イプシロン3度目の正直とMRJ3回目の開発遅れ

2013年9月18日 at 5:28 PM

宇宙航空研究開発機構(JAXA)とIHIエアロスペースが開発したイプシロンロケット試験機が2013年9月14日14時、2度の延期を経て無事に空へと飛び立った。当初は8月22日の打ち上げ予定であったが、信号中継装置の誤配線により延期され、同月27日の打ち上げ予定も自律点検装置がロケットの姿勢異常を誤検知したため、打ち上げ19秒前にカウントダウンが中止され、再延期されていた。私は27日のTV中継を見ていたので、管制塔のカウントダウンがZeroになっても噴射も水蒸気も轟音も出ない画面にあっけにとられていた。現場で発射を疑わずに長時間待っていた子供たちの不安な顔がとても印象的だった。

イプシロンロケットは、2006年度に廃止されたM-Vロケットの後継機として2010年から本格的に開発が始まり、全体設計に新しい技術と革新的な打ち上げシステムを採用することで、簡素で安価で即応性が高くコストパフォーマンスに優れたロケットを実現することを目的に開発され、最終的にはM-Vロケットの約3分の2の打ち上げ能力と約3分の1の打ち上げ費用(30億円以下)を実現することが具体的な開発目標だそうである。新たに開発した搭載点検系の機器と簡素な地上設備をネットワークで結んで自律点検機能を持たせることにより、数人とパソコン数台でロケットの打ち上げ前点検や管制を行うことが可能となり、原理的にはインターネットを通じて世界中のどこからでもパソコン1台(もう1台はBack Up)で全ての管制が可能とのことである(セキュリティ上から現実的ではないが)。

正直2回目の失敗をTV画面で見たときはガックリし、日本の技術はどうした?とその瞬間思ったが、新しい挑戦には失敗はつきもので、これから新興国がこぞって通信衛星を上げることになれば日本の技術力がコスト競争力をもって新しい市場を切り開くことになることを大いに期待している。逆にこれまでこういった今後成長が期待される新しい市場に日本の技術力のベクトルが向いてなかったのではないかという印象を持った。今後の商用化の中で今は日本が弱いとされるハッカー対策やセキュリティ対策を施して国際競争力のある、万全なシステムを構築して欲しい。リーダーの森田氏は打ち上げ成功後に「打ち上げるまでに異常対応の手順を100以上考えてきたが、それらがみな無駄になった」と笑顔で語った。

もうひとつの期待のビジネスであるMRJ(Mitsubishi Regional Jet)であるが、そもそもは2002年経済産業省が推進する事業の一つであった新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が提案した計画をベースとして、三菱航空機が独自に進める日本初の小型のジェット旅客機である。日本が独自の旅客機を開発するのはYS-11以来40年ぶりなので、航空機ファンならずとも期待は相当大きいものがあろう。

2008年に三菱航空機は事業化を発表し、9月の時点では2011年に初飛行、2013年に納入を開始する予定だった。1年後の2009年には胴体と主翼の設計変更に伴い初飛行を2012年第2四半期に、初号機納入を2014年第1四半期に見直した(実はJAXAも機体開発に協力している)。そして更に3年半後の2012年4月には、開発並びに製造作業の進捗の遅れから、試験機初飛行を2013年度第3四半期に、量産初号機納入を2015年度半ば~後半に延期になった。そして今年2013年8月22日には装備品について、パートナー各社と協力し、安全性を担保するプロセスを構築することに想定していたよりも時間が必要だとして3回目の開発スケジュール(試験機初飛行予定を2015年第2四半期に、初号機納入予定を2017年第2四半期に)の遅延を発表した。

実に事業化発表後5年間に初号機納入が4年も遅れたということである。素人目には飛行機を飛ばすのとロケットを飛ばすのは技術面から言えば、後者の方が難易度が高いと思うのだがどうだろう?しかし、事業化には多くのパートナーの存在があり、その関係者の一体感の強弱がプロジェクトの成否の大きなファクターになっているのではないかと推測する。企業で言えば共通の志・社内の風通し、社外との関係で言えば信頼関係・責任感。新たな挑戦に対して賛辞は惜しまないが、グローバルな連携が不可欠なプロジェクトが増える中、他山の石となる事例である。

