない。

1年以内には終結するであろうと大方が予想した第一次世界大戦は4年以上続いた。戦死者は1000万人以上と言われる。皆、なんて馬鹿なことをしたんだと思った。オーストリアには兄弟国のドイツやイタリアが加担した。当時新興国として台頭してきたドイツに我が物顔で欧州の地を荒らされては堪らないと、フランスやイギリス、ロシアがセルビア側についた。日本も日英同盟を盾に連合国側について、ドイツが権益を持つ青島や、植民地支配していた南洋諸島を攻略した。結果は皆さんご承知の通り連合国側の勝利に終わるが、4年以上に亘る大戦で欧州本土は荒廃し、第二次世界大戦でも同様に大きく傷ついた経験を経て、1950年に発表されたシューマン宣言を発端に、ヨーロッパは結束していかなければならないという意識が広がり、復興と平和の実現を目指した欧州連合の形成に繋がっていく。当時の新興国ドイツの存在は今の中国を想起させる。大国中国がこれまで虐げられ、失ってきたものを取り返そうという中華思想が頭をもたげてきた状況とドイツの反ユダヤ思想は底流で同質のものがあると感じられないであろうか。これが二つ目のポイントである。

不戦の誓いは日本の平和憲法で高々と謳われている。昨日、臨時閣議で政府は集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈変更を決定した。私見としては解釈というグレーな対応ではなく、憲法改正そのものの議論をすべきであるという立場ではあるが、政治の世界は裏も表も入り乱れ、単純ではないし、危急の事態に備え、時間をいたずらに掛けている場合でもない状況かもしれない。某政治家が「集団的自衛権の行使とは(行先のわからない)アメリカが運転する車の助手席に乗るということですよ!」といっていたが、喩としてはわかりやすい。車に乗るのが安全か、乗らずに歩いていくのが安全かは、その状況環境認識に寄ろう。不戦の誓いだけで自国の国民の生命・財産が守られると思うのはいささか楽観的に過ぎる。戦争を起こさないために事態に向かい合うのであって、背を向けたのでは後ろから斬りつけられる。その危機意識あっての議論であるべきで、どうぞどこからでも斬りつけてきなさい、潔く世界平和を叫んであの世にいきますと宣言する国家に残る人がどのくらいいるのだろうか。これまで何もしないで今の日本の平和があるわけではない。これが三つ目の視点である。

日本は第二次世界大戦敗戦後、米国を中心とする連合国から全くの無力化を意図して占領されていた。ドイツが4年で占領を終えたのに対して、6年半も日本が占領下に置かれたのは、途中から戦略変更があったからである。1950年の朝鮮戦争でソ連の朝鮮侵攻があり、西側陣営の防波堤を日本に作らざるを得なくなってしまった。日本の警察予備隊を増強し、「武力を全く持たない」はずの日本に自衛権という名の防戦権を与えたのは他ならぬアメリカである。そこから日本の自衛隊の解釈は訳の分からぬ理屈付けに終始してきた歴史がある。最後の最後に自国を守るのは自国民である。敗戦後の歴史によって、日本の自衛権発動はその発想そのものを縛られてきた。今後、この縛りは変化していくものと思うが、当分無くなりはしないだろう。親日国を増やし、アメリカのみに頼る体制を徐々に変化させ、脅威と正面から対峙し、しかし必要以上の緊張を回避して、不戦の誓いが単なる「戦争反対」のシュプレヒコールにかき消されることの無いように、実効性のあるものにしていくことが平和への不断の努力であると思う。