道徳の教科化を考える

2013年7月14日 at 1:24 PM

第二次安倍政権で道徳の教科化の方針が出されました。最初に私が抱いた疑問は道徳の時間がいつ無くなったんだろうというものでした。どうやら今でも週1時間の道徳の時間はあるようですが、教科ではないので教科書がなく、その貴重な時間も職員会議を理由に自習となったり、運動会などの行事の予行演習に充てられたりして実質形骸化しているようです。第一次安倍政権の2007年にも「徳育の教科化」の方針を打ち出したようですが頓挫してしまったようですから、安倍さんとしては今度こそ!という意気込みでしょう。

いじめ問題の対策の一環としての位置付けもあるようですが、いじめそのものは昔から至る所にあり、近年陰湿化・悪質化してきた面もあるかもしれませんが、一方でいじめられる側の抵抗力の問題やその周囲の対応にも大いに問題が潜んでいて、子供達だけの問題として捉えるべきものではなく、大人と子供の関わり合い、自分さえ良ければいいというような大人の社会が抱える問題も少なからず影を落としているものと思います。

私自身は道徳の教科化には賛成しかねます。教科ということは教科書があって、教師にこういった方向に導くようにといった指導要綱があり、点数化があり、どうしても恣意性を抑えることが非常に困難に思えるからです。しかしながら、道徳教育の充実は必須だと思います。今や一般教科は塾の方がうまく子供たちの好奇心を刺激して効果的に成果を出しているものと思います。そうは言っても「じゃあ学校なんてやめたら」という極論意見にも賛同できません。学校教育という中で培うべきものは学力以外にもあります。最近びっくりしたのはゆとり教育を経てきた20歳ちょっとの若者に泳げない人が多いということ。学校で水泳の授業はあったそうですが、泳げる子はプールの端から端へ順に泳がせて、泳げない子はロープで隔離され水を怖がらない程度の水遊びをやっておしまいだったそうです。船に乗っていてそれが転覆したら自力で救助が来るまで何とか生き延びる力まで養わなければ水泳の授業をやっても意味ないです。少なくとも私はそう思います。

道徳の時間(授業ではいけないです)も一つの題材を皆で議論しあって、色々な意見がああることを知り、それらを聞いて、自分の意見に修正点があればそれを行って、自分の考え方・他者との関わり方などを学ぶ時間にすればいいのです。人の痛みをわかるようになれば、少しはいじめは減っていくとは思うのです。妬みや恨みが醜いことも体感していってほしいですね。自分がより上を目指すのは良いとして、他者を貶めて自分が相対的に上がっても何も得られません。幼児の時に親の価値観で選択された色々な絵本を読むでしょう。これも道徳のはしりでしょうが、学校に入ってそれを学校に丸投げして良い子ができるのを期待するのは親として落第です。順番で行けば親が死ぬまで子供との関わりは続くわけですから、家庭内や課外の色々な機会を通じて親子共々成長していきたいものです。学校では同年代の人達との共通体験を通じた体と体のぶつかり合いや親以外の価値観を持った大人との意見交換を通じた関わりの中で、より自制心と社会性を持った大人に成長していく機会を提供できるはずです。

確か高校時代には「倫理」という授業もありました。倫理の意味は大辞林では「人として守り行うべき道」とあります。道徳よりも上等な感じがします。哲学の問いにも繋がる根源的な疑問が出てくるでしょう。道徳もそうですが、伝統的な日本の考え方を基礎に行っていくだけでは世界がこんなに狭くなった時代にそぐわないものもあるでしょう。倫理の時間に世界貿易センタービルを襲ったアルカイダの911事件を議論するのもいいでしょう。1時間でひとつの結論に行き着くなんてありえません。それぞれがどう考え、それぞれがいくばくかの自分自身の血と肉になればそれで良しです。自分の時間でもっともっと深く探究することも結構。物事を考える取っ掛かりになる程度が道徳の時間であり、倫理の時間であると思います。

道徳は戦前の修身が大本になります。全教科のうち最上位に位置付けられたのが修身です。植民地戦争が激しさを増す中、軍国主義下で政治色を強め、忠国愛国一色に染められてしまいましたが、政治利用されることなく道徳の時間が復活してくれることを願います。教師だけにその任を負わせることなく、経験豊富な社会人にも参画を求めていくのはアイデアとしてあっていいと思います。