台北紀行

2013年9月14日 at 5:23 PM

まだまだ暑い日が続いていますね。言い訳になりますが、暑さのせいですっかりブログの更新をさぼってしまいました。早く涼しくなって外へも繰り出したいですね。

今月の初週に台北を訪れました。出張では何十回となく訪問した台北ですが、観光する機会はほとんどなく、それまでは故宮博物館と北投温泉くらいしか行っていませんでした。

今回は3泊4日。一番の目的は私が社会に出たての頃に以降の生き方・考え方に影響を与えてくれた(私の中の)3聖人のうちのお一方に10年ぶりにお会いする為でした(他のお一方は私が駐米中に鬼籍に、もうお一方はご健在)。御年77歳になられるこの方からは自由奔放に生きるエネルギーを教えていただきました。今でも私以上にお元気で、10年の歳月を経てまたまたエネルギーを注入していただくことと相成りました。鬼籍に入られた方からはダンディズムを、そしてもうお一方からは論理的な思考を教えていただきました。いずれの方も私に教授したという意識はなかろうかと思いますが、若かりし頃の私が社会を生き抜いていく上で掛買いのない財産を勝手に頂戴したものであります。私自身成長していく過程で以降人生の基本的な教えをいただく方にお会いすることはなくなりましたが、若かりし頃にこういった方々にお会いしたことは紛れもなく今の私の存在を確かなものにしてくれています。感謝感謝です。

台北に滞在中、圓山大飯店、孔子廟、科学教育館、国民革命忠烈祠、228和平公園、龍山寺、中正紀念堂、淡水、象山、総統府、国父紀念館などを回りました。街々にあるお寺には常に参拝客が大勢訪れていて、その信仰心の高さに驚きました。地下鉄では博愛席というSiver Seatには空いていても若者は座りませんし、お年寄りにもすぐに席を譲ってあげていました。儒教の精神はきちんと受け継がれています。孫文(中国では孫中山)や蒋介石(台湾では蒋中正)の存在はあの銅像ほどの大きさがあるかどうかはともかく、少なくとも孫文の悪口を言う人には私は会ったことがありません。中華民国の建国の父の威厳はいささかも損なわれていることはありませんでした。(ちなみに私の卒論は孫文の辛亥革命を日本で支援した宮崎滔天の息子で、のちに各方面に多くの人材を輩出した東大新人会に所属した宮崎龍介という人の人物研究でした。宮崎龍介は1927年蒋介石と日中連携を意図して会談しています。)

国民革命忠烈祠は、誤解を恐れずに言うとすれば日本でいうところの靖国神社みたいなものです。辛亥革命を始めとする中華民国建国および革命、抗日戦争などにおいて戦没した英霊を祀る祠で、文烈士祠、武烈士祠約40万人余りが祀られています。実は安倍総理は3年前にここを訪れています。その当時は馬英九総統は総統府で歓迎レセプションを催し、中でも唯一忠烈祠に祀られている日本人の山田良政(辛亥革命に協力した日本人で1900年10月に清に捕えられ殺害された最初の日本人とされる)について安倍(当時元)総理は説明を受けたと報道されています。今回、私はそういった施設を訪れてそれぞれの国を、一部にはアジアの将来を想って英霊となった皆様に合掌してきました。

当時のアジア各国の知識人達は西欧列強にアジア分割植民地化されるという強烈な危機意識の中にいたと思います。孫文は1924年神戸で日本に対して大アジア主義の主張を呼びかけたことも、一方で日本政府内における欧米列強への対抗策が北進論・南進論であり、最終的には大東亜共栄圏という形に集結されていったことも、根っこは同じところにあったと思います(今回訪問した総統府内部見学では吉田松陰から井上毅までその思想が受け継がれたと流暢な日本語で説明された)。それぞれの人達の想いとは違った形で第二次世界大戦敗戦を日本は迎えます。勿論私は戦争を肯定する立場ではありませんし、歴史の事実は大事です。それにもまして、何が人を突き動かしたかが問題の本質であると私は思っています。これからも歴史を顧みつつ、将来がより良い未来となるように、今はぶつかり合って牽制し合っている東アジア諸国が前を向いて進んでいけないものかとの思いを新たにした台北訪問でした。